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9/30

元カノだけは怒らせるな

ビルを出ると、冬の陽光はただ白く輝いているだけで、少しの温もりもなかった。冷たい風が頬を刺し、真理奈はコートの襟をきつく締める。


勝った気分など微塵もない。

裏切り者を叩きのめした快感すらない。


まるで現実感がなかった。

あまりにも、馬鹿げている。


たった一時間足らずの会議。それだけで、彼女は無理やり、もう二度と振り返るまいと誓った過去に引きずり戻された。

蓮は相変わらずだった。交渉の場で探るような言葉遣いも、柔和な表情も、何もかも変わっていない。


だが、真理奈は知っていた。

——もう彼は、自分の敵ではない。

——そして、彼女自身も、もはや彼に揺さぶられることは許されない。


もう関わりたくない。


この馬鹿げた人事配置。

その仕掛け人が誰なのか、考えるまでもない。


真理奈は静かに息を吐き、迷うことなく倉田のオフィスへと向かった。


---


「このプロジェクト、私は担当しません」


デスクの前に立ち、真理奈は冷静な目で倉田を見据えた。

その声には、いかなる感情の揺らぎもなかった。ただ、確固たる決意だけがあった。


倉田は書類から目を上げ、淡々と尋ねる。


「理由は?」


わかっているくせに。

この男は決して説明を求めているわけではない。

ただ、彼女がどんな言葉を選ぶのかを試しているだけだ。


だが、真理奈は逃げない。


「私がこの案件を担当するのは適任ではありません」


「……蓮がいるからか?」


「はい。お互いを知り尽くしすぎているせいで、余計な駆け引きに時間を取られるでしょう。QVにはもっと適任者がいるはずです」


倉田は、まるで真理奈が成長したことを喜ぶかのような表情を見せた。

しかし、それは彼のテストが終わったことを意味しない。


むしろ、これからが本番だ。


「お前、本当に蓮を知っているのか?」


倉田の言葉に、真理奈の眉が微かに動いた。


当然だ。

——彼のことなら、誰よりも知っている。


ストレスがかかると、こめかみを指で押さえる癖。

無駄な社交を嫌いながらも、必要とあらば完璧にこなす計算高さ。

穏やかな物腰の裏に隠された、貪欲なまでの上昇志向と支配欲。


——そして、彼が彼女に口づける時の、あの呼吸のリズムまで。


だが、倉田の言い方が妙だった。

単なる嫌味でも、挑発でもない。


「……何が言いたいんですか?」


「お前が蓮と出会った時、彼の肩書きは何だった?」


唐突な質問に、真理奈は言葉を詰まらせた。


「……本社戦略部の幹部候補生。お前の部署に送り込まれたのは、俺の動向を監視するためだった」


——何を言っている?


脳が即座に否定を唱えた。

これは倉田の策略だ。彼女の冷静さを崩すための嘘。


だが……


だが、思い返せば思い返すほど、その言葉が恐ろしく真実味を帯びてくる。


彼が初めて自分の向かいの席に座った日。

気づけば、どんな出張にも自然と同行していたこと。

社内の情報に異常に詳しかったこと。

本来なら知るはずのない経営層の意向を、まるで当たり前のように話していたこと。


彼が「優秀だから」と思っていた。

彼が「情報通だから」と思っていた。


まさか——


「バカなことを……」


倉田の目は、嘘をついている人間のものではなかった。


「俺はただ、事実を伝えているだけだ。違うというなら、お前が否定してみろ」


言えない。


——違う、とは。


「彼の目的は、本社の意向で俺を排除することだった。そして、お前と彼が争った昇進レース。あれも、ただの出来レースだった」


その瞬間、世界が静止したように感じた。


すべてが、偽りだったのか?


彼女と蓮が、互いに全力を尽くした、あの競争。

真理奈は敗れ、蓮は昇進した。


その結果を、悔しくても受け入れた。

彼を祝福さえした。

真理奈の世界が、一瞬で静止した。

脳が冷静になれと警告を発している。

だが、血が煮えたぎっている。理性が崩れ去る。

過去の記憶が、砕け散ったガラスの破片のように散らばり、今まで見えていなかった“真実”を形作っていく。


——昇進競争は茶番だった?

——蓮は、最初から内定していた?


彼女はずっと、あの競争は公平なものだと思っていた。

蓮と同じスタートラインに立ち、戦い、そして敗れた。悔しさはあったが、結果を受け入れた。

それどころか、彼が昇進したときには笑顔で「おめでとう」とまで言ったのだ。


だが今、倉田は言う——そもそも公平な競争など存在しなかった、と。


真理奈は、ただの“当て馬”に過ぎなかった。

そして蓮は、最初から彼女の知らない高みから、その足掻きを見下ろしていたのだ。


胃の奥から込み上げてくる、耐え難い吐き気。

真理奈はようやく声を発した。

それは、まるで自分自身に言い聞かせるような、掠れた囁きだった。


「……どうして、あの時は何も疑わなかったんだろう」


倉田は穏やかに彼女を見つめていた。

まるで温厚な年長者のように。

だが、その瞳の奥には——期待か、それとも冷酷な計算か。

次の瞬間、彼は悪魔の囁きを紡いだ。


「お前が、彼を愛していたからだよ」


心臓が、痛烈に締め付けられた。


爪が食い込むほど強く拳を握る。

だが、今ここで感情を露わにするのは、無意味だ。


「それで……私をこのプロジェクトに入れたのは、これを知らせるためですか?」


倉田は彼女の反応に満足げだった。

彼は、真理奈の怒りにも、苦悩にも興味はない。


「俺はただ、お前が何に負けたのか、理解させてやりたかっただけだ」


彼が求めているのは、傷ついた女の涙ではない。

この“ゲーム”のプレイヤーとして——より鋭く、より強く、より価値ある駒へと成長すること。それだけだ。


「半年間でどれだけ成長したのか。今こそ証明する時だ」


心臓が、激しく跳ねた。

熱い血が全身を巡り、耳鳴りのような音を立てる。


真理奈は、倉田の言いたいことを理解した。

彼の望む答えも。


だが、指先をゆっくりと開き、白くなっていた掌に血色が戻るのを感じながら——彼女は、倉田の期待通りには動かないと決めた。


静かに息を吸う。

口元に、危険なほど冷たい微笑を浮かべる。


「証明してみせますよ」


真理奈は、倉田をまっすぐに見据えた。

その瞳には、これまでになく強い意志と、冷徹な決意が宿っていた。


「——ただし、それはあなたのためではありません」


踵を返し、迷いなく歩き出す。

もう、一切の躊躇はなかった。


一方、その頃。

蓮が会社に戻ると、仲間たちの視線が一斉に集まった。熱い期待の目が彼に注がれる。

彼は深いため息をつきながら口を開いた。


「予想通りだ……QVの今回の担当者は、真理奈だった」


順平が勢いよく蓮の顔を覗き込み、その表情をじっくりと確認する。そして、額を押さえながら大げさに首を振った。


「ってことは、出だしから厳しい感じ?」


アリサの大きな瞳がさらに見開かれる。


「えっ、ちょっと待って! 彼女って前に蓮と喧嘩して辞めたんじゃなかった? ヤバくない? まだ怒ってるの?」


冷静な圭介も、過去の出来事を思い出したのか、一瞬、仕事の心配よりも蓮自身を気遣うような表情を見せた。


しかし、蓮はただ肩をすくめ、手を広げる。


「実は……今まで言ってなかったんだけど、俺と真理奈の関係は、みんなが思ってるのとは違うんだ。俺たち……前に付き合ってたんだよ」


オフィスが一瞬、奇妙な沈黙に包まれた。


アリサはまばたきを繰り返しながら、その情報を必死に消化しようとしていた。

順平は眉を跳ね上げ、ここぞとばかりに興味津々な表情を浮かべる。

そして、圭介は静かに眉をひそめ、何か複雑な感情を抱えているようだった。


「え、え、えええっ?!」

アリサがついに理解し、椅子から飛び上がる勢いで叫ぶ。


「ちょっと待って、今なんて言った?! 付き合ってた?! いつの話?!」


「前に一緒に仕事してたあの一年間だ」


「……は? お前、それ隠しすぎだろ!」

順平が大げさに頭を抱える。


「ってことは、職場恋愛してたの、お前らだったのかよ?! そりゃあ大事件だろ!」


圭介が小さく呟く。

「……そういえば、お前たち、喧嘩してないときは息ぴったりだったな」


アリサの目がぐるぐると動く。


「……いや、待てよ? もしそうなら、真理奈が辞めた理由って……」


彼女の言葉が途中で止まる。


蓮は数秒の沈黙の後、小さく息を吐いた。


「……そうだ」


またしても、オフィスには静寂が訪れた。まるで蓮に黙祷しているかのような空気。


圭介が慎重な口調で口を開く。

「……それで、彼女はどんな態度だった?」


蓮の脳裏に、冷酷なまでにビジネスライクな真理奈の姿が浮かぶ。胸の奥に、言いようのない感情が渦巻いた。


「……かなり、業務的だったよ」


圭介が鋭く反応する。

「つまり、容赦なしってことか?」


順平が大げさに息を吐いた。

「うわぁ、それはキツいな」


アリサが額を押さえる。

「ヤバいよ、それもう完全にビジネス版のドロドロ恋愛バトルじゃん……」


蓮は溜息をついた。

「……お前ら、そんなドラマみたいに言うなよ」


順平が肩をすくめ、妙に達観したような表情を浮かべる。

「いやいや、これはもうどう見ても"元カノだけは怒らせるな"案件だろ?」


圭介が腕を組みながら静かに言った。

「……それで、この件、仕事に影響は出そうか?」


小さなベンチャー企業にとって、このプロジェクトは会社の存続を左右する。失敗は許されない。


蓮はその重要性を誰よりも理解していた。

そして、今の真理奈が、いかに手強い相手になっているかも。


「彼女は核心データの所有権を譲る気がない。交渉の余地すらなかった。だから、次の交渉は……別の誰かが行ったほうがいいんじゃないかと思ってる」


オフィスに、再び数秒の沈黙が落ちた。


そして、順平が軽い調子で口を開く。

「……ちょっと待てよ。お前、それってつまり……逃げるってこと?」


蓮は肩をすくめるが、真剣な表情で説明を始めた。


「逃げるわけじゃない。俺には考えがある。譲れないのは"使用権はこっち"、"所有権はQV"。この条件をベースに、どれだけこちらに有利な交渉ができるかが鍵だ。俺が交渉できない理由は……お互い手の内を知り尽くしているから。もう膠着状態なんだ。それに彼女……たぶん、まだ俺に怒ってると思う」


蓮が助けを求めるように周囲を見渡す。


圭介が腕を組み、少し考え込んだ。

「……確かに、別の誰かが行けば、交渉の雰囲気は少し柔らかくなるかもな」


みんなの視線が、互いに探るように動いた。


アリサが急に緊張し、慌てて首を振る。

「えっ、ちょっと! なんでみんな私を見るの? もし私が行ったら、真理奈さんに"蓮の新しい彼女"だと誤解されるかもしれないじゃん! それこそ話がややこしくなるでしょ?!」


蓮は眉をひそめる。

「真理奈はそんな感情的にならないよ。仕事とプライベートはきっちり分けるタイプだ」


アリサは必死に手を振る。

「でも、でも、私、交渉とか無理! 相手に"お願いします"って言われたら、すぐ"はい"って言っちゃうもん!」


順平がニヤニヤしながら茶々を入れる。

「大丈夫だって、普段は頭の回転速いし、蓮の盾になるくらいできるだろ? ここは仲間として助けるべきじゃね?」


アリサが勢いよく振り向き、その長い髪が順平の顔を直撃する。まるでビンタのように。


「……だったら、あんたが行きなさいよ!」

順平は顔をさすりながら、どこか得意げな表情を浮かべた。

「交渉で毒舌が通用すると思うか? 三言も言わないうちに、俺、真理奈に締められるぞ。それに、俺は蓮ほど見た目が良くないし、彼女の怒りがさらに爆発したら、ついでに俺まで始末されるかもしれん。」


圭介が軽く咳払いをし、考え込むように口を開いた。

「実は、アリサが適任かもしれない。」


アリサはぷくっと頬を膨らませ、不満げに顔をしかめた。

圭介は真剣な眼差しで彼女を見つめる。

「まず、君は女性だから、真理奈の態度が多少は穏やかになるはずだ。そして、アリサの誠実さは最大の武器だよ。余計な駆け引きなしの真っ向勝負こそが、最も有効な手だ。順平みたいに口先だけで押し切ろうとすることもないし、俺のように技術的な議論に巻き込まれてしまうこともない。」


順平がすかさず補足する。

「そうそう、『田忌の策』って知ってるか? 下の馬を上の馬にぶつけるってやつ……いてっ! 違う! お前が下の馬って言ってるわけじゃねぇ! むしろ、これは降維打撃ってやつだ!」


アリサはふんっと頭を振り、長い髪の毛を順平の顔に叩きつけた。

そのやり取りを眺めながら、蓮が考え深げに口を開く。

「確かに、真理奈と正面からぶつかっても勝ち目はない。むしろ、彼女の警戒心を解くことができる相手のほうが有利だ。君なら適任だし、きっと上手くやれると思う。」


圭介も援護射撃を放つ。

「アリサ、技術面で必要な資料は全部用意しておく。これで、話が逸れても困らないようにしておくよ。」


アリサは一瞬動揺したが、三人の期待に満ちた眼差しを受けて、深く息を吸い込んだ。

「……分かった。」


そして、迎えた二度目の交渉の場。


何の準備もないまま交渉役を押し付けられたアリサは、ついに久々の再会を果たした。真理奈は、以前よりも美しく、そして成熟していた。


アリサは、ビジネスライクな態度を取ろうと心に決めていたのに、つい素直な感情が先走ってしまう。

「真理奈! 会えて嬉しい! あっ、えっと、今日はMETの代表として来たの。真理奈が辞めた後、蓮が私たちを引き連れて起業してね、それで……」


アリサの無邪気な話は、真理奈の冷静な一言で遮られた。

「それで、METはどんな提案を?」


彼女の鋭い視線が突き刺さる。アリサは一瞬たじろいだが、勇気を振り絞って深呼吸し、話し始めた。

「データの運用に、もう少し柔軟性を持たせたいんです。もちろん、QVのデータ所有権を尊重することが前提です。」


自分の声が、少し強張っているのを感じる。それでも、持ち前の誠実さだけは失わないよう、アリサは懸命に言葉を続けた。

「QVがデータの管理にこだわるのは分かっています。蓮も説得は難しいって言ってました。だから、私が来ました。」


真理奈は微動だにせず、静かにアリサを見つめた。そして、感情の読めない表情のまま、淡々と言った。

「彼も、自分の無力さは分かっているのね。」


アリサは、その言葉に乗じて話を続けた。彼女はデモを取り出し、説明を始める。

「これは、技術的な理由からなんです。例えば、データを外部から都度呼び出すと、バグやラグの発生率が大幅に上がります。最終的にはユーザーの体験にも影響してしまうんです。」


真理奈はデモを一瞥し、再びアリサに視線を戻した。

「QVがデータを提供するのは、利益の交換があるからよ。技術者の利便性のためじゃない。」


鋭い言葉だったが、アリサはめげなかった。彼女は前向きに考え、声のトーンを少し調整した。

「じゃあ、視点を変えてみてください。METがデータを有効活用できなければ、プロジェクト全体の競争力が落ちます。結果として、QVの利益にも影響が出るかもしれません。私たちは、双方の利益を両立できる方法を話し合いたいんです。」


真理奈の眉がわずかに動いた。彼女は、面白がるようにアリサを見つめる。

「私に、ビジネスを教えるつもり?」


アリサは、圧倒的なプレッシャーを感じた。真理奈が本気を出せば、自分なんて一蹴されるだろう。でも、ここで引いたら交渉は失敗する。だから、必死で踏みとどまった。

「METは、QVに技術アクセス権を提供します。」


真理奈は、かすかに笑った。しかし、その眼差しの鋭さは、まったく和らがなかった。

「技術アクセス権?」彼女はゆっくりと繰り返し、わずかに皮肉めいた口調を加えた。「随分と太っ腹ね。確認するけれど、つまりMETはデータを自由に使い、QVは『許可を得て』技術にアクセスできる、という条件でいいのかしら? その条件、あなたが決められるの?」


アリサは、皮肉には気づかず、むしろ真理奈の「太っ腹」という言葉に勇気づけられた。

「もちろん、詳細はこれから詰めますが、方向性としては有望だと思います!」


真理奈は表情を引き締め、冷静に言った。

「じゃあ教えて。QVがこの提案を受け入れるメリットは?」


アリサは、まるで倉田と対峙しているような気分だった。心臓がバクバクする。だが、ここで退くわけにはいかない。

「本当に競争力のあるプロダクトが欲しいなら、METの技術が不可欠です!」


しばしの沈黙の後、真理奈は軽くため息をついた。

「分かった。QVはデータの所有権を保持し、METは使用を許可される。ただし、最終的な審査権はQVが持つ。これが私の譲歩できるラインよ。」


アリサは一瞬驚き、それから満面の笑みを浮かべた。

「ありがとうございます!」


真理奈は、少しだけ微笑み、静かに言った。

「じゃあ、頑張りなさい。」

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