元カノだけは怒らせるな
ビルを出ると、冬の陽光はただ白く輝いているだけで、少しの温もりもなかった。冷たい風が頬を刺し、真理奈はコートの襟をきつく締める。
勝った気分など微塵もない。
裏切り者を叩きのめした快感すらない。
まるで現実感がなかった。
あまりにも、馬鹿げている。
たった一時間足らずの会議。それだけで、彼女は無理やり、もう二度と振り返るまいと誓った過去に引きずり戻された。
蓮は相変わらずだった。交渉の場で探るような言葉遣いも、柔和な表情も、何もかも変わっていない。
だが、真理奈は知っていた。
——もう彼は、自分の敵ではない。
——そして、彼女自身も、もはや彼に揺さぶられることは許されない。
もう関わりたくない。
この馬鹿げた人事配置。
その仕掛け人が誰なのか、考えるまでもない。
真理奈は静かに息を吐き、迷うことなく倉田のオフィスへと向かった。
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「このプロジェクト、私は担当しません」
デスクの前に立ち、真理奈は冷静な目で倉田を見据えた。
その声には、いかなる感情の揺らぎもなかった。ただ、確固たる決意だけがあった。
倉田は書類から目を上げ、淡々と尋ねる。
「理由は?」
わかっているくせに。
この男は決して説明を求めているわけではない。
ただ、彼女がどんな言葉を選ぶのかを試しているだけだ。
だが、真理奈は逃げない。
「私がこの案件を担当するのは適任ではありません」
「……蓮がいるからか?」
「はい。お互いを知り尽くしすぎているせいで、余計な駆け引きに時間を取られるでしょう。QVにはもっと適任者がいるはずです」
倉田は、まるで真理奈が成長したことを喜ぶかのような表情を見せた。
しかし、それは彼のテストが終わったことを意味しない。
むしろ、これからが本番だ。
「お前、本当に蓮を知っているのか?」
倉田の言葉に、真理奈の眉が微かに動いた。
当然だ。
——彼のことなら、誰よりも知っている。
ストレスがかかると、こめかみを指で押さえる癖。
無駄な社交を嫌いながらも、必要とあらば完璧にこなす計算高さ。
穏やかな物腰の裏に隠された、貪欲なまでの上昇志向と支配欲。
——そして、彼が彼女に口づける時の、あの呼吸のリズムまで。
だが、倉田の言い方が妙だった。
単なる嫌味でも、挑発でもない。
「……何が言いたいんですか?」
「お前が蓮と出会った時、彼の肩書きは何だった?」
唐突な質問に、真理奈は言葉を詰まらせた。
「……本社戦略部の幹部候補生。お前の部署に送り込まれたのは、俺の動向を監視するためだった」
——何を言っている?
脳が即座に否定を唱えた。
これは倉田の策略だ。彼女の冷静さを崩すための嘘。
だが……
だが、思い返せば思い返すほど、その言葉が恐ろしく真実味を帯びてくる。
彼が初めて自分の向かいの席に座った日。
気づけば、どんな出張にも自然と同行していたこと。
社内の情報に異常に詳しかったこと。
本来なら知るはずのない経営層の意向を、まるで当たり前のように話していたこと。
彼が「優秀だから」と思っていた。
彼が「情報通だから」と思っていた。
まさか——
「バカなことを……」
倉田の目は、嘘をついている人間のものではなかった。
「俺はただ、事実を伝えているだけだ。違うというなら、お前が否定してみろ」
言えない。
——違う、とは。
「彼の目的は、本社の意向で俺を排除することだった。そして、お前と彼が争った昇進レース。あれも、ただの出来レースだった」
その瞬間、世界が静止したように感じた。
すべてが、偽りだったのか?
彼女と蓮が、互いに全力を尽くした、あの競争。
真理奈は敗れ、蓮は昇進した。
その結果を、悔しくても受け入れた。
彼を祝福さえした。
真理奈の世界が、一瞬で静止した。
脳が冷静になれと警告を発している。
だが、血が煮えたぎっている。理性が崩れ去る。
過去の記憶が、砕け散ったガラスの破片のように散らばり、今まで見えていなかった“真実”を形作っていく。
——昇進競争は茶番だった?
——蓮は、最初から内定していた?
彼女はずっと、あの競争は公平なものだと思っていた。
蓮と同じスタートラインに立ち、戦い、そして敗れた。悔しさはあったが、結果を受け入れた。
それどころか、彼が昇進したときには笑顔で「おめでとう」とまで言ったのだ。
だが今、倉田は言う——そもそも公平な競争など存在しなかった、と。
真理奈は、ただの“当て馬”に過ぎなかった。
そして蓮は、最初から彼女の知らない高みから、その足掻きを見下ろしていたのだ。
胃の奥から込み上げてくる、耐え難い吐き気。
真理奈はようやく声を発した。
それは、まるで自分自身に言い聞かせるような、掠れた囁きだった。
「……どうして、あの時は何も疑わなかったんだろう」
倉田は穏やかに彼女を見つめていた。
まるで温厚な年長者のように。
だが、その瞳の奥には——期待か、それとも冷酷な計算か。
次の瞬間、彼は悪魔の囁きを紡いだ。
「お前が、彼を愛していたからだよ」
心臓が、痛烈に締め付けられた。
爪が食い込むほど強く拳を握る。
だが、今ここで感情を露わにするのは、無意味だ。
「それで……私をこのプロジェクトに入れたのは、これを知らせるためですか?」
倉田は彼女の反応に満足げだった。
彼は、真理奈の怒りにも、苦悩にも興味はない。
「俺はただ、お前が何に負けたのか、理解させてやりたかっただけだ」
彼が求めているのは、傷ついた女の涙ではない。
この“ゲーム”のプレイヤーとして——より鋭く、より強く、より価値ある駒へと成長すること。それだけだ。
「半年間でどれだけ成長したのか。今こそ証明する時だ」
心臓が、激しく跳ねた。
熱い血が全身を巡り、耳鳴りのような音を立てる。
真理奈は、倉田の言いたいことを理解した。
彼の望む答えも。
だが、指先をゆっくりと開き、白くなっていた掌に血色が戻るのを感じながら——彼女は、倉田の期待通りには動かないと決めた。
静かに息を吸う。
口元に、危険なほど冷たい微笑を浮かべる。
「証明してみせますよ」
真理奈は、倉田をまっすぐに見据えた。
その瞳には、これまでになく強い意志と、冷徹な決意が宿っていた。
「——ただし、それはあなたのためではありません」
踵を返し、迷いなく歩き出す。
もう、一切の躊躇はなかった。
一方、その頃。
蓮が会社に戻ると、仲間たちの視線が一斉に集まった。熱い期待の目が彼に注がれる。
彼は深いため息をつきながら口を開いた。
「予想通りだ……QVの今回の担当者は、真理奈だった」
順平が勢いよく蓮の顔を覗き込み、その表情をじっくりと確認する。そして、額を押さえながら大げさに首を振った。
「ってことは、出だしから厳しい感じ?」
アリサの大きな瞳がさらに見開かれる。
「えっ、ちょっと待って! 彼女って前に蓮と喧嘩して辞めたんじゃなかった? ヤバくない? まだ怒ってるの?」
冷静な圭介も、過去の出来事を思い出したのか、一瞬、仕事の心配よりも蓮自身を気遣うような表情を見せた。
しかし、蓮はただ肩をすくめ、手を広げる。
「実は……今まで言ってなかったんだけど、俺と真理奈の関係は、みんなが思ってるのとは違うんだ。俺たち……前に付き合ってたんだよ」
オフィスが一瞬、奇妙な沈黙に包まれた。
アリサはまばたきを繰り返しながら、その情報を必死に消化しようとしていた。
順平は眉を跳ね上げ、ここぞとばかりに興味津々な表情を浮かべる。
そして、圭介は静かに眉をひそめ、何か複雑な感情を抱えているようだった。
「え、え、えええっ?!」
アリサがついに理解し、椅子から飛び上がる勢いで叫ぶ。
「ちょっと待って、今なんて言った?! 付き合ってた?! いつの話?!」
「前に一緒に仕事してたあの一年間だ」
「……は? お前、それ隠しすぎだろ!」
順平が大げさに頭を抱える。
「ってことは、職場恋愛してたの、お前らだったのかよ?! そりゃあ大事件だろ!」
圭介が小さく呟く。
「……そういえば、お前たち、喧嘩してないときは息ぴったりだったな」
アリサの目がぐるぐると動く。
「……いや、待てよ? もしそうなら、真理奈が辞めた理由って……」
彼女の言葉が途中で止まる。
蓮は数秒の沈黙の後、小さく息を吐いた。
「……そうだ」
またしても、オフィスには静寂が訪れた。まるで蓮に黙祷しているかのような空気。
圭介が慎重な口調で口を開く。
「……それで、彼女はどんな態度だった?」
蓮の脳裏に、冷酷なまでにビジネスライクな真理奈の姿が浮かぶ。胸の奥に、言いようのない感情が渦巻いた。
「……かなり、業務的だったよ」
圭介が鋭く反応する。
「つまり、容赦なしってことか?」
順平が大げさに息を吐いた。
「うわぁ、それはキツいな」
アリサが額を押さえる。
「ヤバいよ、それもう完全にビジネス版のドロドロ恋愛バトルじゃん……」
蓮は溜息をついた。
「……お前ら、そんなドラマみたいに言うなよ」
順平が肩をすくめ、妙に達観したような表情を浮かべる。
「いやいや、これはもうどう見ても"元カノだけは怒らせるな"案件だろ?」
圭介が腕を組みながら静かに言った。
「……それで、この件、仕事に影響は出そうか?」
小さなベンチャー企業にとって、このプロジェクトは会社の存続を左右する。失敗は許されない。
蓮はその重要性を誰よりも理解していた。
そして、今の真理奈が、いかに手強い相手になっているかも。
「彼女は核心データの所有権を譲る気がない。交渉の余地すらなかった。だから、次の交渉は……別の誰かが行ったほうがいいんじゃないかと思ってる」
オフィスに、再び数秒の沈黙が落ちた。
そして、順平が軽い調子で口を開く。
「……ちょっと待てよ。お前、それってつまり……逃げるってこと?」
蓮は肩をすくめるが、真剣な表情で説明を始めた。
「逃げるわけじゃない。俺には考えがある。譲れないのは"使用権はこっち"、"所有権はQV"。この条件をベースに、どれだけこちらに有利な交渉ができるかが鍵だ。俺が交渉できない理由は……お互い手の内を知り尽くしているから。もう膠着状態なんだ。それに彼女……たぶん、まだ俺に怒ってると思う」
蓮が助けを求めるように周囲を見渡す。
圭介が腕を組み、少し考え込んだ。
「……確かに、別の誰かが行けば、交渉の雰囲気は少し柔らかくなるかもな」
みんなの視線が、互いに探るように動いた。
アリサが急に緊張し、慌てて首を振る。
「えっ、ちょっと! なんでみんな私を見るの? もし私が行ったら、真理奈さんに"蓮の新しい彼女"だと誤解されるかもしれないじゃん! それこそ話がややこしくなるでしょ?!」
蓮は眉をひそめる。
「真理奈はそんな感情的にならないよ。仕事とプライベートはきっちり分けるタイプだ」
アリサは必死に手を振る。
「でも、でも、私、交渉とか無理! 相手に"お願いします"って言われたら、すぐ"はい"って言っちゃうもん!」
順平がニヤニヤしながら茶々を入れる。
「大丈夫だって、普段は頭の回転速いし、蓮の盾になるくらいできるだろ? ここは仲間として助けるべきじゃね?」
アリサが勢いよく振り向き、その長い髪が順平の顔を直撃する。まるでビンタのように。
「……だったら、あんたが行きなさいよ!」
順平は顔をさすりながら、どこか得意げな表情を浮かべた。
「交渉で毒舌が通用すると思うか? 三言も言わないうちに、俺、真理奈に締められるぞ。それに、俺は蓮ほど見た目が良くないし、彼女の怒りがさらに爆発したら、ついでに俺まで始末されるかもしれん。」
圭介が軽く咳払いをし、考え込むように口を開いた。
「実は、アリサが適任かもしれない。」
アリサはぷくっと頬を膨らませ、不満げに顔をしかめた。
圭介は真剣な眼差しで彼女を見つめる。
「まず、君は女性だから、真理奈の態度が多少は穏やかになるはずだ。そして、アリサの誠実さは最大の武器だよ。余計な駆け引きなしの真っ向勝負こそが、最も有効な手だ。順平みたいに口先だけで押し切ろうとすることもないし、俺のように技術的な議論に巻き込まれてしまうこともない。」
順平がすかさず補足する。
「そうそう、『田忌の策』って知ってるか? 下の馬を上の馬にぶつけるってやつ……いてっ! 違う! お前が下の馬って言ってるわけじゃねぇ! むしろ、これは降維打撃ってやつだ!」
アリサはふんっと頭を振り、長い髪の毛を順平の顔に叩きつけた。
そのやり取りを眺めながら、蓮が考え深げに口を開く。
「確かに、真理奈と正面からぶつかっても勝ち目はない。むしろ、彼女の警戒心を解くことができる相手のほうが有利だ。君なら適任だし、きっと上手くやれると思う。」
圭介も援護射撃を放つ。
「アリサ、技術面で必要な資料は全部用意しておく。これで、話が逸れても困らないようにしておくよ。」
アリサは一瞬動揺したが、三人の期待に満ちた眼差しを受けて、深く息を吸い込んだ。
「……分かった。」
そして、迎えた二度目の交渉の場。
何の準備もないまま交渉役を押し付けられたアリサは、ついに久々の再会を果たした。真理奈は、以前よりも美しく、そして成熟していた。
アリサは、ビジネスライクな態度を取ろうと心に決めていたのに、つい素直な感情が先走ってしまう。
「真理奈! 会えて嬉しい! あっ、えっと、今日はMETの代表として来たの。真理奈が辞めた後、蓮が私たちを引き連れて起業してね、それで……」
アリサの無邪気な話は、真理奈の冷静な一言で遮られた。
「それで、METはどんな提案を?」
彼女の鋭い視線が突き刺さる。アリサは一瞬たじろいだが、勇気を振り絞って深呼吸し、話し始めた。
「データの運用に、もう少し柔軟性を持たせたいんです。もちろん、QVのデータ所有権を尊重することが前提です。」
自分の声が、少し強張っているのを感じる。それでも、持ち前の誠実さだけは失わないよう、アリサは懸命に言葉を続けた。
「QVがデータの管理にこだわるのは分かっています。蓮も説得は難しいって言ってました。だから、私が来ました。」
真理奈は微動だにせず、静かにアリサを見つめた。そして、感情の読めない表情のまま、淡々と言った。
「彼も、自分の無力さは分かっているのね。」
アリサは、その言葉に乗じて話を続けた。彼女はデモを取り出し、説明を始める。
「これは、技術的な理由からなんです。例えば、データを外部から都度呼び出すと、バグやラグの発生率が大幅に上がります。最終的にはユーザーの体験にも影響してしまうんです。」
真理奈はデモを一瞥し、再びアリサに視線を戻した。
「QVがデータを提供するのは、利益の交換があるからよ。技術者の利便性のためじゃない。」
鋭い言葉だったが、アリサはめげなかった。彼女は前向きに考え、声のトーンを少し調整した。
「じゃあ、視点を変えてみてください。METがデータを有効活用できなければ、プロジェクト全体の競争力が落ちます。結果として、QVの利益にも影響が出るかもしれません。私たちは、双方の利益を両立できる方法を話し合いたいんです。」
真理奈の眉がわずかに動いた。彼女は、面白がるようにアリサを見つめる。
「私に、ビジネスを教えるつもり?」
アリサは、圧倒的なプレッシャーを感じた。真理奈が本気を出せば、自分なんて一蹴されるだろう。でも、ここで引いたら交渉は失敗する。だから、必死で踏みとどまった。
「METは、QVに技術アクセス権を提供します。」
真理奈は、かすかに笑った。しかし、その眼差しの鋭さは、まったく和らがなかった。
「技術アクセス権?」彼女はゆっくりと繰り返し、わずかに皮肉めいた口調を加えた。「随分と太っ腹ね。確認するけれど、つまりMETはデータを自由に使い、QVは『許可を得て』技術にアクセスできる、という条件でいいのかしら? その条件、あなたが決められるの?」
アリサは、皮肉には気づかず、むしろ真理奈の「太っ腹」という言葉に勇気づけられた。
「もちろん、詳細はこれから詰めますが、方向性としては有望だと思います!」
真理奈は表情を引き締め、冷静に言った。
「じゃあ教えて。QVがこの提案を受け入れるメリットは?」
アリサは、まるで倉田と対峙しているような気分だった。心臓がバクバクする。だが、ここで退くわけにはいかない。
「本当に競争力のあるプロダクトが欲しいなら、METの技術が不可欠です!」
しばしの沈黙の後、真理奈は軽くため息をついた。
「分かった。QVはデータの所有権を保持し、METは使用を許可される。ただし、最終的な審査権はQVが持つ。これが私の譲歩できるラインよ。」
アリサは一瞬驚き、それから満面の笑みを浮かべた。
「ありがとうございます!」
真理奈は、少しだけ微笑み、静かに言った。
「じゃあ、頑張りなさい。」




