マロの止まらない京都観光(十三)海が見たい
氏真さんの京都観光二十四日目~。
海を見たいな~。
霞の海に浮かぶ山が島のようだ。
水のない滝。
和歌の分からないバカなんです。
「今日は海を見に行くぞ」
二月十九日の朝、氏真はそう言い出した。
「何ですと!?」
弥三郎は驚いて聞き返した。京から海まではどの方角に行くにしても一日では行けない。
「そう驚く事ではない。愛宕山の向こうに行けばそこから海が見えると言うのじゃ」
「ああ、なるほど。あ、いや、それでも随分な遠出になりまする」
「よいではないか、戦ではこれしきの事ものともせぬであろう」
「御意」
弥太郎がキリリと引き締まった顔で答える。
「うむうむ。侍たる者そうでなくては。弥三郎もよいな」
「はあ」
氏真に侍の心がけを説かれても感じるところはないが、弥太郎に同意された氏真はもうその気になってしまっているから嫌とは言えない。
木下の宿から西に進み、清滝川を渡り参道を通って愛宕神社に来るだけでもう三里も歩いて山を登った。愛宕神社の周辺には雪が降っている。しかし今日は清滝川で禊ぎをしないだけましだった。
さらに雪の山中をさまよいながら半里西に歩くと小さな集落に出た。土地の者に地名を聞くと、樒原という。
「ほう、樒原とな。『愛宕山、しきみの原に雪つもり、花つむ人の跡だにぞなき』という歌があるが春でも雪が降っているというはまことであったな。うむっ、一首浮かんだ」
杉村を小さゝに下る山風の樒か原は雪そ打ちる(1‐155)
樒原の者に聞くと、ここから半里ほど東に戻った愛宕山と地蔵山の間で西方を展望でき、晴れていれば和泉灘も見えると言う。すでに昼を過ぎていたのでしばらく民家で休ませてもらってから土地の者を案内に頼んでその場所まで行くと、幸い雪も止み、霞に覆われてはいたが西方を眺望できた。
「あのあたりが和泉、あのあたりが河内か。あそこが摂津か。おお、川が見える。海が見えるような気がする。山々も川も海も霞の上に浮かぶようではないか」
そういう見方もあるか、と弥三郎は思ったが、弥三郎には海は見えなかった。そしていつものようにあれが来るのだろう。
「うむっ、一首浮かんだ。やまいくえ、うみもながれもめのまえのお、かすみにうかぶう、おちこちのそらあ……」
氏真が満足するまで眺望を楽しんだ後、一行は愛宕山を通って帰った。途中高雄山を遠望できた。
「おお、高雄山では嵐が起こっているのではないか。白雪に覆われた嶺が霞を突き抜けて見えておるわ。うむっ!」
山を下って清滝川を渡ろうとすると、氏真が川辺に下りたがるのでやむを得ず従った。
氏真は川の水に手を入れて、
「おお、冷たい! 清滝川の水は春なお冷たさに手が凍るぞ。」
と子供のように喜んでいた。
そしてしばらく耳を澄ませて何かを聞いている様子だったが、
「川の流れの音に混じって石が転がるような音が聞こえないか? これは雪解け水に混じって流れる氷がぶつかり合って立てる音であろう。うむっ! 一首浮かんだ」
鋭い洞察力というか妄想力というかは分からないが、よくそんな事を思いつくな、と弥三郎は少し感心した。しかし、多芸多才な殿様がこの才能を戦やまつりごとにもっと使ったら領国を追い出されなくて済んだんじゃないか、ともまたもや思ってしまった。
霞わたるひまに和泉河内摂津国みゆると云
山幾へ海も流もめの前の霞にうかふ遠近の空(1‐156)
外よりも嵐立らむ高尾山霞を出る嶺のしら雪(1‐157)
手もさゆる清滝川の春の水石はしる音や氷なるらん(1‐158)
「改めて嵯峨の歌枕を見たい」
二月二十日は氏真の希望で嵯峨に行く事になった。昨日も愛宕山登頂で通りかかった所だからそのついでに見て済ませればよかったのに、と弥三郎は思うが、主命であるから従うしかない。
まずは二尊院を再訪した。数日前に一度訪れたばかりだが、
「今日は定家の小倉山荘の跡を見よう」
と氏真が言い出し、今度は和歌ゆかりの古跡を散策する事になった。
定家の小倉山荘も京の都の至る所にあるような気がして、元から和歌に興味がない弥三郎はますますありがたみを感じられなくなっている。
しかし氏真の受け止め方は違うようで、二尊院から小倉山を眺めて感慨深げにため息をついて見せる。今日は霞が濃いので小倉山の麓に特に何が見えるという訳ではないのだが。
「はあ、すそ野が見えぬほどの霞も定家ゆかりの土地であるせいかもののあわれを感じられるのう。うむっ!」
「おお、霞の中でウグイスが鳴いておるな。小倉山といえば牡鹿鳴く秋の歌が多い。貫之は『夕月夜、小倉の山に鳴く鹿の、声の内にや秋は暮るらむ』と詠まれたが、春のウグイスもなかなかのものではないか。うむっ!」
結局やる事はいつもと変わらない。氏真は目の前にないものを歌に詠んで満足げである。若い娘はかわいい物をかわいがる自分にかわいらしさを感じて気分がよくなるというが、氏真もここにはない王朝華やかなりし頃を慕う風流人を演じる事が快いのかもしれない。そう弥三郎には思われた事だった。
下向道に二尊院の辺こゝかしこ古跡あり
小倉山すそ野もしらぬ霞たに所からとや哀なるらん(1‐159)
を鹿鳴秋はあり共をくら山霞む麓の鶯の声(1‐160)
定家の小倉山荘の庭の跡という池のある所を訪れてみた。そこにいる土地の者も詳しくは知らなかったが、氏真は満足そうである。
「今の世も敷島の和歌を伝える流れは絶える事がない故こうして定家の庭跡も伝わっておるのじゃ。うむっ、一首浮かんだ。」
定家山荘の跡庭なとゝ云人もおほつかなし
今の世も流は絶し敷島の跡懐かしき池の古庭(1‐161)
二尊院を出た後少し南に下って戸難瀬の滝という歌枕を探して行ってみた。
「戸難瀬の滝といえば水面を埋め尽くすように流れる紅葉じゃ。公長は『大井川ちるもみじ葉にうずもれて、戸難瀬の滝は音のみぞする』と詠んだ。俊成は『戸難瀬より流す錦は大井川、筏につめる木の葉なりけり』と詠んでおるし、『嵐吹く山のあなたのもみじ葉を、戸無瀬の滝におとしてぞ見る』というのは経信であったな。そうそう、定家は『戸難瀬川、玉散る瀬々の月をみて、心ぞ秋にうつりはてぬる』と詠んでおったぞ……」
途中氏真は上機嫌に古歌の知識をひけらかすが、たどり着いて見ると戸難瀬の滝という傾斜には水が流れていなかった。
「ここが戸難瀬の滝じゃと!?」
氏真はそう言ったきり絶句した。数瞬の間小倉山から吹き下ろす風の音だけが聞こえた。
「水が流れておらぬのか。坂に川筋が残るばかりではまるで木落としのようだのう。戸難瀬の滝の事を尋ねてみても答えるは山風ばかり……。うむっ、一首浮かんだ。もみじばのお、ふちはいずくぞはるがみすい、となせときけばあ、やまかぜのこええ……」
氏真は相変わらず目の前にないものを歌にしてしまう。氏真の和歌はつまらないものや目の前にないものでも機転を利かせてどうやってそれらしく歌に詠むかという遊びなのだな、と弥三郎は思った。しかし、春霞と山風が出てくるだけで何がどうという事はないじゃないか。
となせの滝水はなし木おとしのことく也
紅葉はの淵はいつくそ春霞となせと聞けば山風のこゑ(1‐162)
戸難瀬の滝跡のすぐ北には野宮神社という名所があった。樹皮がついたままの木を使った珍しい鳥居が建っている。
「ここは伊勢神宮に仕える斎宮が伊勢に向う前に心身を清めた所だというぞ。源氏物語の賢木にも出ておる。六条御息所が斎宮となった娘と共に伊勢に下向する前にここにいた故源氏が訪れて別れを惜しむのじゃ」
近くのとある寺も訪れたが、折しも涅槃会の時期なので、釈迦が娑羅双樹の下で入滅した様を描いた涅槃図を掲げてある。釈迦最後の教えが記された仏遺教経を僧たちが読誦するのが聞こえる庭で一行は桜の花を見つけた。
「涅槃図の前に桜の花が咲いておる……。散る花は娑羅双樹に代わって我らにみ仏の教えを伝えようとしておるのか……。心の花もその昔のようにみ仏の形見の教えを受け継いで咲かせていたいものよのう。うむ、一首浮かんだ」
野の宮芹河なとゝと云所もあり
涅槃像かゝれる寺庭に花もあり
うつし置法の形見の春の跡心の花も昔ならなん(1‐163)
氏真は涅槃図を見た後帰ろうと言い出し、途中竜安寺と等持院に再び立ち寄った。
折しも雨が降り出す中、氏真は竜安寺の鏡容池のほとりで水面を見つめてうつむきため息をついた。
「どうなされました?」
弥三郎は少し気になって氏真に聞いて見た。
「春雨が降る空の下で空しく年老いてしまった我が身は悲しいものよ……。そんな悲しみがこの池のさざ波が絶えず寄るように我が心に寄せて来るのじゃ……」
「お察しいたしまする……」
弥三郎はそう言って慰めた。国を逐われた後の氏真の長年の苦労や悲しみは弥三郎にも分かる。
と、氏真はうつむいていた顔を上げて、
「うむっ、一首浮かんだ。はるさめのお、そらにふりにしかなしさのお、いまもたちよるいけのさざなみい……」
とやってのけた。
「御屋形様の悲しみが伝わるよいお歌にござりまする」
弥太郎がいつものようにほめ上げる。
「うむうむ、よう言うてくれた」
氏真は上機嫌である。
なんだ、結局何につけても歌にしてやろうと待ち構えているんじゃないか。この殿に本当に悲しいという事があるんだろうか。折角まじめに慰めたのに。弥三郎は芝居がへたな役者を見るような目付きで氏真を横目でじろりと見た。
氏真はそれに気付かぬ様子で
「おお、糸桜が美しいのう」
と境内の枝垂桜に目を転じてさっきの悲しみはどこかへおいやって喜んでいる。
氏真の演技を一度は真に受けて騙された思いの弥三郎は興ざめした表情で、
「もうそろそろ日が暮れまする」
とだけ言った。
「うむ? そうだな、そろそろ帰るか。その前に等持院もまた見て行こう」
一行は等持院に立ち寄ったが最初に訪れてから寂れた様子に何も変わりはないのですぐに出た。
馬上氏真は何事か考えている風であったが、突然歌を詠じ始めた。
「くるるとてえ、ながめすつるもおもかげのお、たちまどわるるう、いとざくらかなあ……。竜安寺の糸桜の美しい面影がまぶたにまとわりつくようでこの一首が浮かんだ」
弥太郎がほめ上げる前に弥三郎が反応した。
「うまいものですなあ、それがしなら『じっくり見たかったが時間がなくてざーんねん』位の言葉しか思いつきませぬ」
「うむう、そなたはそうであろうな」
氏真を持ち上げたつもりだった弥三郎は興ざめした氏真の冷ややかな言葉に少し口をとがらせたが、悟られまいと表情を消して歩き続けた。
京に来てから二十日余り経つが、数日に一度人に会う以外はひたすら名所巡りをし、歌を聞かされる日々を過ごしている。こんな事、いつまで続くんだろう。信長に会うのは怖いが、こんな事に何の意味がある……。
弥三郎がそう思い始めながら馬を歩ませていると、
「うむっ、一首浮かんだ。あおみたつう、しずがかせぎのやまばたけえ、われあるじとやきぎすなくらんん……」
氏真がまた一首かました。
山の畑でキジが鳴いているだけじゃないか、と思って見ると、そのキジも氏真の歌を聞くと愛想を尽かすように飛んで行ってしまった。
「我ながら次々と歌を詠んでしまう。しかしそれに何の意味があるかと思う事があるぞ」
詠んだ歌を懐紙に書きつけながら氏真は誰にともなく言うが、微笑んでいる。言葉とは裏腹に多作ぶりを自慢したいだけなのだろう。
「いえいえ、そこが我ら凡俗と生まれついての歌人との違いなのでござりましょう」
弥太郎は氏真が期待しそうな返事をする。
「そうか? しかしこうやって色々書き付けても紙の無駄ではないかと思う時もあるのじゃ。西行法師や貫之、定家のように後の世の人に読んでもらえるか分からぬ」
「いえいえ、風流の分からぬ心卑しき凡俗はともかく、心ある人は御屋形様の書かれる物を珍重に思い賞翫する事間違いござりませぬ」
「そうか、そうだとよいな。こうして日々細々(こまごま)と歌と詞書をあれこれ書き付けるのも後世に伝えたいという想いもあってしている事。心ある人が分かってくれるとよいな」
「間違いござりませぬ」
弥三郎にはそう語り合っている氏真と弥太郎がこちらを時折ジロジロ見ているように見える。二人が自分の事を凡俗とか心卑しいとか言っているように思えてならなかったが気付かぬふりをしていた。ええそうですとも、それがし和歌の分からないバカなんです。
野つたひ竜安寺に寄糸桜咲等持院見物雨少ふる
春雨の空にふりにし哀さの今も立よる池のさゝ波(1‐164)
くるゝとてなかめ捨るも面影の立まとはるゝ糸桜哉(1‐165)
青みたつ賤か稼の山畑を我あるしとやきゝす鳴らん(1‐166)
『マロの戦国 ‐今川氏真上洛記‐』第16話、いかがでしたか?
本作の中心部分となる、
本作の中心部分となる、
本作の中心部分となる、
氏真さんの京都観光二十四日目~二十五日目です。
今日はまた愛宕山を越えて海を見に行きました。相変わらずすごい行動力です。
氏真一行は在京百日の間に三日以上休んだ事はないのではないでしょうか。
しかし、昔の歌枕を探しても大体空振り。にもかかわらず氏真さんはくじけずに歌を詠みます。
弥三郎の皮肉な気分が高まります。多分、今川家の中にも弥太郎のように氏真と同じ風流志向の人と、正直付き合いきれないと言う人がいたでしょうね。
ただ、今までの氏真詠草と詞書と旅程からお分かりのように、氏真は後世言われるような暗愚でも惰弱でもありません。
ものすごい体力があって、次々に歌を読む頭があるのがお分かりになると思います。、ただし、いわゆる「KY」な人だったんで、着き従う人々が根負けしてしまうような人だったのではないでしょうか。
ぼくは最後までお付き合いしますよ。
こんなブログもやってますので見てくださいね!
大河ドラマ「おんな城主直虎」を生温かく見守るブログ
http://ameblo.jp/sagarasouju/
本作は観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)所収の天正三年詠草の和歌と詞書に依拠しながら氏真の上洛行の全行程に迫ります。