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マロの戦国 ‐今川氏真上洛記‐  作者: 嵯峨良蒼樹
10/35

マロの止まらない京都観光(七)

氏真さんの京都観光十七日目。

今日はおじいさんゆかりの人が関わった場所へ。

信長とも接点のある懐かしい人と再会。


一夜明けて二月十一日、氏真一行は称念寺を出て、大覚寺の庭をゆっくりと散策した後付近の名所を巡った。最初に訪れたのは少し南にある栖霞寺(せいかじ)である。元々河原左大臣源融が別荘として建てた栖霞観をその没後寺に改めたという。

「源氏物語の松風で源氏が嵯峨に建てた嵯峨御堂はこの栖霞観を基にしているというぞ。河原左大臣のお墓もあるのか。何事にも執着すまいぞ、空しい世の仮の栖家は霞のようなものだとその名が教えてくれるわけだな……。うむっ、一首浮かんだ」

 境内には天竺から中国を経て日本に伝来したという「三国伝来の釈迦像」を安置する清凉寺もあり、今ではこちらの方が参拝者が多いようであった。


 嵯峨御堂栖霞寺と云此辺古跡多し

 何事か心とめましあたし世のかりのすみかは霞なりけり(1‐98)

 伝へ聞世々の御影もめの前に残るや法のをしへ成らん(1‐99)


 栖霞寺の次に二尊院を訪れた。釈迦如来と阿弥陀如来を本尊としているのでこの名がついたという。今川家が駿河を失うまで駿河に下向していた三条西実枝と縁が深い寺である。「この本堂も門もあの三条西実隆卿が再建されたというぞ。おじい様や父上が歌を見ていただいたというが、マロもお会いしてみたかったのう。本堂は後奈良帝、唐門は後柏原帝の勅額とはありがたいものじゃ。後奈良のみかどの御代には雪斎和尚が妙心寺住持となられた時に禁裏で和漢会を催したのじゃ……。ほうほう、二尊院の縁起は伏見宮貞敦親王と三条西公条卿が筆をお取りになったとな……」

 氏真の好奇心は尽きないようで、本尊の「発遣(ほっけん)の釈迦」と「来迎(らいごう)の阿弥陀」を参拝した後も、境内にある二条家、三条家、四条家、三条西家、鷹司家ら公家の墓所や、境内奥の土御門天皇、後嵯峨天皇、亀山天皇三帝の(みささぎ)まで参拝して回った。

 二尊院の旧跡の中でも法然上人の石塔が氏真の目を特に引いたようだった。

「ふむふむ、法然上人は二尊院であの一枚起請文を書かれたのか。あの熊谷直実もお弟子の一人だったと聞くぞ」

 そういうと氏真は感慨深げに西を向いた。夕陽が美しい。西方浄土に思いを馳せているのは弥三郎でも分かる。もう日が暮れ始めて暗くなろうとしているのを寺の灯明が照らしてくれていた。また来るな、と弥三郎が思っていると、

「おお、もう日の入り間近ではないか。このままではすぐに闇に迷ってしまいそうじゃ。み仏のお教えのともしびでこの入日を忘れさせてもらいたいものじゃのう……。うむーっ! 一首浮かんだ。にしといえばあ、やがてやみにやまよわまじい、いりひわすれよお、のりのともしびい……」

 まだ十分明るいのに、大げさだなあ、と弥三郎は思うが、風流人というのはこういうものなのだろうか。

「み仏の教えと西方浄土への御屋形様の想いが伝わるよいお歌でござりまする」

「うむうむ」

 氏真と弥太郎主従のやり取りをよそに、無風流を自覚している弥三郎がせかした。

「もう日が暮れるから迷わずに早く帰ろうという事ですよね?」

「うむ? うむ」


 法然上人石塔二尊院奥に立たり

 西といへはやかて闇にや迷はまし入日忘よ法のともし火(1‐100)


 一行は帰途に就いたがしかし氏真はもう一度大覚寺に行きたいと言い出し、大沢池をまた散策した。池のほとりの梅が盛りを過ぎようとしている花の影を池に落としている。

「大沢の、池の景色はふりゆけど、変わらず澄める秋の夜の月。俊成のお歌では秋の名所と聞いていたが、梅香る春の花の夕暮れも素晴らしいではないか。うむっ、一首浮かんだ」


 大学寺は池も遠し今の御寺見物

 秋にきく花の名残も大沢や汀の梅の影そうつろふ(1‐101)

 

「さあ帰りましょう」

 弥三郎が声をかけて一行は大覚寺を出たが、一里ほど歩くと

「おっ、あれなるは竜安寺(りょうあんじ)ではないか。一見したい」

 と氏真が言い出した。

 竜安寺の境内に入って見ると見事な池がある。名は鏡容池(きょうようち)というと聞いた。弥三郎が寺僧に駿河太守今川氏真が寺を見たがっている旨を告げると、しばらくして高僧と思われる年の頃七十余りの老僧と、三十過ぎに見える弟子らしい僧が池まで出て来た。

「おお、玄津(げんしん)和尚ではないか。あれから竜安寺に戻っておられたのか」

 氏真が懐かしげに語りかけると老僧は微笑んだ。

「御意。今は宗津(そうしん)と申します」

 月航玄津(げっこうげんしん)は妙心寺の大休宗休の法嗣で太原雪斎の弟弟子に当たり、自身も妙心寺四十四代住持を務めた高僧である。氏真が領国を逐われるまでは駿河清見寺の住職で、漢詩や連歌の嗜みも深く、連歌師紹巴が駿河に富士見に来た時には紹巴を招いて漢和の会を興行していた。

「この者は伯蒲慧稜(はくほえりょう)と申す弟子にございます。慧稜、今川様を石庭にご案内して差し上げよう」

「はい」

 宗津と慧稜は氏真を伴って奥の本堂に進み、白砂を敷き詰め石を配した庭園の前で立ち止まった。

「この石庭は『虎の子渡しの庭』とも『七五三の庭』とも呼ばれております」

「ほほう」

「この庭は見る者の心次第で如何様にも見えるもの。氏真殿にはどのように見えるかな?」

「ううむ……」

 朝から方々を歩き回って疲れているせいか、氏真には石庭は白砂と石を並べた物にしか見えなかった。

 その後氏真は宗津に今回の上洛で駿河復帰のために信長に会おうとしている事などをしばらく立ち話をしてから辞去したが、再び池の前で立ち止まり、周囲を見回した。

 すぐ東には有名な歌枕の衣笠山が見える。いつもより春の暖かさが感じられる中、風が吹いて衣笠山を覆っていた霞が晴れて行く。

「古今集にある『春のきる、霞の衣ぬぎをうすみ、山風にこそみだるべらなれ』という歌を思い出したぞ。あの業平の兄在原行平朝臣の歌じゃ。うむっ、一首浮かんだ」

「風が梅の香りを運んでくるではないか。おお、ウグイスの鳴く声も聞こえる。折りつれば、袖こそにほへ梅の花、ありとやここに鶯の鳴く。これも古今集じゃが詠み人知らずであったな……。誰の袖に梅の香が移ったのであろうか、今では分からぬが、昔が慕わしいものじゃ。あのウグイスも昔を忍んで鳴いておるのかのう……。うむっ!」

 

 帰路に竜安寺一見衣笠山霞わたる 

 春風のたつとしもなくをのつからぬくや霞の衣かさの岡(1‐102)

 鶯も春も昔と忍ふらむ誰か袖かきにさける梅かゝ(1‐103)

 

 一行はようやく竜安寺を出た。弥三郎も月航和尚に会えたのは良かったと思うが、いろんな所を歩き回って疲れた。今日はもう十分だろう、まっすぐ帰ってもいいではないかと思う。

 が、氏真は竜安寺の外の目と鼻の先に何があるかを知っている。

「お、そういえば等持院にはまだ参拝していなかったな」

 等持院は足利将軍の菩提寺である。氏真に気付いてほしくなかった物を見つけられて、背後の弥三郎は嫌そうな顔をした。

 数町ばかり歩いて等持院の門前まで来て、氏真が声を上げた。

「おお、松の木に桜の枝が宿って花を咲かせているではないか。しず心なく散る桜も松に宿って咲けば千年の花であるな……。うむっ、一首浮かんだ」

 弥三郎はあれは本当に桜なんだろうか、とだけ思った。

 等持院に入って見るが僧の姿が一人も見えない。誰にも咎められずに霊光殿に入って歴代将軍の木像が安置してあるのを見た後庭に出て見たが、庭も荒れていた。将軍追放後信長の勘気を恐れて誰も手入れしないまま荒廃するに任せている様に思われた。燕が巣を作ろうとしている建物の軒も朽ちている。

「ううむ……。人は来ず、残っているのは花と燕ばかりか、西行法師は『いにしへの人の心のなさけをば老木(ふるき)の花のこずゑにぞ知る』と詠まれたというが、今の人の心はつれないものよなあ……」

 氏真は思いを巡らすような表情を浮かべた。没落した将軍を見限った者たちや、自分を裏切った者たちの事を思い出しているのだろうか。

 氏真はややあって、

「ここに来ぬ人のつれなさをどう思うか桜の花の心を聞いてみたいものよなあ」

 と芝居がかった仕草で燕に語りかけた。

「うむっ、一首浮かんだ。とわばやなあ、こけむすのきのお、つばくらめえ、ひとはこずえのお、はなのこころをお……」

「つれない人の心を花と鳥に尋ねる寂しさが表れたよいお歌にござりまする」


 此春を千年の花とみゆる哉桜か枝に宿木の枩(1‐104)

 門前桜古木より生出るあり

 等持院将軍代々御影僧一人も見えす 

 軒朽庭ふりて次木(なみき)花漸咲つべし 

 とはゝやな苔むす軒のつはくらめ人はこすゑの花の心を(1‐105)


「ふう……」

 木下の宿に戻って夕餉を済ませた弥三郎は思わずため息をついた。信長や家康、敵の勝頼らは戦国の世の覇権を懸けて日夜鎬を削っているのに、氏真はほとんど毎日物見遊山に明け暮れている。そんな氏真に疑問を感じるから付き合うのに疲れるのだった。

 弥太郎も浮かない顔をしているので同じ想いなのかと思って聞いて見た。

「弥太郎殿、我らは日々こんな風に物見遊山にうつつを抜かしていてよいのかのう。どう思われる?」

「信長が上洛するまではいたし方ないのではござりませぬか。寺社とのつながりもいずれ役に立つ事がござりましょう」

 弥太郎は弥三郎の質問には興味なさそうに答えた。

「しかし、お顔の色が冴えませぬな」

「御屋形様の先ほどのお歌で反覆常ならぬ人の無情が頭から離れないのでござる……」

「なるほど。しかし、駿河を取り戻せればまたよい事もござりましょう」

「そうですな……」

 弥太郎は笑みを浮かべたが、少しさびしげであった。


『マロの戦国 ‐今川氏真上洛記‐』第10話、いかがでしたか?


本作の中心部分となる、

本作の中心部分となる、

本作の中心部分となる、

氏真さんの京都観光十七日目です。


源氏物語の嵯峨御堂のモデルとなった栖霞寺の名前を知って、氏真は深い感慨を抱いたようです。豪邸でありながら、霞のようにはかない所に住んでいる、という源融(光源氏のモデル)の命名に、無常の想いを掻き立てられた一首を残しました。


竜安寺では妙心寺四十四世も務めた月航玄津に再会です。この人は氏真統治下の駿河清見寺の住持でしたが、後に信長の妹お市と夫柴田勝家が執り行った織田信長の百ヶ日法要を執り行い、「天徳院殿龍厳雲公大居士」という法号を贈ったそうです。

また、月航和尚は信長の妹お犬の方(細川昭元の正室、宗倩尼)とも親しかったようで、その支援で妙心寺に霊光院という塔頭を開き、お犬の方が亡くなった後に描かれた肖像画に「讃」を遺しています。


氏真は歴代将軍の木造を安置した等持院で人の情けのつれなさを詠みました。やはり足利一門という意識は強いようです。

旧来の秩序を重んじる性向と仏教的倫理がが氏真の対外的な消極姿勢を産んだようにも思われます。


肉食系のイメージが強い戦国時代ですが、義元も氏真もそれを突き抜けた仏教的世界観と行動原理をもっていたのではないかと思われます。


こんなブログもやってますので見てくださいね!

大河ドラマ「おんな城主直虎」を生温かく見守るブログ

http://ameblo.jp/sagarasouju/


本作は観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)所収の天正三年詠草の和歌と詞書に依拠しながら氏真の上洛行の全行程に迫ります。



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