今夜、うちに来る?埋め合わせをさせて
二人は最も早い便に乗り、急いで戻った。
飛行機の座席に並んで座ると、彼の指が自然と彼女の指と絡み合う。
あの街での危険な出来事が徐々に遠のいていき、機内には静かで穏やかな空気が流れていた。
着陸の準備が進み、街の輪郭が窓の向こうに浮かび上がる。
まるで出発前の地点に戻ったかのようだったが、心の中では何かが確かに変わっていた。
真理奈は甘えるような視線で蓮を見上げる。
「あなたに助けてもらったから、借りを作っちゃったわね。
何かひとつ、お願いを聞いてあげる。」
蓮は優しく微笑み、静かに首を振る。
「君は何も返さなくていいよ。俺は、ただ君を守りたかっただけだ。」
彼は一瞬考え、ふっと笑みを深めた。
その瞳には、抗えないほどの優しさが滲んでいる。
「……でも、どうしてもって言うなら。
帰るまでに、じっくり考えさせてもらおうかな。」
蓮は真理奈を家まで送り届けた。
彼は部屋を見渡しながら、先ほどのやり取りを思い出し、甘い余韻に浸っていた。
「心配なら、少しここに残ろうか?
それとも、一人になりたいならすぐに帰るよ。」
彼はいつもそうだった。
選択肢を彼女に委ねる。
でも今は、それが不快ではなかった。
「うーん……イケメンのマッサージが受けたい気分。」
彼は吹き出し、苦笑した。
「君って本当に、俺を休ませる気がないんだな?」
彼女の唇がいたずらっぽく持ち上がる。
「……どうかしら?」
彼は微笑みながら歩み寄り、優しく肩を押しソファへと導く。
彼の指が彼女の肩をゆっくりとほぐし、部屋には心地よい静寂が広がった。
「意外だな。こんなに強い君の肩、こんなに柔らかいなんて。」
真理奈は振り向き、いたずらっぽく彼を見た。
「強い? 私、内面はすごく脆いのよ?」
「君は強くもあり、脆くもある。でも、必要な時に絶対に折れない。
……俺がまだ知らない君の一面、たくさんあるんだろうな。」
彼は指先に集中しながら、丁寧に揉みほぐしていく。
「でもな、人には弱い部分があるのが当たり前だ。
それがあるからこそ、俺たちは"人間"なんだから。」
真理奈はクスッと笑った。
「なんだか、セラピストみたいね。」
蓮も笑いながら肩をすくめた。
「副業にしようかな?」
彼の手つきが、さらに優しくなる。
「君が必要なら、いつでもやるよ。」
真理奈は首を振りながら微笑んだ。
「……なんだか、過去24時間が夢みたい。
やっと落ち着いてきた。あなたもそうでしょ?
そろそろ倉田に報告しないと。」
彼は手を止め、表情が曇る。
「でも、倉田に報告するリスクについても話したよな。
俺たちの証拠が不十分だったら、逆にヤバいことになるかもしれない。」
「私だって、まだ迷ってるわよ。
でも、これはもう私たちが判断できるレベルの問題じゃない。」
彼女はスマホを取り出し、眉をひそめた。
「……あれ? 倉田の連絡先が見当たらない。
会社のグループチャットにもいない。」
蓮の眉がピクリと動いた。
「そんなはずない。倉田さんは、ほぼ24時間オンラインの人だろ?」
「アリサに聞いてみる……えっ、嘘でしょ?」
真理奈の顔が強張る。
「倉田、昨日クビになったらしい。当日退職、即退社。」
蓮の手が完全に止まった。
「……倉田さんほどの立場の人間が、
そんな扱いを受けるってことは、相当ヤバいことをやらかしたんだろうな。
しかも、このタイミングで……」
彼は不安そうに真理奈を見つめた。
「これからは、一歩ずつ慎重に動かないと。」
その時、彼女のスマホが鳴った。
画面には「本社メール」と表示されている。
「……副社長が、私たちを本社に呼び出してる。」
蓮は息をついた。
「何だよそれ……俺たち、まさか事情聴取でも受けるのか?」
真理奈も緊張を隠せなかったが、無理に落ち着こうとした。
「……もしかしたら、いい知らせかもしれないわ。
倉田さんは前から評判が良くなかったし。
それに、私たちにやましいことはない。」
会議室に到着すると、意外なことが待っていた。
副社長は、二人が顧客企業の不正を告発した勇気を高く評価したのだった。
実は、倉田と顧客企業の間には、長年にわたる不正な利益供与があったらしい。
そして、倉田の解雇によって、彼が務めていたポジションが空席となった。
本社は、そのポジションの後任を、
真理奈と蓮のどちらかから選ぶと決定したのだった。
会議室には、二人だけが残された。
スクリーンの電源が落ち、静寂が訪れる。
蓮は、副社長の言葉を反芻しながら、ぼんやりと考えていた。
「……昇進と給与アップ、か。
いい話だけど、枠は一つしかない。」
彼は真理奈を見つめる。
先ほどまでの軽やかな空気とは一転し、慎重な声音で言った。
「これは大きなチャンスだ。
でも……俺たち、本当に争うべきなのかな?」
彼は静かに彼女を見つめ、その答えを知りたがっていた。
真理奈は、迷いなく言った。
「チャンスは待ってくれないわ。
私たちが取らなかったら、誰かが持っていくだけ。」
蓮は考え込むように軽く頷いた。
「確かに、君の言う通りだ。でも、部長職はただのポジションじゃなく、責任も伴う。真理奈、本当にそれが欲しいのか? それとも、俺たちはただ、このシステムに流されているだけなのか……」
彼の声には迷いがあった。それはまるで、自分自身に問いかけているかのようだった。
しかし、真理奈の返事は迷いがなかった。
「もちろんよ。これは、より大きな権限と、より高い報酬を手に入れるチャンスなんだから。」
蓮の顔に、わずかな驚きが走る。
「なるほど、そこまで考えているなら……俺も全力で勝負するしかないな。」
「ってことは、もう私たちはライバルってこと?」
彼は小さく笑った。
「そうだな、また新しいゲームの始まりだ。」
蓮は椅子にもたれかかり、挑発的な表情を浮かべた。
「フェアに戦おう。勝った方がすべてを手に入れる。……俺は手加減しないけど、それでいいよな?」
「もちろん、そんなの最初から期待してないわ。」
彼は少し身を乗り出し、低い声で囁くように言った。
「ただ、一つだけ約束するよ。どちらが選ばれようと、俺たちの関係には何の影響もない。」
その瞳には、自信と野心が滲んでいた。
「さあ、お手並み拝見だ。……どっちがこのポジションを先に掴むか、見ものだな。」
真理奈は淡々と受け流しながらも、くすっと笑う。
「……ところで、今夜のご飯はどうする? まだ一緒に行く気ある?」
蓮もまた笑みを浮かべた。
「もちろん。まずは腹ごしらえして、エネルギーをチャージしないとな。店は君が選べよ。」
そして、いたずらっぽく目を細める。
「ただし、覚えておけよ。俺はもう、優勝したときの祝賀ディナーを決めてあるからな。」
真理奈は彼を見つめ、ふっと笑って首を振った。
「今日のあなた、やけに攻めてくるわね。」
「強敵が相手だからな。全力でいかないと。でも……心配するな。」
蓮は笑みを深めながら、低く囁くように言った。
「本番は、まだこれからだ。」
その余裕たっぷりの態度に、真理奈は思わず吹き出し、軽く睨むようにしながら席を立った。
翌日、プロジェクトのキックオフミーティングが開かれた。
新しいクライアントはADDM。ここ半年で急速に成長した企業で、強力な開発力と熱心なユーザーベースを誇っている。しかし、それと同じくらい「コスト管理が厳しい」ことでも有名だった。
真理奈と蓮は席につき、視線を交わしてから、顧客へと意識を向ける。
会議室の空気は、期待と緊張が入り混じったものだった。
確かに、ADDMは大手企業ほどの予算を持っていないかもしれない。しかし、このプロジェクトを成功させれば、会社としての戦略的な勝利となる。クライアントの実績を味方につければ、さらなるビジネスチャンスが広がるからだ。
真理奈は手元の資料に目を落とし、PPTのスライドをめくった。
予算が低いこと自体は問題ではない。彼女のチームは、限られたリソースを活かす戦略を得意としていたからだ。
一方、蓮もまた、ノートPCを前に集中していた。
複数の解決策を頭の中でシミュレーションしながら、同時に、真理奈との競争の緊張感も意識していた。
やがて、ADDM側の代表が話し始める。
グレーのスーツを着た中年の男性。粗削りな雰囲気を持ちつつも、実務に長けた印象を与える人物だった。
彼は立ち上がり、部屋を見渡しながら、はっきりとした口調で語り始めた。
「本日はお集まりいただき、ありがとうございます。我々ADDMは、成長過程にある企業です。我々のプロダクトは、すでに市場で一定の評価を得ていますが、目指すべきゴールはさらにその先にあります。」
彼は言葉を一旦区切り、しっかりと周囲を見渡す。そして、続けた。
「我々が求めているのは、単なる数字の羅列ではありません。我々のビジョンを深く理解し、それを具体的な形に落とし込めるパートナーです。市場で響く、本当に意味のあるソリューションを提供できるチームと協力したい。」
一瞬の静寂が流れる。
彼はさらに目を細め、テーブルを囲むメンバー一人ひとりを見渡した。
「我々の期待値は高い。
本気で未来を切り拓けるチームとだけ、一緒に歩んでいくつもりです。」
彼の視線は鋭く、まるで相手の腹の内を測っているようだった。
真理奈は少し眉を上げた。今こそ、自分の力を示す時だ。迷うことなく立ち上がり、落ち着いた声で自信を持って話し始めた。
「私たちは、貴社が求める結果をしっかりと理解しています。弊社は限られた予算の中で最先端のサービスを提供し、品質とコストの最適なバランスを実現することに長けています。どの企業よりも、お客様のニーズに応じたカスタマイズを熟知しています。そして、貴社の投資が確実に数値化された成果につながることをお約束します」
言葉に無駄はなく、過度な約束もしていない。まさに絶妙なバランスだった。
すかさず、蓮が言葉を引き継ぐ。
「弊社はこれまで成長企業と数多く協業してきました。その経験を活かし、貴社の持続的な成長を支える成果を出すことが可能です。ADDMのビジョンは、我々のアプローチと完全に一致しています。プロジェクトの各ステップを細かく分解し、投入されたリソースのフィードバックをもとに最適化を図りながら、確実に目標を達成します」
彼はADDMの代表と目を合わせ、一瞬の沈黙の後、言葉を続けた。
「私たちは、貴社と共に成長するプロダクトを生み出します。さらに重要なのは、私たちの成果が持続可能な成長を促進し、市場での影響力をより強固なものにするという点です」
ADDMの代表は思慮深げに頷いた。彼の表情からは、二人の回答に満足していることが窺えた。
「お二人のプレゼン、非常に印象的ですね。では、口先だけでないことを証明していただきましょう」
会議は進行していくが、部屋には依然として緊張感が漂っていた。
真理奈と蓮は、ついにこの場に立った。これは単なる業務ではない。二人の間だけに存在する、一対一の戦いでもある。協力しながらも、互いに負けるつもりはない。勝利の果実を独り占めするのは、どちらか一方だけなのだから。
やがて会議が終わり、参加者が退室する中、二人は無言のまま部屋に残っていた。
蓮が低い声で、まるで独り言のように呟く。
「この勝負、最後に立っているのはどっちかな」
真理奈は口元を少し上げ、プロジェクターに映し出されたスライドを見つめた。彼女には分かっていた——この戦いは、いよいよ本格的に始まったのだ。
「さあ、仕事に取り掛かりましょう」
***
会議室を出た二人は、オフィスの片隅にあるコーヒーメーカーの前へと向かった。
真理奈は思案しながら、蓮に話しかける。
「このプロジェクト、実はそんなに難しくない。今まで通りにやれば、ADDMも納得するでしょう。でも、もし彼らの期待を超えるような提案ができたら?」
蓮はカウンターに肘をつき、彼女の考えを追うように頷いた。
「そうだな……もっと踏み込めば、彼らが予想もしなかった成果を出せるかもしれない」
彼はコーヒーを一口飲み、少し考えてから言葉を続けた。
「問題は、どうやって彼らを驚かせるか、だな」
「いい質問ね。それは、あなたが考えるべきことじゃない?」
真理奈が軽く笑いながら言うと、蓮は楽しげに口元を上げた。彼はカップをコーヒーメーカーに置き、ボタンを押す。
「もし、私たちの提案を単なる『サービス』ではなく、『未来への投資』だと認識させることができれば、彼らは追加予算を検討するかもしれない」
彼はオフィスの光景を見渡しながら、一つの結論にたどり着いたようだ。
「段階的な導入を提案しよう。最初の成果を確実に出して信用を得つつ、将来的に拡張できる余地を示せば、彼らはより多くを求めるはずだ」
腕を組み、真理奈の反応を待つ。
彼女は少し首を傾げ、何かを思いついたように微笑んだ。
「……ねえ、あなたはギャンブルがどうやって人を引き込むか知ってる?」
蓮は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに彼女の意図を理解した。
「なるほど……最初に少し勝たせて、その後少し負けさせる。そして、彼らが本気で賭ける頃には、もう引き返せない状態にする……ってことか」
真理奈の目が挑戦的に光る。
「そういうこと。一度期待以上の結果を見せて、その後は彼らが自らもっと投資したくなるように誘導する。私たちが全てをコントロールするのよ」
蓮は愉快そうに笑った。
「面白いな……『大勝負の前に信頼を築く』ってやつか。これは確かに効果がありそうだ」
彼の目には、明らかに高揚した色が宿っていた。
「よし、仕掛けてみよう。彼らが『最良の結果』を手にしたと安心した時に、さらに上を見せるんだ」
真理奈は彼の横顔を見つめた。この一瞬、彼女は確信した。
「……私たち、最高のパートナーかもしれないわね」
二人の計画は順調に進み、第一段階を終えた時点で、ADDMは成果に満足していた。
しかし、真理奈は気を緩めず、蓮に釘を刺した。
「まだ勝負は終わってないわ。次の段階では、少し痛い目を見せる必要がある。」
蓮は彼女の意図をすぐに察した。
「そうだな。第一段階は、俺たちの実力を示すためのもの……いわば餌だ。」
彼は続ける。「次の段階が終わった時、彼らが『もっと投資しなければならない』と自覚するように仕向けるんだ。俺たちが、その気づきを手助けしてやる。」
蓮は真理奈に視線を向け、次に待ち受けるプレッシャーを思い浮かべた。
「準備はいいか?」
「もちろん。彼の怒りを正面から受け止める覚悟はできてる。でも……やりすぎたら、逆に信頼を失うかもしれない。バランスをうまく取らないと。」
彼女は考え込むように口元に指を当て、ふと顔を上げた。
「……ねえ、一人が厳しいことを言って、もう一人がフォローするっていうのはどう?」
蓮はしばし考え、頷いた。
「それはいい案だな。俺が“悪役”をやろう。厳しい現実を突きつけて、プレッシャーをかける。お前は、理性的にそれを和らげて、彼を安心させる役をやれ。最終的に、彼が頼るのはお前になる。」
彼の目には、強い信頼の色が宿っていた。
「これは微妙な駆け引きだ。プレッシャーは十分にかけるが、絶望させてはいけない。彼が追い詰められたその瞬間こそ、お前の“魔法”の見せどころだ。」
そう言って、蓮はふっと笑った。
「正直、お前がどう“魅了”するのか楽しみだ。」
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計画通りにことは進んだ。
蓮はADDMの代表を徹底的に追い詰め、相応の反発を受けた。
そのタイミングで真理奈がフォローし、代表の信頼を取り戻すことに成功する。
結果、彼の方から予算の増額を申し出てきた。
会議が終わった後も、会議室には二人だけが残っていた。
PPTの画面が静かに光を放っている。
「大丈夫か?」
蓮はこめかみを揉みながら、少し疲れた表情で真理奈を見た。
彼の瞳には、尊敬の念と共に、どこか安堵の色が見えた。
「平気さ。ただ、ちょっと頭がガンガンするな……まあ、計画通りの展開だったし、問題ない。」
椅子にもたれながら、彼は笑みをこぼした。
「しかし、お前は本当にすごかった。人を操るのがうまいな。」
彼は息を吐き、少し真剣な顔になる。
「それに、フォローしてくれて助かった。ADDMの代表はなかなか手強い相手だった。」
そして、またいつもの調子で笑う。
「でも、やっぱりお前と組むのは楽しいな。」
真理奈は表面上は落ち着いていたが、内心では複雑な思いを抱えていた。
彼女はため息をつき、ぽつりと漏らす。
「……正直、途中でちょっと焦ったわ。あそこまで怒るとは思わなかった。それに……私たち、こんなふうに仕事に人生捧げるべきなの?」
蓮は彼女の言葉に共感し、静かに頷いた。
「確かにな。今日は少しやりすぎたかも。」
彼は身を乗り出し、少しだけ距離を縮めた。
「俺も、時々考えるんだよ。俺たちは仕事のためにどれだけのものを犠牲にして、何を得てるのかって。昔、ゲームにハマってた頃を思い出すよ。夢中になりすぎて、気づいたら朝になってた、みたいな。」
そう言って、蓮は真理奈の目を真っ直ぐ見つめる。
「でも、俺たちは子供じゃない。自分を見失うほどバカじゃないはずだろ?」
彼女は目を伏せ、わずかに微笑んだ。
「……そうね。計画通りにはいった。でも、やっぱり少し悪い気がする。」
彼女はちらりと蓮を見て、何か思い立ったように口を開く。
「今夜、うちに来る?埋め合わせをさせて。」
蓮は一瞬動きを止め、目を細めた。
「埋め合わせ、ね。」
彼の声は、先ほどまでの冗談めいたものとは違い、どこか優しい響きを持っていた。
「俺は誰も責めてないよ。でも、お前が罪悪感を持ってるなら……遠慮なく、埋め合わせしてもらおうかな。」
彼は少し考えた後、意地悪そうに口元を歪める。
「……それとも、何か新しい作戦の相談か?」
真理奈は、からかうように笑った。
「さあ、どうかしら。とにかく、来なさいよ。」
「わかった。じゃあ、後でな。」




