トカゲと呼ばれる少年
「お前さんに、或る英雄の話をしてやろう」
老人はそう言って、ぐいっと度数の高いウォッカを一呑みした。それは素面では語れぬものだと言わんばかりに。
「ジェーンと云う街に、一人のひ弱な少年がいた⋯⋯」
少年は木こりの父と織物の得意な母との間に産まれた子供だった。
ある時、少年のあだ名がトカゲになるきっかけの、とある事件が起こった。
ひとりの意地の悪い少年が、こんなことを言い出した。
「よう、アルって意気地無しじゃねえの?」
アルというのは少年の名前だった。負けず嫌いな性格のアルは、むっとして言い返そうとしたが、父ならそうしないだろうと思いとどまって、口を噤んだ。意地の悪い少年がまた言う。
「立派な兵士になるやつが、トカゲ一匹も殺せないわけないだろ。そりゃ、あの父親の子供じゃあな」
アルは心底腹が立った。この少年がこの世界における唯一の悪とさえ思えた。アルは言い返した。
「トカゲ一匹、朝飯前さ」
平静を装っていったつもりだったが、声は震えてうわずっていた。
「なら、殺してみろよ。もし殺せたら、お前は弱虫じゃない」
「ああ、見つけ次第、殺してやるさ」
そうは言ったものの、アルは大の生き物好きだった。生まれてから殺したのは、あやまって踏み潰したアリ一匹ぐらいで、そのアリの墓も作るほどだった。
アルがあの少年に弱虫と言われたのもこれが原因だった。アルの将来の夢は兵士になることだったが、殺すことが目的の兵士になぜトカゲ一匹も殺せないのかという問いは、アル自身、最もだという思いもあった。だから素直に受け入れてしまったが、いざトカゲを前にしてみると、自分の弱さや愚かさが目に見えたように思え、殺すという選択肢は自ずとはずしてしまった。しかもそのトカゲは、巣にある卵を守る母トカゲであった。アルは悩んだ。二時間ほど悩んだだろうか。そんなに悩んだものだから、意地の悪い少年がアルの様子を見に来てしまった。アルはトカゲの巣を見つめて、あぐらをかいていた。
「なんだ、アル。やっぱり弱虫じゃねえか。やっぱりあの木こりの子供だな」
アルはまた腹が立った。アルは弱虫と言われることよりも、父が貶されることのほうが断然嫌だったからだ。
「弱虫には見本を見せてやらないとな。こうしてやる」
少年はあろうことか、巣そのものを踏みつぶそうとした。母トカゲそれに気づき、必死で巣を守ろうと立ちはだかった。アルはそれを見て、何かが自分の中で芽生えたような気がした。気づけばアルは少年を突き飛ばしていた。だがそれは、トカゲが踏み潰された後だった⋯⋯
少年は激昂した。頭を打ったのか、歯を食いしばりながら頭を手で押さえている。
「なにするんだ!さてはお前、トカゲの味方か?ははんそうだ、そうに違いない。今日からお前はトカゲだ!弱虫トカゲだ!」
少年はそう言うとどこかへ走っていった。アルは踏み潰されて、内臓が出てしまっている可哀想な母トカゲを見た。それを見ていると、自然に涙が溢れてきた。そこには、耳障りな夏の蝉の声と、内臓のまろびでた憐れなトカゲと、卵と、覚悟の芽生えた少年の心だけが残った。
「そうして彼は、英雄になることを決意したのさ」
老人はまたウォッカを呑み、頼りない飲み屋のテーブルにもたれかかった傷だらけの斧の柄を撫でた。
「待ってください。アルって、あの『レッド・アル・ドラゴ』ですか?あの冒険者黎明期の幕開けをした英雄の」
老人は呆れたようなジェスチャーをして、目の前の初心冒険者に顔を近づけて言った。
「だから英雄って云っただろう。それとも、話のスケールが大きすぎて、ついていけなくなったか?」
「まあ、それもありますけど⋯⋯僕が言いたいのはそこじゃなくて、なぜその話を知ってるかについてです」
老人には目の前の少年の目が輝いてるように見えた。ただ酒屋の過剰なランタンにあてられているだけではないように思えた。老人は云う。
「まあ、話すと永くなるんだが⋯⋯俺は奴の『知り合い』だっただけさ」
「知り合いって⋯」
あまりに興奮したせいか、冒険者はむせてしまった。咳がおさまると、冒険者は深呼吸をひとつして、老人の目をしっかり見て言った。
「だって、もう三百年も前の話じゃないですか」
酒屋から出ると、老人はある山を登った。街を見渡せるぐらい登ったところに、古い小屋があった。老人は中には入らずに、ドア横のベンチに腰掛けた。星のよく見える夜だった。
「よう、ラムセイ」
若い男が、老人の名を呼んだ。男は老人の隣に腰掛けた。
「遅かったですね」
老人が云う。
「ちょっとね。悪いやつがいてさ」
男が云う。
「今日、久しぶりに、あの話をしましたよ。面白いやつがいたので」
「あの話って?」
「トカゲの話です」
「懐かしいな」
男は夜空を見上げる。
「伝記に書こうか迷ってたんだ、あの話」
「書かない方がいいです」
「そうだな」
男は立ち上がって、ドアにかかったランタンに火をつけた。脆弱な火だった。
「私はもう、永くないかもしれません」
「そうか」
男はまたベンチに腰掛けて、夜空を見上げる。
「年々な、夜空の星が、増えていっている気がするんだ。それも、人が死ぬ度に」
老人は黙っていた。
「俺の目が良くなったからじゃない。お前の爺さんが死んだ時なんかは、赤い一等星が増えた」
老人はすぐにそれがどの星かわかった。
「この国の天文学者はサボり魔だな」
「そうかもしれません」
男はいつの間にか、大きな赤いトカゲ⋯⋯いや、それは最早、神話における、あの神獣のような姿になっていた。
「どこか行きたい所はあるか?」
「じゃあ、北極に行きたいです。かの有名な、マウンテン・タートルとやらを見てみたくて⋯⋯」
「決まりだな」
男と老人は、一夜の旅をした。それは男にとっても、老人にとっても思い出になった。老人はマウンテン・タートルとやらの見た目は忘れてしまったが、宝石のように輝いていた、あの赤い背中を忘れることは無かった。
老人はその三年後に亡くなった。かなり長生きをした方だった。
「ウォッカの呑みすぎだぜ、まったく⋯⋯」
男はその夜度数の高いウォッカを五杯は呑んで、ベンチで星を探しながら寝てしまった。
その夜男は、マウンテン・タートルの夢を見た。




