見殺し
太陽は金色に輝き、それは荒々しく波打つ水面を神々しく照らしている、元旦の日である。男は荒波に揉まれてもがき苦しんでいた。彼は、初日の出を背中に浴びながら寒中遊泳すれば、ご利益があるかもしれないと思ったのである。慣れ親しんだウェットスーツを着て、慣れ親しんだ海へ彼は飛び込んだ。しかし、一瞬の気の緩みが、彼を岸から遠ざけ、死の淵へと一気に叩き込んだ。自分の考えが浅はかだったと悔いても、もう遅い。どんな彼の自慢の泳法も役に立たなかった。彼は抵抗なくしては沖へ容易く流されてしまう状況にあった。例えるなら、水を入れたバケツの中の蟻のように、彼にはすがるものが無かった。次第に彼の体温は氷の一歩手前といっても過言ではない海水に芯まで奪い取られた。彼の存在は体温と共に海中へ溶け消え去ろうとしていた。死、という結論が恐怖さえ忘れる極限意識の導き出した答だった。彼は叫ぶ。やはり、死にたくないからだ。声は荒波に吸い込まれることも痛感した。しかし、彼はあらん限りの大声で叫び続けた。助けてくれ、と。
彼女には微かに悲痛の叫びが聞こえた。その方を見ると、岸から遠ざかり、今にも力なく流されようとしている男の姿があった。彼女ははっと驚き、太陽と照らし出された水面を写していたビデオを彼の方へ向けた。彼女の傍らにいた恋人も異変を察知した。
「ほら、あれ見て、バカだねえ」彼女は言った。
「海水冷たいだろ、何考えてんだあのバカ、ウケる」
彼らは嘲笑した。助けなど呼ばなくても良いと思った。バカは死ねばいい、自業自得だ、それに死に直面した人間を観察するのはこの上なく有意義な娯楽だ。彼らは無意識のうちにそのように思った。助けは自分ら以外の誰かが勝手にしてくれる、と確信していた。
「あ、あいつあんまり動かなくなってきたよ、死にそうなのかな」彼女は言った。
「自業自得じゃね」その恋人は歯を出して笑った。彼女も同感というように笑った。愉快だという風に、滑稽だという風に、何の呵責もなく彼らは笑った。
「一応119しとく?」彼女は言った。
「いいっていいって、別に呼ばなくても俺達が捕まるわけじゃないし。バカは死ねばいいんだよ」
「そうだよねえ」彼女はうなづいた。
男は海中へ引きずり込まれる心地がした。引力に逆らうだけの力が彼には残されていなかったのである。彼の脳裏にすべての記憶が瞬時に映されていった。懐かしさで死の恐怖が薄まっていった。ずず、と彼は海中へ飲み込まれた。ゆっくりと肺に海水が充満してゆく。窒息死の寸前で彼はとてつもない恐怖を抱き、そして絶命した。
「あ、見て見て死ぬ死ぬ」
ややあって、助けは来た。彼女らが去った後の助けであった。しかし、厳密に言えば助けではない。処理である。
私の弟の抜け殻は沖に浮かんでいた。押収された彼女らのビデオカメラの内容を見て私は思う。嗚呼、人を見殺しにすることは重い罪だろうか。私は見殺しにした彼女らを牢屋にぶち込んでやりたい。これは理不尽な要求だろうか…。