お前が一声かければ、俺は新しい『犬調教マスター』としてお前に仕えるぜ!
同時刻、MET本社——
蓮はちょうど朝会を終えたところで、誠司が正面から歩いてきた。
「QVが一方的にデータの権限を変更した。簡単に言うと、もうアクセスできない。」
蓮は眉をひそめたが、すぐに表情を緩めた。上顎を舐めるような仕草をしながら、まるで余裕たっぷりの経営者のように、怒るどころか笑みを浮かべた。
「へぇ、真理奈、そこまでやるとはな。追い詰められた犬ほどよく吠えるってか。」
清奈が隣で眉を上げた。
「まあ、私でも同じことをするわ。私たちだってそんなに高尚な存在じゃないしね、ふふっ、全員クズってことで。」
蓮は少し考え、これは好機だと判断した。彼はスマホを取り出し、ある番号に電話をかけた。
すぐに電話がつながる。真理奈の声はいつも通り冷静だった。
「蓮?」
「午後?」
「14時。」
二人はほぼ無言のまま、長らく決まらなかった利益分配会議の時間を、たった二秒で決定した。
電話を切った直後、蓮のスマホに真理奈からメッセージが届く。
「今回は脱ぐなよ。見たくない。」
蓮は画面を見て、鼻で笑い、指を素早く動かした。
「安心しろ、今回はスーツだ。お前が集中できるようにしてやるよ。」
「よろしい。あと、カップは無罪だから割るな。無能の怒りをぶつけるなら自分の頬にしとけ。」
「忠告感謝。でも、お前も氷嚢を準備しておけよ。話し合いが終わる頃には、お前のほうが自分を殴りたくなってるかもな。」
「METってそんなに貧乏なの?氷嚢すらないなんて。だったら早くうちに買収されろよ。うちは氷嚢、使い放題だぞ。」
「ほう、負け惜しみすら洗練されてるな。財務諸表も氷嚢みたいに潤沢だといいが?」
昼食の時間、社内はこれからの交渉に向けてピリピリした空気が漂っていた。しかし、蓮だけはどこか上の空で、ときおり笑みを浮かべていた。
順平がチラッと蓮を見て、ボソッとつぶやく。
「こいつ、なんか企んでる顔してんな……。」
アリサは首を振り、冷静に言った。
「違うわよ、これは恋愛脳が発症してる顔。」
蓮は二人の会話など聞こえていないかのように、ふとアリサに尋ねた。
「アリサ、午後のお茶でも頼もうか?」
清奈はその瞬間、嫌な予感を覚えた。
彼女は蓮を人目のつかない場所に連れて行き、真剣な表情で言った。
「手伝いが必要?」
蓮は片眉を上げてにやりと笑う。
「ああ、前にお前に頼んだ、“俺と親しげにして真理奈を嫉妬させる作戦”のことか?」
彼はおどけたように肩をすくめた。
「いや、もう必要ないな。真理奈も自分の気持ちに気づいたみたいだし。」
清奈の顔は無表情になり、一字一句はっきりとした口調で言った。
「もう一度聞く。お前、本当に私の助けはいらないの?」
蓮は余裕たっぷりに笑いながら答えた。
「清奈、気遣いありがとう。でも今、必要なのは俺の助けじゃない。真理奈のほうが冷静になる必要がある。」
「……違う。お前のほうだよ。」
そう言うと、清奈は勢いよく蓮の頬をひっぱたいた。
パシン!
「これで目、覚めた?」
蓮は二秒ほど固まった後、ゆっくりと頬に手を当てた。
「……覚めた。ありがとう。」
すぐにいつもの調子に戻ったが、清奈は腕を組み、鋭い目つきで彼を見据えた。まるで誇り高き孔雀のように。
「よろしい。よく聞け。お前が今から行くのは恋愛の場じゃない。交渉の場だ。金!莫大な金がかかってる!そのことを忘れるな!」
蓮は深いため息をつき、無理やり笑顔を作った。
「わかった、わかったよ。」
彼は軽く頬をつねって、じんわりとした痛みを感じながら、余計な感情をすべて捨て去る。
その様子を遠くから見ていた三人組は、すっかり別のストーリーを想像していた。
順平は身震いしながら言う。
「やべぇ……新時代の女王誕生か……。蓮、完全に手玉に取られてるじゃねえか。」
アリサはため息をつき、どこか納得したようにつぶやく。
「私は蓮と真理奈派だけど、蓮に清奈がいるなら、他の女と線引きするのは当然よね。清奈、昨日のキャンプ場の時点でこのビンタを準備してたわね。これは不可避だったわ。」
順平は自分の頬をさすりながら、何かをシミュレーションするような仕草をする。
「昨日、やけに静かだと思ったら……。いや、ここまで耐えられるってことは、何をやっても成功するタイプだな、清奈。」
圭介は頷き、清奈の判断力に感心したように言う。
「まあ、蓮みたいな優柔不断なタイプには、清奈くらいの強さがないとダメだよな。」
しかし、蓮は自分がまったく別の物語を作られていることに気づいていなかった。
ただ静かにネクタイを締め直し、深呼吸をし、一歩前へ進んだ。
会議室のドアを押し開けた瞬間、ちょうど真理奈も席に着いたところだった。
蓮は穏やかな微笑を浮かべ、落ち着いた口調で言った。
「真理奈、率直に話そう。QVの最近の広報危機を考えると、市場の信頼は大きく揺らぎ、株価はすでに12%以上下落している。この状況を踏まえれば、METがより合理的な分配を求めるのは当然のことだと思う。例えば——利益の55%とかね」
真理奈は考えているふりをしながら、淡々と返した。
「ふーん」
蓮は優しく説き伏せるように続けた。
「この数字が不当だとは思わないよね? 今、主導権は完全にこちらにあるんだから」
真理奈は、まるで小学生を見るような目で彼を見つめた。
「へぇ、積極的な空売りってやつ?」
「市場のルールさ。誰もがやっていることだよ。QVの株価なんて気にしないなら、知らんぷりをしてもいいけど」
そう言って、蓮はスマホをゆっくりと取り出し、最新の経済ニュースを開くと、真理奈の前に差し出した。
「これを見て——『複数のファンドがQVから資金を引き揚げ、市場はQVの歴史的赤字を予測』 って記事だよ。これでも強気でいられる?」
真理奈は画面をじっと見つめたが、表情ひとつ変えなかった。
「株価なんて上がったり下がったりするものよ。そんな些細なことで、うちが潰れるとでも? うちには社員が一万人いるのよ、そんな簡単に沈むと思う?」
彼女は「一万人」という数字を強調した。規模がたかだか数十人のMETに、身の程を弁えろと言わんばかりに。
蓮の目がわずかに細まり、彼女を鋭く見つめた。
「もちろん、潰れるわけがない。でもね、信頼というものは株価よりも簡単に崩れるんだ。それに、君たちに一万人の社員がいるなら、こっちにも一万通りの手があるってことさ」
真理奈は鼻で笑った。
「好きにすれば? 私は別に困らないけど」
蓮はこの瞬間、今日の真理奈がいつもと違うことを悟った。静かな余裕を持ち、まるで達観した賢者のように、それでいてどこか不良じみた軽薄さも感じさせる。
彼は目を細め、低く抑えた声で言った。
「真理奈、本当にそんな強硬姿勢でいくつもり? METは慈善団体じゃない。こちらの忍耐にも限度がある」
「なに、脅してるの?」
蓮は仕方なく、少し柔らかい口調に変えた。
「こうしよう。QVの市場信頼を回復させ、今回の広報危機を完全に消し去ることもできる。その代わり、より多くの利益を譲ってもらう」
「ふーん」彼女は適当に相槌を打ち、さらりと言った。「じゃあ55%で」
蓮は一瞬驚いたように目を瞬かせた。
「そんなにあっさり? ちょっと意外だな」
真理奈は彼の表情をじっくり味わうように眺めた。
「何も意外じゃないわ。QVが55%取るのは当然でしょ?」
「……俺が言ってる55%は、METが取る55%だ」
「それは無理。ここが私のラインよ」
蓮は微かに眉を上げ、予想通りといった表情を浮かべた。
「何を根拠に? QVがデータ共有の権限を取り下げると脅してる?」
真理奈は知らないふりをした。
「何の話?」
蓮はため息をつき、子供に説明するような口調で言った。
「データ共有に関しては、正式な契約を交わしている。今のQVのやり方は契約違反だよ、わかってる?」
真理奈は無邪気な表情で目を丸くした。
蓮は苦笑しながら続けた。
「裁判で争うこともできるけど、それじゃQVのキャッシュフローが持たないだろう?」
彼は一拍置いて、微笑を浮かべながら付け加えた。
「もちろん、穏便に解決する方法もある。そのためには、君も少しは譲歩したほうがいい」
真理奈は蓮の言葉を遮るように片手を上げ、その場で電話をかけた。そして数秒後、申し訳なさそうに言った。
「やだ、大変。どうやらうちのシステムにバグが出たみたい。アクセス権がロックされちゃったって。偶然よ、もちろん今すぐ修正に取り掛かるけど……残念ね、METはしばらくデータにアクセスできないみたい」
「真理奈、そんな子供騙しの言い訳を俺が信じると思う?」
「バグはバグ、仕方ないわ。不可抗力よ」
蓮の目から、笑みが消えた。
「真理奈、これは交渉じゃない。脅迫だ」彼は低い声で言った。「本当にこのまま突き進むつもりか?」
真理奈は目の前のグラスを手に取り、蓮の前にそっと置いた。
「バグや不可抗力を私のせいにしないで。気に入らないなら、このグラスでも割ってみたら?」
蓮は静かに息を吸い、そのグラスを見つめた。
数秒後——彼は小さく笑った。そこには、ほんの少しの諦めが混じっていた。
「公平にいこう。50%で手を打たないか?」
それは、真理奈にとって十分な条件だった。QVのメンツは守れたし、目的は達成できた。だが、彼女は蓮の最初の傲慢さが気に入らなかったし、脅しと取引を交えてくる態度も気に食わなかった。今日の蓮のスーツの色もイマイチだったし、時折見せる「策士気取りの得意顔」も鼻についた。
だから、最後にもう一撃加えることにした——
「交渉の余地なし!」
蓮の表情が一変した。
「真理奈、調子に乗るなよ。METに反撃の手がないとでも思ってるのか?」
真理奈はゆるく微笑んだ。
「へぇ、聞かせてもらおうじゃない?」
蓮の声には明らかな脅しが込められていた。
「お前たちQVは今、負の評判にまみれて市場の信頼を失っている。俺がもう一押しすれば、完全に立ち直れなくなるぞ。METは大量のデータを持っているし、俺たちが競合に協力すれば、奴らの製品開発は一気に加速する。それに——お前、本当に役員たちがいざという時にお前をスケープゴートにしないとでも?」
彼の声は穏やかだったが、言葉の一つ一つが蛇の舌のように鋭く、冷酷な威圧感を放っていた。
室内の空気が一瞬で張り詰め、二人の視線がぶつかる。まるで剣を交える前のような緊張感が漂う。
——その時、清奈が花の香りを纏いながら突然入ってきた。
「——ごめんね、ちょっとお邪魔するわ。」
にこやかな笑みを浮かべ、まるで二人の間の火花を楽しんでいるかのような余裕の態度だ。
「蓮、頼んでたアフタヌーンティー来たよ。ちょっと外に出て取ってきて。」
蓮が反応する間もなく、清奈は彼の腕を掴んで会議室から引きずり出した。
部屋を出ても、蓮の表情は険しいままだった。低く問い詰める。
「何のつもりだ?」
清奈は真剣な顔になり、強い口調で言い放った。
「何のつもりって、こっちのセリフよ!あんたを正気に戻す必要があるわね!」
蓮は反射的に顔を庇う。
「正気?俺をハメようってんじゃないだろうな?」
それだけでは収まらず、もう一言付け足した。
「アイツ、もう俺の頭の上にまで乗っかろうとしてたんだぞ?俺を引きずり出してどうする、逃げるのか?」
清奈はため息をついた。
「二人とも冷静になった方がいいわ。お互い感情をぶつけすぎて、交渉がややこしくなってるの、気づいてない?」
蓮は冷笑を浮かべ、皮肉っぽく言う。
「へぇ、それじゃ俺たちは何のためにここに来たんだ?お茶でも飲みながら人生語れって?」
彼は清奈を睨みつけ、まるで駄々をこねる子供のような態度を取る。
「向こうは攻め続けるばかりで、こっちが下がればさらに踏み込んでくる。なのに、俺だけ冷静になれって?お前が言ってたよな?金だよ!大金を稼ぐためにやってんだ!」
「それが本当に問題なの?」清奈は蓮の目をまっすぐに見据える。
「違うでしょ。問題は涼真よ、分かる?」
「……どういう意味だ?」
「涼真は、METとQVの両方を利用して儲けようとしてるのよ。むしろ、あなたたちが喧嘩するのを心待ちにしてる。
対立が激しくなればなるほど、市場は不安定になり、彼はそれを利用して大儲けできる。まだ気づいてないの?」
蓮の眉がわずかに動き、目つきが鋭くなる。
「つまり、裏で手を回してるってことか?」
清奈は頷き、そして少し首を振った。
「ええ、でも彼が何か特別な工作をしたわけじゃない。最初から、あなたたちを敵同士に仕立て上げただけ。
あなたたちの衝突は計算済み。争いが激化すればするほど、彼は空売りで利益を得る。」
清奈はさらに続けた。
「涼真って、複雑な展開を作るのが好きなのよ。今の状況、彼にとってはまだつまらないレベル。正直、私もこんなのじゃ楽しめないわ。」
蓮の表情が徐々に落ち着きを取り戻していく。彼は清奈の言葉を完全に理解した。
「なるほどな……なら、涼真を退屈させるわけにはいかないな。」
そう言って、彼は二つのドリンクを手に取り、表情を整えて再び会議室へ向かった。
***
蓮はドアを開け、微笑みながら入室する。
「さっきは感情的になってしまって、申し訳ない。」
そう言って、彼はドリンクをテーブルに置き、真理奈の目をしっかりと見つめる。
「もう一度、仕切り直させてくれないか?お互いに納得できる形での合意を目指そう。」
真理奈は少し驚いた様子だったが、すぐに表情を引き締めた。
「納得できる形とは?」
蓮はより真剣な表情になり、穏やかに続ける。
「納得できるというのは、お互いの立場を尊重し、バランスを取ること。
QVにとっては競争力を維持し、正当な利益を確保することが重要だろう。
METとしては、正当な見返りを得つつ、一方的に押しつぶされないことが必要だ。」
彼は真理奈の目を見つめ、力強く言う。
「そして、最終的に我々の協力によって技術が進歩し、双方に長期的な利益をもたらす。」
真理奈は少し黙り込んだ。彼女の目は深く思案するように揺らぎ、やがて小さく笑った。
「……なるほど。そういうことなら、五分五分で手を打ちましょう。」
蓮は軽く頷く。
「ありがとう。今回の協力が、より大きな未来につながることを願ってる。」
そして、ふと思い出したように口を開く。
「……そうだ、データアクセスの件なんだけど。」
真理奈は小さく笑い、何食わぬ顔で電話をかける。
「もう復旧済みよ。METはいつでもデータベースにアクセスできる。その他の要求も、協力できる範囲で対応するわ。」
蓮は軽く笑い、冗談めかして言う。
「QVのバグ修正スピードは思ったより早いんだな。」
真理奈は淡々と答えた。
「このミルクティー、結構美味しいわね。」
***
会議が終わり、清奈はドリンクを一口飲んで満足げに微笑んだ。
清奈は一口のタピオカミルクティーを飲み、満足げな表情を浮かべた。
順平は彼女の横から顔を出して言った。
「お前が一声かければ、俺は新しい『犬調教マスター』としてお前に仕えるぜ!」
「犬調教?」彼女は軽く笑って言った。「順平、君の言葉、少し下品ね。でも、そんな風に言うなら…もしかしたらチャンスを与えてあげてもいいかもしれないわ。」
順平はすぐに手をひらひらと振った。
「いや、犬になりたいわけじゃない。ただ、君がどうやってあの連中を操るのか見てみたいんだ。」
清奈は穏やかに笑い、鋭い目を光らせた。
「操る?実際は簡単よ。彼らの欲望をうまく導けば、あとはすぐに解決できるわ。」
「それなら、」順平は道を歩いている誠司を指さしながら言った。「あの人はどうだ?欲望があるようには見えない、まるで機械みたいだ。」
清奈は順平が指さした方向に目をやり、少し皮肉な表情を浮かべた。
「達人は必ずしも自分を表に出さなくてもいいの。静けさもまた力の一つだということを、君も理解すべきよ。」




