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もしこの会社が、私の価値を見出せないのなら——

金曜日の朝、蓮はアリサを食事に誘おうと思い、メッセージを送った。

すると、せっかちな彼女はすぐに「直接話したい!」と返事をし、蓮のオフィスへ向かうことになった。


だが、ほぼ同時に、本社からのメールが届いた。

それはリストラ通知だった。

——勤続年数2年未満の社員は全員解雇。

そして、アリサの名前が、そのリストにあった。


蓮は頭を殴られたような衝撃を受けた。

なぜ、こうも運命は彼を残酷な選択肢に追い込むのか。

心の整理もつかぬまま、アリサが明るい笑顔とともにオフィスへ駆け込んできた。


「おはようございます! 蓮さん、話って何ですか?」


彼女の澄んだ瞳を直視することができなかった。

蓮はぎこちなく微笑み、椅子を勧める。


「おはよう、アリサ。えっと……座って話そうか。」


彼の頭の中には、解雇リストの文字がこびりついて離れない。

しばしの沈黙の後、彼は喉を鳴らして言った。


「実は……今、本社からリストラ計画の通知が届いて……」


慎重に言葉を選びながら、少しでも衝撃を和らげようとした。


「……アリサ、覚悟しておいてほしい。」


蓮の声には、どうしようもない無力感が滲んでいた。


「君の名前が、そこに載っている。突然で、本当に申し訳ない。」


アリサは最初、目を丸くし——次の瞬間、クスクスと笑い出した。


「えっ、食事に誘う前フリでここまでやるんですか? 蓮さん、意外とユーモアありますね! ははっ!」


冗談だと思っているのだ。

蓮は、冗談だったらどれほどよかったかと、心から願った。


「……本当に、冗談ならよかったんだけどね。これを見てほしい。」


彼はメールの画面をアリサに見せる。


「君がチームに貢献しているのは、誰の目にも明らかだ。

 本当に、何とかしたいけど……僕には決定権がない。」


アリサの笑顔が凍りついた。


「……え? ちょっと待ってください……本当ですか?」


蓮は無言で頷いた。


「……嘘、でしょ……? 私、クビ? いやいや、納得いかない!

 それに、さっきまで食事に誘おうとしてたのに、いきなり解雇って何なんですか!?

 私、新しいネイルまでしてきたのに……!」


彼女の目に、じわりと涙が滲む。


「私、ちゃんと仕事してたのに……どうして……?」


蓮は慌てて立ち上がり、デスクを回ってアリサのそばに歩み寄った。


「アリサ、聞いてくれ。これは君の仕事ぶりとは一切関係ない。

 君は優秀だ。それは誰もが知ってる。

 ……ただの、会社の決定だ。僕も、正直納得できない。」


彼はそっとアリサの肩に手を置く。


「僕にできる限りのことはする。

 人事に掛け合って、異動の可能性を探ってみるよ。」


言葉を紡ぎながら、自分の無力さに嫌気が差した。


「これは、君のせいじゃない。会社の方針変更による調整だ。君の価値とは無関係なんだ。」


そう言いながら、蓮はまっすぐ彼女を見つめた。


「……それでも、週末の食事の約束は、変わらない。」


「……もう、食欲なんてないですよ。」


アリサは涙をこぼしながら、震える声で続ける。


「私、新しいマンションに引っ越したばっかりなんですよ。

 犬だって飼い始めたのに……これじゃ、生活がめちゃくちゃじゃないですか!

 蓮さん、リーダーなんでしょ? だったら何とかしてくださいよ!

 私たちのことを守るのが、あなたの責任でしょ!」


嗚咽混じりの叫びが、オフィスに響いた。


蓮は目を閉じ、深く息を吐く。


「……アリサ、その気持ちは痛いほどわかる。

 僕も、もっと何かできたらって思う。

 でも、どうしようもないこともあるんだ。」


彼はしゃがみ込み、アリサと目線を合わせる。


「僕は、君を大切に思ってる。

 同僚としてだけじゃなく、一人の人間として。

 君は、見捨てられたわけじゃない。僕がついてる。」


だが、アリサは涙をぬぐいながら、絞り出すように言った。


「……どうせ、口先だけですよね。

 そんな風に言っても、結局は何もできないじゃないですか。」


「……そうかもしれない。」


蓮は苦笑し、遠くを見つめる。


「会社なんて、所詮は利益を最優先する組織だ。

 僕たちは、機械の歯車みたいなものかもしれない。」


そう言った後、もう一度アリサの目を見つめた。


「でも、僕にとって君は“使い捨ての歯車”なんかじゃない。

 君にはもっと大きな可能性がある。

 アリサ、君は優秀だ。ここで終わる人間じゃない。」


---


彼は深く、深く息を吸い込んだ。


「今、お前は裏切られたように感じているかもしれない。でも、自分を信じろ」


アリサは数歩後ずさった。


「いや、そんな表面だけの励ましなんていらない。だって、あなたには何もできないじゃない。ただ綺麗事を並べるだけ。やっと分かったよ……真理奈が転職した理由。彼女はもうとっくに見抜いてたんだ、この会社は救いようがないって」


涙を浮かべたアリサは、そのまま駆け出していった。


蓮はその場に立ち尽くした。重苦しい空気がさらに圧し掛かり、体を動かすことすらままならない。アリサの言葉が脳内で反響し、彼女が背を向けて去っていく姿が、胸を鋭くえぐった。


彼女の言うことは、一理ある。今回の大量リストラは、あまりにも冷酷で、そこに人間らしさは微塵もなかった。白い壁を見つめながら、蓮はぼんやりと考えた。真理奈が決断したときのことを。彼女は、すべてを見通していたのか? 完全に失望し切る前に、ここを去る決意をしていたのか……。


その後の時間は、ただの幻のようだった。蓮はまるでプログラムされたロボットのように、麻痺した頭で淡々と作業をこなした。リストラ対象者と一人ずつ面談し、どうしようもない現実を説明する。本当は、何もかもが嫌で叫び出したかったが、仕事用の仮面を被り、同情と理解を装うしかなかった。


世界が音を立てて崩れていくようだった。まるで、捨てられたのは自分の方なのではないかとさえ思えた。


---


次の面談者が入ってきた。順平だ。


「アリサが泣きながら走っていくのを見たぞ。お前、本当に最低だな。どうして今日なんだ? なんでこんなやり方を選んだ? みんな知ってるんだよ、アリサがお前のことを好きだったって。でも、お前のやったことは……。倉田よりも冷酷だよ」


蓮は硬直した。順平の言葉は、予想以上に鋭く、彼の心をえぐった。容赦なく突き刺さり、さらに傷口を抉るように揺さぶった。自分の行動が、思っていたよりもずっと深く、誰かを傷つけていた。


順平はさらに言葉を重ねる。


「お前、人間かよ? ただ通知するだけの機械じゃねぇんだぞ? アリサは、お前を信じてたんだよ。それなのに……」


蓮の胸が締め付けられる。順平の言っていることは、間違っていない。蓮にそんなつもりはなかった。けれど、現実は無情だった。


「俺は……誰も傷つけたくなかった。ただ、正しいことをしていると思っていた」


「それが正しいこと? お前、権力があるからって、人の気持ちを弄んでいいとでも思ってんのか? マジでサイコパスじゃん」


蓮は沈黙したまま、順平の怒りをそのまま受け止めた。


「俺の落ち度だよ。でも、本当にそんなつもりはなかったんだ」


順平は嘲笑するように首を振った。


「お前が何を思ってたかなんて関係ない。事実として、お前はアリサを傷つけたんだよ。それをちゃんと認めろ。場を取り繕う言葉じゃなくて、どうやって人と向き合うのか考えろよ」


蓮は、足元の感覚がまた歪むのを感じた。重力が彼を引っ張り、世界がぐちゃぐちゃになっていく。本当に、全てがめちゃくちゃだった。好意を寄せてくれた子をリストラしなきゃいけないなんて。


「……俺、本当に最低だな」


順平は一瞥をくれると、そのまま部屋を出ようとした。


「少しは、他人の痛みを考えろよ」


---


蓮はデスクに突っ伏し、ぐったりとした。次の面談者が入ってきた。


それは圭介だった。だが、彼の名前はリストラリストには載っていない。


「リストラ自体には驚いてないよ。でも、俺が来たのは別件だ」


圭介は静かに言った。


「俺をリストラしてくれ。その代わり、アリサを残してほしい」


蓮は圭介を見つめた。混乱する頭では、彼の言葉をすぐには理解できなかった。彼の落ち着いた態度は、まるで現実味がなく、幻のようにすら感じられた。


圭介は続けた。彼の声には、不思議な落ち着きがあった。混沌の中にある、静かな炎のようだった。


「……みんな、今日はしんどい一日だったな。お前だって、リストラのリストを作ったわけじゃないのは分かってる。でもさ、アリサみたいな子は、こういうことで心を砕かれるんだよ」


蓮は彼の言葉を噛みしめた。アリサだけじゃない。彼女に限った話ではない。これは、彼らのチームの問題だった。仕事の問題だった。人生の問題だった。すべてが、たった一つの決定で壊れてしまったのだ。


「俺は、自分のことなんてどうでもいい。リストラなんて、もう何度も見てきた。でもアリサは違う。彼女は、まだ未来を信じてるんだ。だから、彼女にチャンスをやってくれ」


圭介の言葉は、蓮の胸に重くのしかかった。これは、単なるリストラじゃない。これは、人の人生を切り捨てるという行為だった。


だが、蓮は簡単に頷くことはできなかった。


「……俺にはどうしようもないよ。リストはもう決まってる。今さら何を言っても……」


「何を言っても遅くなんてない。今からでも、正しいことをすればいい。俺を切って、アリサを残せ」


圭介は、それ以上何も言わず、ただ蓮の答えを待った。


蓮は、絞り出すように呟いた。


「……考えてみる」


圭介は、ゆっくりと頷いた。彼の表情には、理解と期待が滲んでいた。


「お前なら、ちゃんと決断できる。信じてるよ」


そして、圭介は立ち去る前に、一つだけ言葉を残した。


「なあ、お前、考えたことあるか? 本社はどんな理由でもリストラできるんだぞ。次は、お前かもしれない。あるいは、お前の部下が全員いなくなるまで続くかもな。そのとき、お前はまだ"リーダー"でいられるのか?」


蓮は、黙って職場を見渡した。リストラ対象者たちが荷物をまとめる音が響く。整然としているが、どこか異様な光景だった。


彼は思い返した。圭介の言葉を、順平の怒りを、アリサの涙を、真理奈の選択を。


すべてが混ざり合い、一つの声になった。


「もし、この会社が俺の価値を見出せないなら……」


---


蓮の心が揺らいだ。


自分は本当に評価されているのか?それとも、ただ本社の都合に使われる駒に過ぎないのか。社員を使い捨てにし、業務効率を最大化するための「リストラ担当」にされているだけなのではないか?


昇進を目指して突き進むことに夢中になり、これまで一度も立ち止まって考えたことはなかった。会社は、そして自分自身は、数字や利益以外の何かを大切にしているのか? 生身の人間に、誰かが本当に関心を持っているのか?


思い返せば、入社当初は理想の企業に採用されたことを誇りに思い、意欲に満ちていた。目の前に広がるキャリアの未来に胸を躍らせ、昇進を夢見ていた。


——そして今。


かつて夢見たポジションに座りながら、現実に打ちのめされ、ただ疲弊している。


まるで、盛大な花火が打ち上がった後の静寂。虚しさだけが残る。


昇進は、自分の努力に対する正当な評価などではなかった。ただの取引だった。会社の都合に応じた"恩恵"。そのために払った代償は、想像よりもはるかに大きかった。


真理奈の退職が脳裏をよぎる。


彼女は誰よりも早く会社に失望し、静かに、そして潔く去っていった。もしかすると、彼女の判断は正しかったのかもしれない。


——結局のところ、自分は信頼してくれた人々を裏切ることしかできないのか?


では、これから自分はどうするべきなのか?


わからない。無力感が、蓮を深く覆っていた。会社の方針は明確だ。感情よりも数字、過程よりも結果が優先される。


再び、真理奈の姿が思い浮かぶ。


彼女はこの岐路で、何を選んだのか。


今の蓮には、彼女の行動が違う意味を持って見えた。


彼女の退職は、逃げではなかった。


むしろ、彼女は強かった。自分より、ずっと。


他人の価値観に縛られず、自分で人生を選び取った。


——そして今、蓮もまた、十字路に立たされている。


まだ、間に合うのか?


本社の命令に従い続け、会社の仕組みに組み込まれた"歯車"として動いてきた。自らその制度を支える側に回ってしまった。


だが、もしかすると——


もしかすると、今の立場を使って、この状況を変えられるかもしれない。


もしかすると——


これは、仮面を脱ぎ捨てるチャンスなのではないか。


正しい選択をするために。


信頼してくれた人々のために。


そして、自分自身のために。


---


半年後。


足音が近づいてくる。


蓮は静かに扉の方を見つめ、胸の奥がざわつくのを感じていた。


分かっている。いや、確信している。


倉田は、必ず真理奈をこのプロジェクトの責任者として送り込んでくる——。


あの老獪な男は、決して彼をからかう機会を逃さない。


彼は彼女の笑顔を、最後に見たあの決然とした涙を思い出す——。


そして、扉が開いた。


黒いロングコートを纏い、以前よりも長くなった髪をなびかせ、真理奈は入ってきた。


彼女の周囲には、管理職特有の冷静さと理知的な空気が漂っている。


蓮は瞬時に揺れ動く感情を押し殺し、「NET」の創業者としての仮面を被ると、彼女に手を差し出した。


「はじめまして、真理奈さん。METの蓮です。今回の協業を楽しみにしています。」


真理奈は小さく頷くと、まるで初対面のビジネスパートナーであるかのように、礼儀としてわずかに指先を触れさせただけで、すぐに手を引いた。


「はじめまして、蓮さん。QVも、この協業を期待しています。」


彼女の表情には、一切の感情が読み取れない。


——だが、彼女の心が決して穏やかではないことを、蓮は分かっていた。


真理奈は静かに会議室を見渡し、淡々と口を開く。


「では、早速ですが、無駄のない進行を心がけましょう。」


蓮は、ただ彼女を見つめるしかなかった。


そこには、かつて知っていた彼女の影は微塵もなかった。


何度も想像した再会の場面——しかし、そのどれとも違う。


これは協業ではない。


これは戦いだ。


このプロジェクトは計り知れない可能性を秘めており、成功すれば医療業界の勢力図を根本から覆す。どの企業も、この市場の最大の取り分を狙っている。


それゆえ、かつて恋人だった二人は——


運命に導かれるまま、否応なく対立することになった。


どちらかが勝ち、どちらかが負けるまで。


真理奈は資料を開き、無駄な感情を挟むことなく淡々とページをめくる。


蓮の視線を感じながらも、一度たりとも目を合わせることはなかった。


彼女には分かっていた。


蓮が何を探しているのか、何を確かめようとしているのか。


——しかし、二人の間には、沈黙のうちに交わされた絶望的な共通認識があった。


「……いいわ。それでいい。」


彼は決して譲らない。


そして彼女もまた、決して屈しない。


「本題に入りましょう。」


真理奈は軽く指でテーブルを叩くと、冷静な声で続けた。


「データの所有権はQVに帰属します。この点については交渉の余地はありません。」


その瞬間、彼女は初めて蓮を真正面から見つめた。


だが、その瞳には、かつての温もりはなかった。


そこにあるのは、冷徹なビジネスの視線。


まるで、二人の間に何かあったことすら、どうでもいいことだと言わんばかりに。


しかも、彼女は理由すら示さなかった。


METに対する、あからさまな侮蔑。


なぜなら、彼女は確信していた。


——今、この場で優位に立っているのはQVだと。


QVは長年にわたり医療業界に深く根を張り、政府や医療機関との強固なパイプを築いている。彼らが持つ医療データは、今回のAI診断システムの精度を決定づける最重要資産だ。


一方、METは技術力こそあるものの、ただの新興企業に過ぎない。


要するに、QVはどこの企業と組んでもこの事業を成功させることができる。


METが賢明なら、素直に譲歩し、QVの庇護下に入るべきなのだ。


——真理奈は、そう言外に示していた。


「さあ、蓮。あなたはどう出る?」


蓮は、それに対し、一切動じることなく微笑を浮かべた。


完璧なビジネスマンの顔。


そして、その口調には、わずかに挑発的な響きが混じる。


「僕たちのアルゴリズムがなければ、そのデータはただの数字の羅列に過ぎませんよ。QVがデータの主導権を握りたい? それは構いません。ですが、その前に僕を納得させる理由が必要ですね。」


真理奈は、微かに眉を上げた。


そして、淡々と微笑む。


「私はあなたを納得させる必要はありません。納得させるべき相手は倉田さんです。」


そして、一拍置いた後——


彼女の瞳が鋭く光る。


「……あなたは、QV以外の選択肢を持っていないでしょう?」


まるで鋭い刃で心の奥を突かれたような感覚が走る。


彼女は冷静なだけではない。


——完全に、彼を"敵"として見ている。


そして、二人の過去すら交渉材料にしていた。


蓮は数秒沈黙し、ゆっくりと資料に目を落とした。


再び顔を上げたときには、すでに表情を整えていた。


「データが重要なのは間違いありませんね。」


一度、言葉を切り——


その後、少しトーンを変えて続ける。


「しかし、それを最大限に活かせる技術がなければ、その価値は十分に発揮されません。真理奈、素材だけでは完成品にはならない。最終的な形にするには、技術が必要です。」


彼は、あえて正面から反論することなく、もっともらしい理屈を並べた。


この場の空気を完全にMETの劣勢に傾けないために。


真理奈は、まるで計算済みの財務表を確認するかのような視線を彼に向ける。


「つまり、METは技術力を、QVはデータを。それぞれが譲れないものを持っているということですね。」


そう言いながら、彼女は首をわずかに傾け、静かに言葉を続けた。


「蓮さん。物事の本質を変えようとしないことです。」


そして、彼女は手元の契約書に目を落とす。


まるで、今の会話が単なる確認作業だったかのように。


蓮は表面上の余裕を崩さずに、資料を閉じる。


「細かい点については、次回の会議で詰めていきましょう。」


真理奈もまた、職業的な笑みを浮かべる。


「ええ。METがどんな提案を持ってくるのか、楽しみにしています。」

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