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私はもう、あなたの隣にはおりません

作者: 夢見叶

「君との婚約は破棄する」

 冷たい声が、広間に響いた。

 私――リーゼル・フォン・ヴァイスは、目の前の婚約者を静かに見上げた。

 ヴェルナー・フォン・シュヴァルツ公爵。この国で最も権勢を誇る公爵家の当主であり、氷の宰相と呼ばれる男。整った顔には感情の欠片もなく、灰色の瞳が私を見下ろしている。

「……理由を、伺ってもよろしいでしょうか」

 声は震えなかった。震えるほどの感情が、もう残っていなかったから。

「フィーネを虐めただろう」

 彼の隣で、栗色の髪の令嬢が目を伏せた。フィーネ・ラング。男爵家の令嬢で、ヴェルナーの幼馴染。

「彼女から聞いた。茶会で衆人の前で罵倒し、招待状を破り捨て、ドレスに紅茶をかけたと」

 フィーネが小さく肩を震わせる。まるで怯えた小動物のように。

「ヴェルナー様、私は別に……リーゼル様を責めたいわけでは……」

「いい。君は何も悪くない」

 ヴェルナーの声が、彼女にだけ柔らかくなる。

 私は、その声を聞いたことがなかった。一年の婚約期間で、ただの一度も。

「弁明は」

「ございません」

 私は答えた。

「……ないのか」

「はい」

 言っても無駄だと分かっていた。彼は最初から私の言葉を聞くつもりがない。そもそも、私がフィーネを虐めたという話自体、身に覚えがなかった。

 茶会で罵倒した? 私は社交が苦手で、茶会では隅で紅茶を飲んでいるだけだ。

 招待状を破り捨てた? そもそも彼女に招待状を送ったことがない。

 ドレスに紅茶をかけた? 馬鹿馬鹿しい。そんな幼稚なことをする理由がない。

 けれど、言わなかった。

「信じてもらえないのなら、弁明に意味はありませんので」

 ヴェルナーの眉が、わずかに動いた。

「……何?」

「婚約破棄、承知いたしました。本日中に荷物をまとめ、屋敷を出ます」

 私は深く一礼した。

「一年間、お世話になりました」


 自室に戻り、荷物をまとめた。

 元々、私物は少ない。亡き母の形見の髪飾りと、数冊の本、それから薬草学の手記。それだけだった。

「リーゼル様」

 扉の向こうから、低い声がした。老執事のグスタフだ。ヴェルナーの祖父の代から公爵家に仕える古参の使用人。

「どうぞ」

 扉が開き、白髪の老人が静かに入ってきた。

「本当に、行かれるのですか」

「ええ」

「……旦那様は、何か誤解をなさっているのではありませんか」

 私は手を止めた。

「グスタフ」

「はい」

「あなたは、私がフィーネ様を虐めたと思いますか」

 老執事は、深い皺の刻まれた顔でゆっくりと首を振った。

「いいえ。この屋敷で起きたことは、私がすべて記録しております。リーゼル様がフィーネ様と二人きりになられたことは、一度もございません」

「そう」

 私は小さく笑った。

「でも、その記録を旦那様にお見せしても、信じてはいただけないでしょうね」

「……」

「幼馴染の言葉と、婚約者の言葉。どちらを信じるか、もう答えは出ています」

 荷物を鞄に詰め終える。

「お世話になりました、グスタフ」

「リーゼル様」

 老執事が、深く頭を下げた。

「この屋敷の記録は、私が責任を持って保管しております。いつか、必要になる日が来るかもしれません」

「……ありがとう」

 それが何を意味するか、私には分かっていた。けれど、今はもう、どうでもよかった。


 公爵邸の玄関を出ると、冬の冷たい風が頬を打った。

「待て」

 背後から声がした。

 振り返ると、ヴェルナーが立っていた。長い外套を羽織り、灰色の瞳がまっすぐに私を見ている。

「……何か」

「どこへ行く」

「実家に」

「伯爵邸か」

「いいえ」

 私は首を振った。

「母の薬草園です。領地の外れに小さな家があります。そこで暮らします」

「一人でか」

「ええ」

 ヴェルナーの眉間に、わずかな皺が寄った。

「伯爵家に戻らないのか」

「父は再婚しましたので。継母と妹がおります。私の居場所はありません」

 だから公爵家との婚約を受けたのだ。政略結婚でも構わなかった。居場所があるなら、それでよかった。

 けれど、その居場所も失われた。

「……待て」

「もう、待つ理由がございません」

 私は一礼した。

「どうかお元気で、ヴェルナー様。フィーネ様と、お幸せに」

 振り返らなかった。

 背中に視線を感じたけれど、足を止めなかった。


 母の薬草園は、領地の外れの丘の上にあった。

 小さな木造の家と、手入れの行き届いた畑。母が生きていた頃、私はここで薬草の扱い方を学んだ。

「ただいま、お母様」

 誰もいない家に声をかける。

 埃を払い、窓を開け、暖炉に火を入れた。備蓄の食料を確認し、明日からの生活を考える。

 薬草を育て、薬を作り、近隣の村に売る。母がそうしていたように。地味だけれど、それで十分だ。

 誰かに必要とされなくても、自分の足で立てる。

 それだけで、十分だ。


 三日後、思いがけない客が来た。

「リーゼル様」

 扉を開けると、見覚えのあるメイドが立っていた。公爵邸で私の世話をしてくれていたエマだ。

「エマ? どうしてここに」

「お届け物です」

 彼女が差し出したのは、銀の紋章が押された封筒。

 王家の紋章だった。

「これは……」

「王妃様主催の茶会への招待状です。来週の土曜日に」

 私は封筒を見つめた。

「なぜ、私に?」

「分かりません。ただ、王妃様が直々にお名前を挙げられたと聞いております」

 エマの目が、真剣な光を帯びていた。

「リーゼル様。行かれた方がよいと、私は思います」

「……」

「屋敷では、フィーネ様がすでに女主人のように振る舞っておられます。旦那様も、それを咎めません」

 知っている。想像はついていた。

「でも」

 エマが声を落とした。

「グスタフ様が、何か準備をなさっているようでした」

 あの日、老執事が言った言葉を思い出す。

『いつか、必要になる日が来るかもしれません』

「……分かった」

 私は招待状を受け取った。

「行くわ」


 王妃主催の茶会は、王宮の庭園で開かれた。

 貴族の令嬢たちが華やかなドレスを纏い、春の花々の中で談笑している。私は地味な藤色のドレスで、その隅に立っていた。

「あら」

 甘ったるい声が聞こえた。

「リーゼル様ではありませんか。まだこの国にいらしたのね」

 フィーネだった。

 淡い桃色のドレスを纏い、扇で口元を隠しながら笑っている。その後ろには、取り巻きの令嬢たちが数人。

「ええ、まだおりますわ」

「あら、そう。てっきり恥ずかしくて国を出られたのかと思いましたわ」

 くすくすと笑い声が上がる。

「だって、婚約破棄ですものね。しかも理由が、私を虐めたから。ひどい話ですわ」

 私は黙って彼女を見た。

「本当に、ひどい方。私は何もしていないのに、ただヴェルナー様の幼馴染だというだけで、目の敵にされて」

 嘘だ。

 全部、嘘だ。

 けれど、私は何も言わなかった。言っても意味がないと、分かっていたから。

「でも、もう大丈夫ですの。ヴェルナー様が私を守ってくださいますから」

 フィーネが扇を閉じ、勝ち誇った笑みを浮かべた。

「そう」

 私は静かに答えた。

「それは、よかったですわね」

「……何ですって?」

 フィーネの目が鋭くなる。

「悔しくないのですか? 婚約者を奪われて」

「奪われた、とは思っておりません」

 私は首を傾げた。

「だって、最初から私のものではありませんでしたから」

 フィーネの顔が、わずかに歪んだ。

 その時だった。

「皆様、お静かに」

 凛とした声が、庭園に響いた。

 王妃陛下だった。

 銀髪を高く結い上げ、深い紫のドレスを纏った女性。この国で最も権威のある女性が、優雅な足取りで私たちの方へ歩いてきた。

「リーゼル・フォン・ヴァイス」

「はい、陛下」

 私は深く膝を折った。

「顔を上げなさい」

 言われるままに顔を上げると、王妃の碧い瞳が私を見つめていた。

「あなたの話を、聞かせてもらえるかしら」

「……私の、話ですか」

「ええ。シュヴァルツ公爵との婚約破棄の件について」

 庭園がざわめいた。

 フィーネの顔が青ざめる。

「陛下、その話は……」

「黙りなさい、ラング男爵令嬢」

 王妃の声が鋭くなった。

「私はリーゼルに聞いているのです」

 私は静かに息を吸った。

「陛下。私は、何もしておりません」

「何も?」

「はい。フィーネ様を虐めたことも、罵倒したことも、招待状を破り捨てたことも、ドレスに紅茶をかけたことも。すべて、身に覚えがございません」

「嘘よ!」

 フィーネが叫んだ。

「この人は嘘つきですわ、陛下! 私は確かに虐められました!」

「証拠は?」

 王妃が静かに問う。

「証拠……?」

「あなたが虐められたという証拠です。証人でも、物的証拠でも構いません」

 フィーネの顔が引きつった。

「そ、それは……私が言っているのですから、それが証拠ですわ!」

「あなたの証言だけでは、証拠にはなりません」

「でも、ヴェルナー様は信じてくださいました!」

「シュヴァルツ公爵は、当事者ではないでしょう」

 王妃の目が冷たくなる。

「彼が信じたのは、あなたの言葉です。事実ではない」

 その時、庭園の入口に動きがあった。

 見覚えのある老人が、一冊の帳面を手に歩いてきた。

 グスタフだった。

「陛下、失礼いたします」

 老執事が深く頭を下げる。

「私はシュヴァルツ公爵家の執事、グスタフと申します。公爵家の記録をお持ちいたしました」

「記録?」

「はい。屋敷内で起きた出来事は、すべて私が日誌に記録しております。これは先代公爵の時代から続く慣習でございます」

 グスタフが帳面を開いた。

「フィーネ・ラング様が公爵邸を訪問された日時、滞在時間、会われた方のお名前。すべて記録がございます」

 フィーネの顔が、真っ白になった。

「リーゼル様がフィーネ様と二人きりになられたことは、一度もございません。茶会で罵倒されたという日、リーゼル様は屋敷におられました。招待状を破り捨てたという日、リーゼル様はそもそもフィーネ様に招待状を出しておられません」

「嘘よ! そんな記録、捏造に決まってますわ!」

「日誌の日付には、公爵家の紋章印が押されております。これを偽造することは、公爵家への反逆罪に当たります」

 グスタフの声は淡々としていた。

「また、各日付の出来事には、その場にいた使用人の署名がございます。証人は複数おります」

 フィーネが後ずさった。

「そ、そんな……」

「ラング男爵令嬢」

 王妃の声が響いた。

「あなたは虚偽の告発により、公爵家の婚約者を追放させた。これは重大な罪です」

「違います、私は……!」

「社交界からの追放を命じます。今後、王都での活動を禁じます」

 フィーネの顔が、絶望に歪んだ。

「そんな……ヴェルナー様、ヴェルナー様助けて!」

 庭園の入口に、新たな人影が立っていた。

 ヴェルナーだった。

 灰色の瞳が、フィーネを見ている。そこには、何の感情も浮かんでいなかった。

「ヴェルナー様……」

「フィーネ」

 低い声が響いた。

「俺は、お前を信じた」

「はい、はい……!」

「お前の言葉を信じて、リーゼルを追い出した」

 フィーネの目に希望の光が灯る。

「そうです、あなたは私を信じて……」

「俺を、騙したな」

 光が消えた。

「ち、違います……!」

「違わない。グスタフの記録は、祖父の代から一度も誤りがなかった。お前の言葉より、はるかに信用できる」

 ヴェルナーがフィーネの前を通り過ぎた。

 彼の足は、私の方へ向かっていた。

「リーゼル」

「……何でしょうか」

「俺は、お前を信じなかった」

「はい」

「弁明すら、聞かなかった」

「はい」

「それを、謝りに来た」

 私は彼を見上げた。

 灰色の瞳が、初めて揺れていた。

「謝罪は受け取りました」

「……それだけか」

「はい」

 私は静かに答えた。

「信じてほしかったのです、ヴェルナー様。あなたに。誰よりも、あなたに」

「……」

「でも、あなたは私より幼馴染の言葉を信じた。それが答えです」

「リーゼル」

「私は、あなたの隣にはおりません」

 ヴェルナーの顔が強張った。

「二度と、戻らないと?」

「分かりません。今の私には、分かりません」

 私は目を伏せた。

「信じてもらえなかった傷は、まだ癒えていませんから」

 沈黙が落ちた。

 庭園中が、私たちを見つめていた。

「……そうか」

 ヴェルナーの声が、低く響いた。

「なら、待つ」

「え?」

「お前が俺を許すまで、待つ」

 彼が一歩、近づいた。

「一年でも、十年でも。お前が俺の隣に戻ってくるまで、俺は待ち続ける」

「ヴェルナー様……」

「俺はお前を傷つけた。その罪は消えない。だから、償う」

 灰色の瞳が、まっすぐに私を見つめた。

「お前以外、隣には置かない。誰の言葉も、お前の言葉より優先しない。二度と、お前を疑わない」

 彼が膝をついた。

 王妃の前で。貴族たちの前で。

 公爵が、膝をついた。

「リーゼル・フォン・ヴァイス。俺と、結婚してくれ」

 庭園がどよめいた。

 私は、彼を見下ろしていた。

「……それは、命令ですか」

「いや」

 ヴェルナーが首を振った。

「頼みだ。俺の、願いだ」

「願い……」

「お前がいない三日間、屋敷は空虚だった。お前の姿を探して、お前の声を聞きたくて、お前のことばかり考えていた」

 彼の声が、かすかに震えた。

「失って初めて分かった。俺にとってお前が、どれほど大切だったか」

「……」

「遅すぎるのは分かっている。許されないことも分かっている。それでも、言わせてくれ」

 灰色の瞳に、熱が宿っていた。

「俺は、お前を愛している」


 風が吹いた。

 春の花々が揺れ、甘い香りが漂う。

 私は、目を閉じた。

 信じてほしかった。ずっと、ずっと信じてほしかった。

 一年間、彼の隣にいて、彼の信頼を得ようと努力した。けれど、彼は最後まで私を見なかった。幼馴染の言葉を、私の言葉より優先した。

 それが、どれほど悲しかったか。

 でも。

「……お母様」

 心の中で、亡き母に語りかけた。

 母は優しい人だった。誰かを恨んだことがない人だった。

『許すことは、弱さじゃないのよ、リーゼル』

 いつか、母が言った言葉を思い出す。

『許すことは、強さなの。自分を傷つけた人を許せるのは、自分の足で立てる人だけ』

 私は、自分の足で立てる。

 薬草園で一人で生きていける。誰かに頼らなくても、生きていける。

 だから。

「……一つだけ」

 目を開けた。

「条件があります」

「何でも言え」

「薬草園を、続けさせてください。あそこは、母との思い出の場所です」

 ヴェルナーの目が、わずかに見開かれた。

「……それだけか」

「はい」

「公爵夫人の務めより、薬草園が大切だと?」

「いいえ」

 私は首を振った。

「どちらも大切です。だから、両方やります」

 沈黙が落ちた。

 そして、ヴェルナーの口元が、初めて緩んだ。

「……そうか」

 彼が立ち上がり、私の手を取った。

「分かった。薬草園は続けろ。屋敷に持ってきても構わない」

「本当ですか」

「ああ。お前の大切なものは、俺の大切なものだ」

 大きな手が、私の手を包んだ。

 温かかった。

「リーゼル」

「はい」

「今度こそ、お前の隣にいさせてくれ」

 私は、小さく笑った。

「……はい」

 王妃が、優雅に微笑んだ。

「よろしい。シュヴァルツ公爵とヴァイス伯爵令嬢の婚約を、改めて承認します」

 拍手が起きた。

 フィーネの姿は、もう庭園にはなかった。


 数ヶ月後。

 公爵邸の庭に、新しい薬草園ができた。

「これは何という薬草だ」

 ヴェルナーが、苗を指さして聞いてきた。

「ラベンダーです。鎮静作用があります」

「ほう」

「こちらはカモミール、胃腸に効きます。それからローズマリー、血行促進に」

「詳しいな」

「母に教わりましたから」

 私は微笑んだ。

「いつか、あなたが疲れた時、この薬草でお茶を淹れますね」

 ヴェルナーの瞳が、柔らかくなった。

「……そうか」

「どうかしましたか?」

「いや」

 彼が私の肩を抱き寄せた。

「俺は、幸せだと思った」

「急に何ですか」

「お前がいる。お前が笑っている。それだけで、屋敷が温かい」

 私は彼の胸に頬を寄せた。

「私もです」

「ん?」

「私も、幸せです。あなたの隣にいられて」

 風が吹いた。

 ラベンダーの香りが、二人を包んだ。

 もう、私は一人じゃない。

 信じてくれる人が、隣にいる。

「……ヴェルナー様」

「何だ」

「愛しています」

 彼の腕に、力がこもった。

「……俺もだ。リーゼル」

 春の日差しが、薬草園を照らしていた。

 新しい朝が、二人の未来を照らしていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


静かに去ることを選んだリーゼルと、遅すぎる後悔に気づいたヴェルナーの物語でした。


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すれ違いでもなんでもない、ただの傲慢な男ですw 男爵令嬢よりタチが悪い
婚約者を信じない お前呼ばわり こんな人絶対嫌だな このお話は‥ いつもと違う感じがしました
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