一週間後、発表された人事結果――新任課長は、蓮
夜の帳が降りると、街は静寂に包まれる。真理奈は長い髪を無造作にまとめ、食材の下ごしらえを始めた。今日は蓮のために手料理を振る舞うつもりだった。
ニンニクのみじん切りを油に入れると、ジュワッと小気味よい音が立ち、香ばしい匂いが広がる。彼女はレンコンを炒めながら、リビングにいる蓮に声をかけた。
「ねえ、飲み物は何がいい?」
蓮は口元に微笑みを浮かべる。
「ありがとう。もう十分やってもらってるよ。飲み物か……ワインでもジュースでも、どっちでもいいよ。」
「私、一人でもちゃんとご飯作るから、気にしないで。それと、うちにはシャンパンしかないんだけど……さすがに今日はダメだよね。勝負前にシャンパン開けるのはフラグだし。」
彼女のブラックジョークに、蓮は思わず吹き出した。
「確かに。大事な局面でフラグは立てたくないな。じゃあ、水でいいよ。冷静さを保たないと。」
「じゃあ、氷もあげる。会社の人たち、噂話好きだからね。この時間にはもう『蓮が殴られた』って話、きっと本社まで届いてるよ。」
彼が氷を受け取り、肩をすくめながら苦笑する。
「ありがとう。でもまあ、自業自得だよ。噂はどうでもいいけど、本社はちゃんと状況を判断してくれるはずだ。」
彼は肩を軽く回しながら続けた。
「悪役を演じることと、本当に悪になることは違うから。」
「……でも、本社がちゃんと判断できなかったら?マイナスイメージがついて、昇進に響くかもしれないとは思わなかった?」
真理奈の問いに、蓮はしばらく考え込んだ。
「もちろん考えたよ。リスクがあることも分かってる。でも、これは計画の一部だ。俺たちの作戦は、成功させなきゃ意味がない。」
真剣な口調で言い切る彼。
「それに、成功さえすれば、このリスクは『大胆な決断』として評価されるんだ。」
真理奈は彼の顔を見つめ、心の奥にあった疑問を口にした。
「……もし、それでも昇進できなかったら?後悔する?」
蓮は即答した。
「しないよ。でも、もし全力を尽くさなかったら、それこそ後悔する。俺はやるべきことをやった。真理奈は?」
「……正直、複雑だったよ。だって、あの時、蓮は自らリスクを取って、私を安全圏に置いたでしょう?」
「そうだね。リスクを負った。でも、それは仕事のためだけじゃない。」
彼は湯気の立つ料理を見つめながら、静かに言葉を続けた。
「俺は……真理奈を信じてるから。君にはこの計画を成功させる力がある。」
彼の視線は真っ直ぐで、揺るぎないものだった。
「君は、ただの同僚じゃない。」
不意の言葉に、真理奈は戸惑った。
今は……その話をするタイミングじゃない気がする。
「もう遅いし、明日も仕事だよ。」
彼女がそっけなく返すと、蓮は微かに表情を曇らせた。
「そうだな……。まずは目の前の仕事を片付けないと。感情に流されて、計画を台無しにはできない。でも、覚えておいてほしい。君は、一人じゃない。」
どこか期待を込めたような声で、蓮は静かに言った。
「真理奈。来週が終わったら……その時は、ゆっくり考えよう。」
* * *
最終段階も計画通り進み、ADDMの代表は大いに満足していた。蓮に対しては誤解を謝罪し、次の四半期の契約にもサインした。真理奈に対する信頼は揺るぎなく、それは周囲の誰の目にも明らかだった。
退勤後、真理奈は蓮を呼び止めた。
「今夜、何か予定ある?」
「プロジェクトが一段落ついて、みんなホッとしてるよ。俺もリラックスしたいし……早めに寝るのもアリだな。まあ、静かにお祝いするのもいいか。」
彼は意味ありげな目で微笑む。
「真理奈は?何か予定あるの?」
「なんで私を誘わないの?静かにお祝いするなら、一緒にケーキでも食べたら?」
彼の目が輝いた。まるで、望んでいた答えを聞いたかのように。
「ケーキ?奇遇だな、俺もちょうど食べたいと思ってた。味は真理奈に選ばせてあげるけど……クリームだけ先に食べるのは禁止な。」
「は?私が君のコーヒー豆をちょっと拝借したことくらいしか悪さしてないけど?」
「お前、それ自覚してたんだな……。最近、在庫の減りが早いと思ってた。まったく、真理奈は油断ならないな……。まあ、今日は大目に見てやる。ケーキのために。」
「はは。じゃあこうしよう。君がワインを選んで、私がケーキを買ってくる。後で合流ね。」
「了解。じゃあ、思いっきり赤ワインを選ばせてもらおう。」
「……誰が『静かに』お祝いするって言ってたんだっけ?」
* * *
夜、真理奈はワインレッドのワンピースを身にまとい、赤いベルベットベリーケーキを手に蓮の部屋を訪れた。彼女の雰囲気は、どこか楽しげだった。
蓮がドアを開けると、目を見張った。
「……今夜の真理奈、すごく綺麗だ。ケーキも、美味しそうだね。」
彼は彼女を招き入れ、灯りを少し落とした。
真理奈はソファにもたれ、部屋を見回す。
「で?どんなワインを買ったの?」
「赤ワイン。一番ケーキに合うやつを選んだ。」
コルクを抜いた瞬間、芳醇な果実の香りが広がる。まるで、真夏のシチリアにいるかのような感覚だった。
「ちょっと、味見してみて?」
ワインを一口含んだ真理奈は、満足げに微笑む。その唇は、赤葡萄の果汁に染まったように艶やかだった。
蓮は、その光景に思わず息をのんだ。
「すべてが揃ったな……ワイン、ケーキ、仕事の成果。そして……俺たちの物語も、そろそろクライマックスだな。」
「そうね。来週には本社から昇進の結果が出るけど……さて、どうなることやら。」
蓮は彼女を優しく見つめ、静かに言った。
「それは激戦になるだろうけど……まあ、俺は運がいいほうだからな。」
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蓮の視線は真理奈に留まり、まるで全てが美しい幻想のように感じられた。
「すべてが片付いたな……ワイン、ケーキ、仕事。まるでエンディングみたいだ。」
「そうね。一週間後には本社から昇進の結果が出るわ。どう思う?」
彼女はグラスを軽く揺らしながら続けた。
「あ、このワイン、本当にいいわね。もう少し置けば、もっと飲みやすくなる。あなたの選んだワインにハズレはないものね。」
蓮は微笑みながら彼女を見つめた。
「君が気に入ってくれるなら、それでいい。適当に選んだわけじゃないよ。」
そう言って少し考え、核心には触れずに言葉を選んだ。
「結果については……かなり競争が激しかったな。」
彼はじっと真理奈の表情を見つめる。
「でも、結果は重要じゃない。俺たちはこの過程で多くを学んだし、全力を尽くした。それだけで十分、価値がある。」
真理奈は首を傾げ、少し考え込む。そして、思ったことをそのまま口にした。
「でも、やっぱり結果は大事よ。」
そう言いながら、ワインを一口含む。
「たった一人だけが選ばれるのよ? しかも、まるでロケットに乗るようなスピード昇進。最終的に、誰が選ばれると思う?」
蓮はケーキを切る手を止め、彼女を見上げた。
「正直、分からない。でも、それぞれ強みがあるよ。君の直感は鋭いし、計画性もある。それに、人からの信頼を勝ち取るのが本当に上手い。DMMAの代表も、君をかなり信頼しているようだったからね。だから……強いて言うなら、君が昇進する可能性の方が高い。」
彼は少し間を置いてから、ゆっくりと続けた。
「でも俺が言いたいのは、昇進だけの話じゃない。これから先、俺たちがどう向き合うかってことなんだ。俺は今も、これからも、何も変わらないよ。」
蓮は手を止め、心に浮かんだ言葉をそのまま口にした。
「真理奈はどう思う?」
真理奈はグラスを置き、少し微笑んだ。
「正直、結果にこだわってた。でも……あなたの言葉を聞いて、どうでもよくなったわ。昇進より、こうして静かに一緒にいることの方がずっと大事かも。」
彼女は軽く息をついて、冗談めかして続ける。
「たまに、本気で思うのよね。もう二人とも辞めちゃって、どこか新しい場所に行こうって。こんなにプレッシャーのある仕事も、競争も、駆け引きもないところへ。」
蓮は彼女を優しく見つめ、そっと頷く。
「俺も同じことを考えてたよ。ゲームみたいな駆け引きも、不安もなくて、ただ穏やかに暮らせる場所へ行きたい。」
彼は少し身を乗り出し、彼女の目をじっと見つめた。
「きっと、いつか叶うよ。二人で一緒に。信じてくれる?」
真理奈は微笑んで、彼の手を取る。
「信じるわ。ねぇ、もうちょっとこっち来て。」
彼女はぎゅっと彼を抱きしめ、心にあった迷いが完全に消えた。
「今は、ただあなたがいればいい。」
そして、突然いたずらっぽく笑う。
「でもね、もし私が昇進したら……私、あなたの上司になるのよ? じゃあ、最初の仕事を命じるわ。」
彼女はニヤリと笑って言った。
「今すぐキスして。」
蓮は吹き出して、小さく笑いながら彼女の隣に座る。
「それなら、喜んで。」
彼はそっと顔を近づけ、優しく唇を重ねた。
「これでいいかい?……ボス?」
「うん。」
真理奈は満足そうに頷く。
「ちなみに、年末ボーナスはパフォーマンス次第よ。しっかり働いてくれないと困るわ……あぁ、これが上司の気分? 倉田って普段、こんな気持ちなのかしら!」
蓮はクスクスと笑いながら、彼女の腰に手を回す。
「それなら、もっとキスすればボーナスが増えるってことだね? 俺、全力で頑張らないと。」
彼はからかうような口調で言った。
「でも、君は絶対に倉田より上手くやれるよ。なぜなら……俺の使い方を、君はよく分かってる。」
彼のキスは波のように途切れず、何度も繰り返された。
「私がどう使おうと、私の自由よ。」
彼女はまるで駄々をこねる子供のように言った。
「もちろん。でもね、いい上司は部下の心を掴むのが上手いんだよ?」
蓮は意地悪そうに微笑む。
「もしアドバイスが必要なら、俺はいつでもそばにいるよ?」
「また私を丸め込もうとしてる?」
真理奈は疑いの目を向けたが、すぐに笑ってしまう。
蓮も笑いながら肩をすくめた。
「バレた? でも、君のためを思ってるんだよ?」
彼は少しだけ照れたように微笑む。
「もっと他に、どうやって丸め込めるか……知りたい?」
その夜、二人はこれまでになく素直になり、心から通じ合えた。幸福の絶頂だった。
一週間後、発表された人事結果――新任課長は、蓮。
社内メールが送信された瞬間、オフィスには驚きと称賛の声が広がった。「若手のホープ」という言葉が、まさに彼にはふさわしい。周囲の同僚たちは次々と彼を祝福する。
真理奈は、その様子を見ながら、自分の気持ちを押し殺していた。だが、親しい人にはその変化が伝わってしまうものだ。
「蓮、おめでとう」
「ありがとう、真理奈。でも、これは俺一人の成果じゃない。チーム全員が関わったし、とくに君の力が大きかった。君が率いたプロジェクトだからこそ、期待以上の結果を出せたんだ」
彼は、彼女の沈んだ表情に気づいていた。
「今、素直に喜べないのはわかる。でも、君がこのチームにとってどれだけ大切な存在かは変わらない。君こそ、最もふさわしい評価を受けるべき人だ」
真理奈は口を開かず、ぎこちなく微笑むだけだった。
蓮は少し間を置き、さらに踏み込んだ。
「真理奈、結果は望んでいたものじゃなかったかもしれない。でも、それは君の努力が報われなかったわけじゃない。君の存在なしに、この成功はなかったんだから」
デスクの仕切りがあるせいで、それ以上彼女に近づけなかった。
「俺が今ここに立っていられるのは、君がいたからなんだ」
真理奈は、短く答えた。
「考えすぎよ。私は平気」
蓮は一瞬言葉を詰まらせたが、誠実な口調で続けた。
「もし何か思うことがあるなら、遠慮なく言ってほしい。言葉が出ないなら、一緒にいるだけでもいい」
「子どもじゃないんだから、慰めはいらないわ。ちょっと電話してくる」
そう言い残し、真理奈はその場を離れた。
***
彼女の背中を見送る蓮の元に、アリサがやってきた。
「新任課長さん、おめでとうございます! ところで、みんなが気になってるんだけど……今夜は昇進祝い、兼ねた飲み会やる?」
蓮はアリサを見ながら、ふと真理奈が去った方向へ視線をやる。
「……そうだな。みんなでちゃんと食事をしよう。アリサ、仕切ってくれるか?」
「もちろん! そういえば、総務から連絡があったんだけど、独立オフィスに移るの、いつにする?」
倉田のいたあの部屋か――蓮は少し考え込む。
「……急がない。もう少し考える」
***
しばらくして、真理奈が電話を終え、デスクに戻ってきた。
蓮はすぐに彼女を見つめ、少し笑みを浮かべながら言った。
「戻ったんだね」
「うん。何か進捗あった?」
彼女の声は、以前のような冷静な同僚のそれだった。だが、もう蓮が知っている“特別な彼女”ではなかった。
「誤解しないでほしいんだけど、私、別に怒ってるわけじゃないの。あなたが昇進したことに、文句を言うつもりもない。だからそんな顔しないで。まるで私が未練たらしいみたいじゃない」
蓮は小さく頷いたが、どこか不安は拭えなかった。
「なら、安心した。でも……」
彼は言葉を飲み込む。
「……あ、そうだ。今夜の飲み会、来るよね?」
「もちろん行くわよ。アリサが人均一万円の店を予約したらしいし、行かない理由がないでしょう?」
***
夜、レストランには豪華な料理が並ぶ。レモンソースの牡蠣、神戸牛のステーキ、贅沢なワイン。みんなは談笑しながら、楽しい時間を過ごしていた。
だが、話がプライベートな方向へ進むと、アリサの視線が真理奈に向いた。
「ねえ、真理奈って最近付き合ってる人いる? なんか、雰囲気がすごく柔らかくなったというか、女性らしさ増してるよね。彼氏ができたんじゃない?」
蓮の手が、グラスをぎゅっと握る。彼は、真理奈の答えを待った。
だが、真理奈は淡々と返す。
「いないよ。彼氏も、デートの予定もない」
「えー、信じられない! だって最近、めっちゃキレイになったし、絶対誰かいるでしょ?」
蓮の心臓が跳ねる。息をひそめるようにして、彼女の言葉を待った。
真理奈は静かに笑い、アリサに向き直る。
「アリサ、それならみんなに聞いたら? 私だけじゃなくて」
「じゃあ……蓮も聞いていい?」
急に振られ、蓮は少し動揺したが、表情を崩さず軽く笑った。
「俺? 俺も彼女いないよ。毎日仕事漬けだし」
そう言いながら、ワインを口に含む。
「みんな会社と付き合ってるようなもんだよな、はは」
彼は冗談めかして言ったが、内心はごまかしていた。
***
飲み会のあと、真理奈は帰宅し、ソファに深く沈み込んだ。酒はあまり飲んでいなかったので、思考は冴えている。最近の出来事を整理しながら、静かに時間を過ごしていた。
そんなとき――
コンコン。
ドアをノックする音がする。
開けると、そこにいたのは蓮だった。
彼の顔を見ても、真理奈は驚かなかった。
「こんな時間に、どうしたの?」
蓮は少し躊躇い、そしてゆっくり口を開く。
「……さっき、飲み会で言ってたこと。俺、時々わからなくなるんだ……君が言うことは、本当なのか、それとも違うのか……」
彼は真剣な目で、彼女を見つめる。
「俺たちの関係って、何なんだろう。……話せる?」
真理奈は時計をチラッと見て、静かに言った。
「こんな時間に?」
しかし、真理奈は蓮を止めることができなかった。
彼は強引に部屋へと足を踏み入れた。
「こんな時間にごめん。でも、聞かずにはいられなかった……。今日一日、君はずっと冷たかった。何があったのか、ちゃんと知りたいんだ」
真理奈は一瞬、どう答えればいいのか迷った。
蓮は慎重に言葉を選ぶ。
「……最近、いろんなことがあったよな。昇進のこと、それに他にもいろいろ。でも、だからって俺たちの関係まで変わる必要はない。俺は君のことを大切に思ってる。仕事がどうであれ、それはずっと変わらない」
しかし、真理奈はどこか突き放すような態度を取った。
「お互い独身で、こんな時間に二人きりって……不適切じゃない?」
蓮は頭から冷水を浴びせられたような気分だったが、それでも引き下がらなかった。
「君を困らせるつもりはない……でも、俺は自分の気持ちに正直でいたいんだ」
そう言いながら、一歩後ろへ下がり、少しだけ距離を取る。
「もし本当に俺を追い出したいなら、今すぐ帰る。でも、誤解だけはさせたくない。ちゃんと話をさせてくれ」
彼女の表情は相変わらず冷静で、どこか遠いものだった。
「誤解? 私たちの間に何もないなら、誤解する余地なんてないでしょ?」
蓮の胸がぎゅっと締めつけられる。
「……俺たち、もうただの同僚じゃないだろ? 一緒にいろんなことを乗り越えてきた。それなのに、このまま終わりにするのか?」
彼は一度考え込み、再び真理奈を見つめた。
「君はどう思ってる? ただの一時的な感情なのか、それとも……もっと長く続くものなのか?」
「なんで私にばっかり答えを求めるの? 自分では考えないの?」
彼は黙り込み、息を吐いた。
「……君の言う通りだ。たぶん、俺自身、怖くて向き合えなかったんだ。だから、自分でもまだ答えを持ってない」
だが、その瞬間、何かを思い出したかのように言葉を続ける。
「……でも、ひとつだけ確かなことがある。俺は君を失いたくない。無理に何かを決めろとは言わない。でも、もし俺たちの間に本物の何かがあるなら……絶対に諦めたくない」
沈黙の中、真理奈は蓮をじっと見つめた。
そして、突然。
彼女は彼を強く、深く、そして長くキスした。
まるで嵐のような熱を帯びたそのキスに、蓮の思考は吹き飛ばされた。心も身体も、その熱に絡め取られるようだった。
真理奈は彼を見つめながら、静かに問いかける。
「……これで、答えは出た?」
蓮はまだ呆然としていた。
「……出た、と思う。いや、もう迷わない」
彼の表情には、覚悟と、どこか柔らかい喜びが滲んでいた。
「明日、みんなに言おう。俺たちは付き合ってるって。同僚同士の恋愛禁止? そんな規則、今日から無効だ」
「……バカね。私、今日あんたに冷たくしすぎたみたい。冗談を本気にするなんて。彼氏として、ちょっと繊細すぎない?」
蓮はようやく緊張を解き、微笑んだ。
「いいよ、君の前では繊細でも。だって、君の前なら、ありのままでいられるから」
彼の瞳は熱く、真っ直ぐだった。
「恋人になったからには……君は本当に俺を選んでくれたってことでいいんだよな? それに、俺たちの未来についても、ちゃんと考えたい」
「え、もう未来の話? 気が早いわね。そうね……じゃあ、まずは昇進したい」
彼女はわざと蓮の反応を見ながら言ったが、すぐに少しだけ優しく微笑む。
「冗談よ。でも、私が欲しいのは昇進だけじゃない……。私はキャリアを築きたい、誇れる仕事がしたい。愛し、愛されたい。そして、心の平穏と、自由も手に入れたい」
蓮は彼女の言葉をかみしめ、深く考え込むような顔をした。
「……なるほど。君の目指すものは、ただの昇進や肩書きなんかじゃないんだな」
彼の視線は、一瞬たりとも彼女から離れなかった。
「俺は……俺の努力が正当に評価されることを証明したい。そして……何の駆け引きもなく、ただの『愛』を手に入れたい。安心して、偽らずにいられる関係が欲しいんだ」
彼は、彼女の手をそっと取る。
「誰にも隠すことのない、堂々とした関係を」
真理奈はわずかに目を細めた。
「そんなの、誰だって欲しいでしょ。でも、私だって言いたいことがある。あなたも完璧に正直だったわけじゃない。私が勇気を出して踏み込もうとするたびに、あなたは一歩引いてた。しかも、いつも私に決断を委ねるのよね。まるで、私が選択肢をたくさん持ってるみたいに」
蓮はじっと彼女の言葉を聞き、ひとつも聞き漏らすまいとしていた。
「……確かに。俺は慎重になりすぎてたのかもしれない。自分の気持ちが揺らぐのが怖くて、つい君に決断を押し付けていたのかもな」
蓮はそっと真理奈を抱きしめた。
「これからは、ちゃんと自分の気持ちを言葉にするよ。君に推測させたり、迷わせたりすることはしない。」
二人は静かに見つめ合った。
蓮は、この気持ちをすべて彼女に伝えたいと思った。
「駆け引きなんてもうしない。ただシンプルに、君と一緒にいたい。それだけでいい。もう迷ったりしない。」
真理奈は彼の言葉を噛みしめるように微笑んだ。
「その覚悟、見せてもらうわね。」
そう言うと、彼女はゆっくりとブラウスのボタンを外し始めた。
蓮は一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐに優しく微笑む。
「もちろん、有言実行するよ。」
言葉がなくても、互いの気持ちは十分に伝わっていた。
この夜は、これまでとは違う意味を持つ――
まるで節目のようであり、新たな始まりのようでもあった。




