罠猟師のおっさん、山に生きる
冬の朝は早い。
佐藤健一はまだ薄暗い山道を、一歩一歩しっかりとした足取りで進んでいた。冷えた空気が肺にしみるが、それすらも清々しく感じるのは、今日もまた自然と向き合えるという実感からだった。
「雪、思ったより積もったな……昨日仕掛けた罠、ちゃんと作動してりゃいいが」
防寒着のフードを深くかぶり、独り言のように呟く。足元には踏み固められた雪の獣道。野ウサギか、タヌキか、あるいは……。健一の目は、わずかな足跡の乱れを見逃さなかった。
彼は三十代半ば、都会から離れた山里で、ひとり罠猟師として暮らしていた。
電気も水道もあるにはあるが、最低限。スーパーまで片道一時間。けれどこの山には、彼が求めるものがすべてあった。静けさ、自然、獣の気配。そして何より、「生きている実感」。
「よし、このあたりだな……」
古びた杉の木の根元に腰を落とし、雪を払いながら昨日仕掛けたワイヤー罠を確認する。かかってはいない。だが、細く引かれた足跡と落ちている毛から、狙いは外れていなかったことがわかる。
「あと一歩、か……。でも、悪くねぇ」
健一はにやりと笑い、罠の位置を数十センチずらし、枝で覆いを整える。手際は流れるようで、まるで森の一部が自然に動いているようだった。
作業を終えると、ポットから淹れたての温いコーヒーをひと口すすり、山を見渡した。
空は高く、木々の間から差し込む朝日が雪を照らし、微かに輝いている。静寂の中に、生き物たちの気配がちらほらと感じられる。
「明日の朝が楽しみだな」
健一は立ち上がり、軽く腰を叩いて歩き出す。
すぐそこにある、けれど誰も知らない、自分だけの世界。
彼はこの山に生きていた。そして、そうして生きることに満ち足りていた。
その夜、焚き火の火を見つめながら健一は、軽くなった道具袋と明日の獲物に思いを馳せた。
知らなかった。この日が、「いつもの日常」の最後になることを――。