マロの止まらない京都観光(十)
氏真さんの京都観光二十日目~。
今日も絶好調! うむうむっ!
動物がうるさくて眠れないよ~。
八幡宮の由緒……あれっ!?
名君氏真は民を思う……。
家康の黒歴史。
二月十五日。氏真一行は石清水八幡宮参拝に向けて出立した。前日ゆっくり休めたので氏真はますます元気である。
「石清水八幡宮は我ら今川氏にとっても氏神。初めての参詣故楽しみじゃ。よし、石清水八幡宮までの道すがら名の聞こえた所を見ながら行くぞ」
予想された事だがまた長い道中がますます長くなりそうだ。
宿を出ると堀川小路を南に下り、九条大路で西に曲がると東寺に行き当たった。東寺の山号は八幡山というと聞いて、
「八幡宮との縁も感じる故少し見て参ろう」
と氏真が言い出し参詣した。
弘法大師ゆかりの東寺は京の都が始まった頃からの王城鎮護の寺だが、百年近く前の一揆で火災に遭ってめぼしい建物は焼け落ちてしまい、いまだ完全には再建されていない。それでも朝焼けの中僧侶たちが熱心に勤行している姿を見て氏真は好感を持ったらしかった。
「百年前の一揆で堂塔が焼けていまだ再建ならずとはな……。仏法にとって戦国の世は闇じゃ。しかし、み仏に仕える御坊らの想いがいずれ天に通じて朝が訪れようて……。うむっ、一首浮かんだ。ふりにけるう、のりのしるしのくちやらでえ、そのあかつきをお、いつとまつらんん……」
さらに南に向かって半里足らず歩くと氏真は何かを探して東の方を眺め始めた。
「もうそろそろ深草が近いであろう。東に稲荷山や音羽山が見えてもよいのじゃが、この霞の中では見えぬか。心あてに思う事しかできぬな……。うむっ! 一首浮かんだ」
「春霞の向こう東の方には山科の地があるはずじゃな。『ものをこそ岩根の松も思ふらめ 千代ふる末もかたぶきにけり』という歌があったな。山科に住んでいた小野小町が藤原氏の専制で世も末という想いで詠んだというが、今となっては知る由もないのう。岩根の松といえば源氏物語の紫の上の歌もよい。『風に散る、紅葉は軽し春の色を、岩根の松にかけてこそ見め』というのじゃ。おっ、あの音は松風ではないか? 松風が聞こえる……。うむっ! 一首浮かんだ」
一行は伏見、竹田を通り、鳥羽田を通ってさらに南へ進んだ。
「鳥羽田はやんごとなき人々が狩りや遊びを楽しんだところなのじゃ。院が住まわれた離宮もあったというぞ。ここも霞がかかってよく見えぬ。今ではどこに何があるという訳ではないがのう。うむうむっ!」
やがて淀川を渡り、いよいよ八幡宮付近の宿に入る。
「淀川には綱を手繰る者たちもおらぬか……。ここの川長は網は引かずに霞を引いておるのかのう……うむうむっ!」
八幡参詣道すからとへは名に聞し所なれと
もよりて見る見ねはそれともなし霞さへ立わた
りて中中名計書付て覚るほど也宿にては
しはしよみつゝく東寺を鳥羽へ出
ふりにける法のしるしの朽やらて其暁をいつと待らん(1‐120)
心あての霞計そ深草やをとは稲荷の山端もなし(1‐121)
春霞たてるあなたや山科の岩ねの枩か風聞ゆ也(1‐122)
民の屋も緑につづく川沿いの茂るや竹田伏見成らん(1‐123)
なく雁の過る鳥羽田の面影も霞こす日のうつる山端(1‐124)
まこも草下もえすらし行水のみまきの里そ青みわたれる(1‐125)
峯の寺里も河とも絶々にあらぬ景色の立かすみ哉(1‐126)
みな際の煙もなびく青柳に家の霞める遠の山きは(1‐127)
立つれて綱手くるてふ網も無し霞を引か淀の川をさ(1‐128)
又もこは月の桂の河せ舟霞隔ててあかぬ名残を(1‐129)
氏真一行は夕方に石清水八幡宮の北にある放生川を背にした宿に到着した。上京木下の宿から石清水までは五里ほどだから寄り道しなければ昼過ぎには着いたはずだ。だがいつもの事だが氏真があちこち見て回り、歌を詠むのに時間を費やしたのでこんなに遅くなってしまった。氏真は霞ばかりが見える中で想像をたくましくして、十首も歌を詠んだ。
しかし今日はここで前泊できるのでまあいいか、と弥三郎は思った。いつもの氏真なら早朝出立して日帰りしようとする事もあるから。
道すから時うつりて夕に宿に着
春の夜も月影すこし嶺の名の鳩吹秋の風と計に(1‐130)
川沿いの宿そのものは風情のある所だった。宿のすぐ北にある放生川は毎年八幡宮の神事として殺生を戒めるために魚鳥が放たれる放生会が執り行われるのでこの名が付いたとの事だった。
しかし、夜になるとふくろうやキツネの鳴き声が激しい。家臣たちは昼の疲れですぐに寝入ったようだったが氏真はなかなか寝付けなかった。氏真は今日道中の名所で詠んだ歌と宿で名所の名を基に改めて詠んだ歌をまとめて書き付けたが、その後も夜更けまでしばらく鳴き声が止まなかった。戸を明けて見ると月が澄み渡っていた。鳥獣も月に心が澄むのだろうか。氏真はその想像から思い浮かんだ一首を書き加えてからようやく床に入って休んだ。
彼宿のうしろ放生川あり山に月ふけて
ふくろふきつねなど声すさまし
みたらしの月更わたる山風に鳥獣も心すむらし(1‐131)
二月十六日、氏真一行は早朝に石清水八幡宮に参詣した。
「石清水は放生会も知られておるが、三月の臨時の祭りも風情があってよいと聞くな。元々は平将門の乱のみぎり調伏のために始まったというがな。清少納言も愛でたというぞ。昔の祭りには勅使が参られて冠に藤の花を挿し、舞人達は桜の花を冠に挿したとか……。挿頭の花というそうな。みやびな事よのう……」
氏真はまたどこからか仕入れて来た蘊蓄を披露するが、例によって目の前に何かがあるわけではない。臨時祭の催されるという三月にはまだ早く、桜の花もまだ見えない。
それは氏真も気になった事らしかった。
「……とはいえ桜の花影はまだなく、冠に花を挿した人影もないか……。まあ、峯の松の枝の緑は春を迎えて色艶を増しているようだがのう……。うむっ、一首浮かんだ」
おそらくは桜の花咲く八幡宮を期待して当てが外れたのだろうが、氏真は松を見かけて風流心を掻き立てようとしている。
「八幡宮の松も多くの歌に詠まれた歌枕じゃ。松も老い、またもこけむす石清水、ゆくすえ遠くつかえまつらむ。これは貫之のお歌じゃ……。『をとこ山、よろずよかけてたねしあれば、きみがためしにおいあいの松』というのは源家長であったかな。鎌倉将軍実朝も『八幡山木だかき松のたねしあれど、千とせの後もたえじとぞ思う』と詠んでおるぞ。いずれも君が代が千代万代に続くようにと祈った歌なのじゃ……。うむっ、一首浮かんだ。おとこやまあ、ちかいたえめやかみまつのお、たねをかぎりのよよのゆくすええ……」
「君が代の栄えのために仕える誓いを受け継がれる御屋形様の想いがよく詠まれておりまする」
「うむうむ。よう言うてくれた」
弥三郎は二人のやり取りを何気なく聞いていたが心に引っ掛かるものを感じた。源氏の氏神石清水八幡宮で平将門調伏から始まった臨時の祭りが好きで、帝に仕え続ける誓いの歌を詠む。風流一途に思える氏真には珍しいような。確か信長は平家だったはず、しかし朝廷を共に盛り立てて行くのだからそれでよいという事なのか……。
しかし普段と変わらずはしゃぐ氏真の様子を見て弥三郎はそんな事は忘れてしまった。
早朝に参詣申清水は峯陰也
石清水かさしの花の影もなし移る緑の嶺の松かえ(1‐132)
男山誓たえめや神枩のたねを限りの世々の行末(1‐133)
八幡宮の参拝を済ませた後も、氏真は歩き回る。ここもまた本殿以外にも数多くの摂社があり、堂塔も多いが、氏真は全部見たがった。その間に森の木々の間にひっそりと咲いている花を見つけてまた大仰に騒ぐ。
「おや、あれは何の花かのう? 初桜ではないか? うむっ、一首浮かんだ」
本社の外あまた社あり堂塔も又あり見
馴ぬ花ちとしほれて咲ゐたり
枩杉の木の間にまたき初桜井垣につくる花かとそ見る(1‐134)
ある堂に入って見ると、今度は梅の花を見つけて騒ぐ。
「あの花の盛りの梅を見よ。背後に見える放生川の川水がきらめいて梅に輝きを与えているではないか。うむっ!」
或坊中より見れは梅盛りにて見越に河あり
咲かゝる軒はの梅のひまもれて匂ひ出るか水のをち方(1‐135)
確かに悪い景色ではないが、弥三郎にはここまで事ごとに風流に浸るような数寄心はとても持てない。本当に好きなんだなあ、と少し、いやかなり辟易しながら思った。
八幡宮から北を眺めた氏真は今度は南に回って遠くを眺める。
「おお、霞の中の大和路は絵のようじゃ。山々が霞の海の中の浮き島のようではないか。うむっ!」
う治たはら大和路の山霞て絵のごとし
足引のやまと路かけて浮嶋の霞を過る水の遠近(1‐136)
八幡宮のある男山で鳥居を少し離れて眺めた氏真はまた興がる。
「この動きのない静寂な八幡宮の宮居のたたずまい、何とも言えぬなあ……。見てみよ、木々の梢に所せきばかりに鳥が巣をかけておるが、静かなものだ。八幡の神のお恵みで安らかに暮らせておるのであろう。うむっ!」
「ここから見える放生川を朝方見てみたら、底が見えないほどに多くの魚が泳いでいたぞ。
幾代にも亘って放生会で魚を放してきたからであろうな。これも神のお恵み、ありがたい事じゃ。うむっ!」
それは大げさだろう、自分も放生川を朝方見たが、そんなに魚はいなかったぞ、と弥三郎は思ったが、もちろん何も言わない。
「八幡の神のお恵みは魚鳥だけにあるのではないぞ。木々の間から麓の川に見える家々を見よ。お宮を巡る川水の恵があって、出入りする民が自然に集まりその家々が軒を並べているのじゃ。うむっ!」
今日今まで聞いた中でこの話だけは弥三郎の心に少し響いた。氏真は民百姓の暮らしを思って領国の潅漑を進めてくれた事を思い出したのだ。特に遠江棚草の百姓は氏真が用水を整えてくれた事に感謝し、いささか大げさだが氏真を「今川大将軍」とまで呼んでいたと聞いた。徳政令もよく出して、貧民の借銭や年貢を帳消しにする事もあった。露骨な人気取りと言えばそれまでだが、おかげで大勢の者がそれぞれに晴れ着をこさえて風流踊りを楽しむまでになったのは事実だ。年貢を取り立てられなくなった侍や、そんな余裕のない甲斐や三河の隣国には嫌われたが。
そういえば、信玄と家康の駿河攻めは侍と百姓の戦いでもあった。内政ばかりに力を注ぎ戦で領地を増やさない氏真から多くの重臣達が離れて信玄や家康について行ったが、駿河の安倍川や遠江の引佐、堀川などでは百姓達の一揆が氏真方に加わって激しく戦ったものだ。
特に氏真の祖父氏親の頃から開墾を奨励されて保護されていた浜名湖周辺の農民たちは、他国から流れて来て新田を開いた侍たちを中心に堀川城という城まで築いて徳川勢に刃向った。しかし必死の抗戦も空しく城は落とされ、激怒した家康の命で立て籠もった百姓達は老若男女を問わず撫で斬りにされて、晒し首にされるという無慚な最期を迎えたのだった。後になって家康が氏真を浜松に迎え入れたのも、そうする事で自分に懐かない民の心を和らげる狙いもあったかもしれない。
氏真は育ちがよく風流心豊かで民と共に安穏で風流な暮らしを求めたわけだが、それがかえって仇となって国を失い、自分も所領を失って今日は思いもかけず都で名所巡りに付き合わされている。氏真は楽な殿様だが、戦乱の世を大名として生き抜くにはふさわしくないのだろうか。
ついそんな思いを巡らしてしまっていた弥三郎は、不意に氏真に声を掛けられて我に返った。
「腹が減ったな」
「おお、これは気が付きませず申し訳ござりませぬ。中食にいたしましょう」
此山には鷺鴈鵜巣をかけて梢せき計也
麓の河家家木の間に出
うこきなき宮ゐもしるし男山鳥驚かぬ木々の梢に(1‐137)
幾世へて生るを放つ河水や数そふ魚の底見えぬ迄(1‐138)
めくり行水の遠近をのつから出入民の軒そ並へる(1‐139)
『マロの戦国 ‐今川氏真上洛記‐』第13話、いかがでしたか?
本作の中心部分となる、
本作の中心部分となる、
本作の中心部分となる、
氏真さんの京都観光二十~二十一日目です。
今日は道中から宿で寝るまで十二首もの歌を詠んだ様です。すさまじい作歌パワーですね。
しかし、数が多い代わりに質がイマイチかと。
仏法の夜明けを思う一首は氏真さんの平和への願いがこめられているようです。
夜に入ってまた月を題材に二首。氏真さんは月をこよなく愛しますね。同じ空の下、あの人と同じ月を見上げている、といった気持ちも秘めていたのでしょう。
八幡宮の臨時祭は時期が早く、今日も氏真さんはないものを歌に詠みました。
臨時祭は平将門調伏から始まったそうで、氏真さんはやっぱり源氏だという自意識がありそうです。
愛宕山でもそうでしたが、氏真さんはここでも民衆の生活を思いやる一首を詠みました。やっぱり「いい人」なんでしょうね。
そして、遠江侵攻での家康の黒歴史。気賀一揆が立て籠もった堀川城では、どうやら城兵は皆殺しだったようです。後の徳川御用達資料『武徳編年集成』では、城兵七百人を赦免したとしていますが、同時代の『三河物語』では「男女共になで切」と明記してあり、地元ではこの殺戮で付近は女子供ばかりの里になったという伝承があるようです。
この部分は大河ドラマ「おんな城主直虎」でどう扱うか、興味深いところです。直虎の養子直政が仕えた家康ですから、単純な悪役にはできないでしょうが、かと言ってなかった事にするわけにはいかないでしょうから。
こんなブログもやってますので見てくださいね!
大河ドラマ「おんな城主直虎」を生温かく見守るブログ
http://ameblo.jp/sagarasouju/
本作は観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)所収の天正三年詠草の和歌と詞書に依拠しながら氏真の上洛行の全行程に迫ります。