罠猟師のおっさん、世界を把握する
第2章 ──猟師、無手で生きる──
健一はあたりを見回しながら、ゆっくりと腰を下ろした。
まずは状況の整理だ。冷静になる。それが山での鉄則だった。
目の前には倒れた巨大な鹿──いや、魔王と称された謎の獣の死骸。
健一は慎重に、倒れている巨大な鹿のような魔獣へと近づいていった。
その体には、ただの動物とは思えない異様さがあった。焦げ茶の毛は金属のような光沢を帯びており、鼻先からは黒い蒸気がゆらゆらと立ち上っている。
「こいつ……生きてるのか?」
そう思って足を止めたが、すぐにわかった。動いていない。
だが、死んだにしては不自然だった。罠にかかった右前脚は、確かにワイヤーで締め上げられている。だが、それだけでこんな巨大な魔獣が死ぬはずがない。
健一は思わず息をのんだ。
魔獣の首元、角の根元に──薄く光る〈魔法陣〉のようなものが浮かんでいた。焼き付いたように皮膚に刻まれ、その中心にはかすかに割れた水晶のような核が埋まっている。
「……封印、か? いや、これは……呪い?」
その時、脳裏に再び音声が響く。
──《討伐完了条件:封印中の魔王を指定区域内で仕留めること──達成》
健一は混乱した。
「仕留めた」? 自分が?
ただ罠を仕掛けた場所に来ただけだ。にもかかわらず、この魔物は「討伐された」と判定されたのだ。
──もしかして。
彼は辺りを見回し、つぶやいた。
「……この罠。偶然じゃねぇ。これは、こいつを“倒すために”必要な条件だったんじゃ……?」
考えてみれば、あの場所はわざわざ鹿が通らなさそうな獣道から外れた一角だった。
普通の動物なら避ける地形。それをあえて選んで罠を仕掛けたのは、自分の“感覚”だった。
スキル《野生の感覚》。
そして《即席罠生成》。
おそらく、自分がこの異世界に転移するよりも先に、あるいは同時に――この魔王を討伐する運命が組まれていたのだ。
「はは……なんだよそれ。俺の猟が、魔王退治になってたってわけかよ」
皮肉にも、自分の生活の延長線上に“魔王討伐”があったという事実に、健一は乾いた笑いを漏らした。
だが、笑っている場合ではなかった。
空には二つの太陽。足元の雪は白く、しかし色味が微妙に違う。
違和感は山そのものにまで及んでいた。
「……持ってたはずの道具袋がねぇ……」
立ち上がって身体を確認する。ナイフも、罠用のワイヤーも、ライターも、すべて消えていた。
あるのは防寒着とブーツだけ。ポケットの中は空っぽ。ポットも味噌汁も、すべて消え去っていた。
「まずいな……。本気で異世界ってやつか」
口に出してみても、実感は薄い。だが、理屈ではなく「感覚」でわかっていた。
この森は、いつものそれではない。ここは、自分が知っていた世界ではない。
「……まずは水だな。火があれば、なんとかなる」
そう呟いた瞬間、再び空中にステータスウィンドウが浮かび上がった。
【スキル使用可能】
・即席罠生成(Lv1)
・野生の感覚(Lv1)
・魔物識別(Lv1)
スキルを使用しますか?《はい/いいえ》
「スキル、って……」
試しに「即席罠生成」を意識すると、手元にふわりと半透明の光が集まり、目の前に「罠設置用メニュー」が現れた。
しかも、そこには素材も不要とある。簡易的なトラップが、その場の自然素材から自動生成されるようだ。
健一は、慎重に「スネアトラップ(小動物用)」を選んだ。
すると、自分の手が自然と動いた。周囲に落ちていた細い蔓と枝が勝手に絡み合い、地面に一つの輪を描いた罠が完成する。
「……なんだ、これ……便利すぎるだろ」
だが、仕組みがわかると落ち着いてきた。
仕掛けとしては簡単なものだ。自分の知っている構造とほぼ同じ。
つまり、これは「元の技術+補助」として使える。
罠をいくつか仕掛けた後、彼は小さな川を見つけ、氷を砕いて水を確保した。
手がかじかむほど冷たいが、生き延びるには十分だった。
その夜、枯れ枝を集めて火を起こす。火打石はないが、「野生の感覚」スキルに頼ると、自然と火の起こし方が思い浮かび、まるで手順がインストールされたかのように体が動いた。
火を見つめながら、彼は一人、呟いた。
「スキルってのは……つまり、こっちで生きるための猟師の知恵、みたいなもんか」
風の音。獣の気配。雪の冷たさ。
すべてが異世界にあっても、自然は自然だ。
「やれるな……俺の知識と、このスキルがあれば」
罠にかかった野ウサギのような魔物の肉を炙りながら、健一は確信した。
ここがどんな世界でも、山で生きる術は裏切らない。
その時だった──。
森の奥から、誰かの悲鳴が響いた。
「たすけて……! だれかっ!!」
健一は反射的に立ち上がっていた。
右手はもう、即席罠生成のコマンドに伸びていた。