真理奈、認めろよ! お前、心の奥じゃ、俺のこと欲しくてたまらないんだろ
蓮は足早にオフィスへと入った。しかし、予想していたような緊張感はどこにもなかった。
社員たちは普段と変わらず談笑し、コーヒーを片手に雑談する者もいれば、他愛ない噂話に花を咲かせる者もいる。まるで何事もなかったかのような光景に、蓮は思わず眉をひそめた。
まるで夢の中にいるような気さえしてくる。
そんな中、誠司がのんびりと歩いてきた。片手には、かじりかけのサンドイッチを持っている。
「おっ、蓮、来たか」
咀嚼しながら、誠司は気の抜けた声で言った。
「そんなに焦らなくていいよ。ただの腕試しみたいなハッキングだ。実害はほぼゼロ」
蓮は一瞬、状況が飲み込めなかった。
「でも、音声チャットでは『サーバーが攻撃された』って……」
「まあ、確かに攻撃はされた。でも手口は初歩的なものだし、データベースには一切手を付けられてない。むしろ、こっちの小さな脆弱性がいくつか見つかって、ついでに修正もできたくらいさ」
蓮は改めてオフィスを見回した。やはり、誰も騒いでいない。自分が思っていたより事態は深刻ではなかったらしい。これは夢でもなんでもなく、現実だ。
そこへ、アリサが少し戸惑った様子でスマホを手にやってきた。
「蓮、これ……見たほうがいいかも」
彼女はスマホの画面を見せた。
ひとつは、大手テック系ニュースサイトが「METのAIモデルが昨夜ハッキング被害を受けた」と報じた記事。数行の短いニュースにも関わらず、シェアやコメントがすでに万単位に達していた。
もうひとつの記事には、あるSNSの投稿のスクリーンショットが載せられていた。投稿されたのはほんの数分前。
そこには、一連のコードの画像とともに、意味深なメッセージが添えられていた。
「君たちの防御はまだ甘い。次は本気で行くよ。」
蓮は眉をひそめる。技術のことは詳しくないが、これが挑発であることは一目瞭然だった。
誠司も横から覗き込み、表情が引き締まる。そして素早く社内のセキュリティログをチェックし始めた。
「へぇ……これはちょっと面白くなってきたな……」
蓮は冷静に尋ねた。
「どういう意味だ?」
誠司の目が微かに輝いた。
「正直、思ってたより腕が立つ。さっきの攻撃よりレベルが上がってる」
「でも、さっきは『半端なハッカー』って言ってたよな?」
「あれは最初の攻撃に対する評価。こいつ、まだ本気を出してない可能性がある」
「じゃあ、こっちはどう対応すべきだ?」
普段は淡々としている誠司が、まるで生き生きとした機械のように動き始めた。
「決まってる。挑戦を受ける」
蓮は思わず顔をしかめた。
「誠司……もしかして楽しんでないか?」
「さあね?」
誠司は肩をすくめ、口元に微かに笑みを浮かべた。
「単なるパッチ作業より、こういうののほうがやりがいがあるのは確かだけどな」
それを聞いたアリサは、呆れたように言った。
「……誠司、もしかしてわざと小さな抜け穴を残して、次の攻撃を待つつもりじゃないでしょうね?」
「そんなことはしないよ」
誠司は真顔で答えた。
「そんな古臭いおとり捜査はしない。もっと洗練された方法を考えるさ」
蓮は少し考えたあと、誠司の肩を軽く叩いた。
「頼むから、慎重にな」
アリサは二人の様子を見て、ため息をついた。
「……はぁ。私は広報チームと対応を相談してくる。SNSのコメント、もうとんでもないことになってるし」
彼女は指をスクロールしながら、いくつかの高評価コメントを読み上げた。
「METが自作自演してるんじゃね? わざと攻撃を演出する、古典的なマーケティング戦略だろ」
「社内に内通者がいるんじゃないの? まずは自分たちを疑ったほうがいい」
「競合企業の嫌がらせか? METはどこかの利権を踏んだのか?」
「いや、蓮自身が元ハッカーって話あるしな……知ってる人は知ってる」
蓮は額を押さえ、深いため息をついた。
「……なんだこのカオスな流れは」
すると、アリサがふと何かを思い出したように言った。
「ねえ、前にチームビルディングしようって話してなかった? 今週やっちゃおうよ」
蓮は顔を上げた。
「チームビルディング?」
「そう。こんな時こそ、こっちが動揺してないって見せるのが一番の広報対策よ。ポジティブなムードを打ち出せば、デマも自然と消えていくでしょ?」
蓮は少し考えたあと、静かに頷いた。
「……それも一理あるな」
アリサが軽く瞬きをした。
「私が仕切るから、満足させるよ」
木曜日の夕方、森林公園。
今回のチームビルディングは、一晩キャンプをしながら自然を満喫することになった。
アリサ曰く、「都会の喧騒を離れて、新鮮な空気を吸うことが大切」とのことらしい。
蓮は深く息を吸い込み、森の匂いを胸いっぱいに満たした。
誠司は相変わらず落ち着いていたが、到着するなりすぐにノートパソコンを開いた。
アリサは元気いっぱいにみんなを指示しながら、次々とお菓子や飲み物を取り出し、まるで働き者のミツバチのように動き回っていた。
その時、一台の黒いマイバッハS680がゆっくりとキャンプ場へと入ってきた。
蓮はその車を見つめる。
——予想通り、涼真が車から降りてきた。
実は、蓮が彼を招待していたのだ。
涼真は白い歯を見せて笑うと、サングラスをかけ、助手席のドアを開けた。
そして、そこから降りてきたのは——
真理奈!
蓮は一瞬、思考が停止した。
どうして、こんな予想外の場所で、彼女と再会するのか。
一方で、涼真は相変わらず飄々とした態度で伸びをしている。
真理奈は車のドアにもたれかかり、微笑んだ。
「蓮、久しぶりね」
蓮は、目の前の御曹司と彼女を交互に見つめる。
一体、この二人、どういう繋がりなんだ?
「……まさか、これが『連れてくる』って言ってた友人?」
涼真はまるで無邪気な子供のように笑いながら、挑発的に言った。
「そうだよ。お前、QVを買収しようとしてるだろ? で、真理奈はMETを買収したいんだとさ。どうせどこかで顔を合わせるんだから、先にチームビルディングしておいた方がいいと思って」
雷が落ちたような衝撃だった。
「買収」——あの時の喧嘩で言い合った冗談みたいな話が、どうして現実になってるんだ?
蓮はこめかみをピクッと引きつらせながら、涼真を睨んだ。
「……だったら、不正競争防止法の調査員も呼んで、ここで公聴会でも開けば?」
涼真は指を鳴らして、陽気に笑った。
「いいね、そのセンス、俺は好きだよ!」
——こいつの前で、冗談は禁物だ。
本当にあり得ない方向へ物事を進めてしまうタイプなのだから。
真理奈は軽く会釈すると、その場を離れようとした。
「私は森を散歩してくるわ」
彼女の後ろ姿を見送りながら、蓮はふと、夕陽が髪に反射して金色に輝く様子に目を奪われた。
まるで夢の中の光景みたいだ——
気づけば、蓮は無意識のうちに彼女の後を追っていた。
その様子を見ながら、涼真はビールの栓を抜き、楽しげに一口飲んだ。
森の中。
二人は一定の距離を保ったまま、静かに歩いていた。
真理奈は、蓮が後ろをついてきていることに気づいているはずだったが、振り返ることも、速度を緩めることもなかった。
蓮もまた、彼女との距離を詰めすぎないように歩く。
まるで、沈黙の均衡を壊すことを恐れるかのように——
森の空気は、ほんのり湿った土の匂いがする。
枝葉が風に揺れて、静かな音を立てた。
蓮の脳裏に、あの夢の中で聞いた言葉がよぎる。
——いや、バカバカしい。
彼は首を軽く振り、思考を振り払った。
「お前、いつから涼真とそんなに仲良くなったんだ?」
その問いに、真理奈はようやく立ち止まり、蓮を横目で見ながら淡々と答えた。
「それより、買収の話は気にならないの?」
彼はその目をじっと見つめ、すぐに悟った。
そして、肩をすくめる。
「……なるほどな。じゃあ、お前も涼真の投資を受けたってわけか」
「最初から分かってたでしょう? 私が黙って見ているわけないわ。それに、涼真は常にリスク分散型。METとQV、どちらにも投資するのは当然よ」
蓮は少し苦笑する。
「……俺と涼真が賭けをしてるの、知ってた?」
「知ってるわ」
真理奈は遠くの夕陽を見つめながら、感情のこもらない声で答えた。
「でも、それが私に関係ある?」
蓮は思わず目を見開いた。
——まさか、あの夢の通り?
しかし、次の瞬間、彼は笑い出した。
「お前の本性が分かったよ。草食系に見せかけた、完全な肉食獣だな」
彼はすぐに吹っ切れて、豪快に笑う。
「真理奈、認めろよ! お前、心の奥じゃ、俺のこと欲しくてたまらないんだろ?」
真理奈は一瞬驚いたように見えたが、すぐにくすっと笑った。
「蓮、相変わらず自信過剰ね。面白いわ」
そう言うと、彼女は再び歩き出した。
夕陽に長く伸びた影が、森の静寂に溶け込んでいく。
「おい!」
蓮が後ろから呼び止めると、真理奈は僅かに眉をひそめながら振り返った。
次の瞬間——
蓮は上着を脱ぎ捨てた。
夕陽を受けた肉体が、くっきりとしたラインを描き出す。
真理奈は呆然とした表情で、言葉を失った。
「……何してるの?」
蓮はまるで高校生のように、必死に自分を売り込んでいた。
「なあ、仲直りしようぜ!俺、もう全部さらけ出したんだからさ!」
真理奈は軽く首を振り、彼を一瞥する。
「ふーん……記憶の中よりは、少しは鍛えられたみたいね。」
蓮はすかさず反応し、得意げに眉を上げた。
「ほらな?結局、俺のこと気にしてるんだろ?」
「バカじゃないの?」
彼女は笑いながら毒づいた。
蓮はしつこく彼女の後をついていき、口元には笑みを浮かべたままだ。
「真理奈、俺、お前が今みたいに俺を罵ってくれるのが嬉しいんだ。だって、お前が楽しそうだから。」
真理奈はちらりと彼を見た。
「……もしかして、ちょっとドM?」
蓮は即答で頷く。
「俺が納得してるなら、それでいいだろ?」
真理奈は小さく鼻を鳴らしたが、それ以上は何も言わず、ただ歩き続けた。ただし、今度はほんの少し、彼の歩調に合わせるかのように。
その様子を見た蓮の笑みは、さらに深まる。彼は何も言わず、ただ静かに隣を歩いた。
沈黙の中、蓮がふと口を開く。
「真理奈、このまま歩いてたら、俺たち、きっと泥沼の戦いになるぞ。分かってるだろ?俺の背後にはMETがいる。俺は皆を守らなきゃならない。だから、絶対に負けられない。お前を倒さなきゃいけないんだ。」
真理奈は足を止め、蓮の目を真っ直ぐに見つめた。その瞳は、まるで深い湖のように静かで底が見えない。
「もちろん知ってるわ。」彼女の声は平坦で、むしろ当然のようだった。「だからこそ、私が勝つのよ。」
蓮は彼女の目をじっと見つめ、一瞬黙り込んだ後、クスッと笑った。
「……じゃあ、仲直りは無理か。」
「そもそも、私たちが仲良かったことなんてあった?」
蓮は一瞬、言葉を失った。
「……確かに。」
森を吹き抜ける風が、夜の訪れを告げるように冷たかった。二人の道は、交わることのない平行線のままだった。
午前6時。
キャンプ地は静まり返り、焚き火はとうに消え、かすかに残る熾火が時折赤く揺れる。
テントの中では、ほとんどの者がまだ眠りの中にいた。
だが、誠司だけはキャンプ用のテーブルに座り、顔をスクリーンの光に照らされながら、じっと画面を見つめていた。
だが――
「……妙だな。」
彼は小さく呟くと、視線を戻し、保温ボトルを手に取った。ぬるくなったコーヒーを一口飲み、ぼそりと呟く。
「……どうやら、まだ仕掛けてこないらしいな。」
「いいや、敵の下限を舐めちゃいけない。」
いつの間にか、清奈が彼の背後に立っていた。彼女は湯気の立つ紅茶を手に、複雑な表情を浮かべている。それは、面白がっているようでもあり、呆れているようでもあった。
彼女はスマホの画面を誠司に向けた。
そこに映っていたのは、一枚の写真だった。
夕暮れの光が差し込む森の中、上半身裸の若い男が、低い茂みを挟んで、一人の若い女性と向かい合っている。
その構図だけ見れば、どこか芸術的ですらあった。
だが――誠司はすぐに気付く。
そこに写っているのが、知っている二人であることに。
蓮と真理奈。
誠司は無言のまま、清奈を見つめる。
「そんな目で見ないでよ。私に盗撮趣味はないわ。」清奈はため息をつく。「今朝から、この写真が匿名掲示板で拡散されてるの。すでに、主役の男が蓮だってバレてるわ。」
誠司は写真をじっと見つめ、わずかに眉をひそめた。
「……つまり、これが敵の仕掛けか。」
清奈は肩をすくめる。
「正直、子供のいたずらレベルよね。あまりにも幼稚……でも、相当に意地が悪いわ。」
彼女はスマホを誠司に差し出し、コメント欄を指差した。
「ほら、これ見て。」
誠司が画面を確認する前に、テントの外から騒がしい声が響いた。
アリサの甲高い声が、遠くまで響く。
「ちょっと!みんなこれ見てよ!これ、これって絶対に蓮でしょ!」
続いて、順平の騒がしい声。
「なになに?どれどれ?またアイツ、ニュースになったのか?」
そして次の瞬間――
「"テック界のプリンス・蓮、森の中でワイルドな告白!?"」
順平が興奮気味に読み上げる。
アリサは爆笑しながら続けた。
「"MET御曹司、黄昏の森で大胆アプローチ!運命のヒロインは誰!?"」
さらに順平がツボにハマったように声を張り上げる。
「"AIも予測不能!メディカルテックの未来は筋トレだった!?"」
アリサは別のコメントを見つけ、ケラケラ笑いながら追加する。
「"密林の恋!蓮と謎の女性、運命の駆け引き!?"」
誠司は静かにため息をついた。
――敵の手は、予想以上にくだらなかった。
テントの外から爆笑が響き渡る。どうやら、みんなすっかり寝起きの不機嫌も吹き飛んだようだ。
誠司は静かに清奈を見つめ、淡々とした口調で言った。
「つまり、敵の手段は蓮を社会的に終わらせることか?」
清奈は肩をすくめる。
「今の時代、相手を潰すのにサーバーを攻撃する必要はないのよ。イメージを破壊するのも、立派な戦術のひとつ。」
誠司は写真を見つめながら、ゆっくりと頷いた。
「……蓮本人の反応が気になるところだな。」
清奈は時計をちらりと確認し、口元に笑みを浮かべる。
「賭ける?きっと彼の第一声は――」
言い終わるよりも早く、テントの中から蓮の震えた声が響いた。
「何だよ、これ!ふざけんな!」
圭介が、ようやく少しは良心が痛んだのか、小さく咳払いをした。
「もうこれ以上、閲覧数を増やすのはやめようぜ。どうせ放っておいても拡散されるんだから。」
アリサは申し訳なさそうに眉を寄せた。
「ごめん……私、思わず辛辣なコメントに“いいね”しちゃった……。」
一方、順平はまだスマホを握りしめ、ツボに入ったように肩を震わせている。
「ちょっと待て、これ見ろよ。『ついにテクノロジー業界から、胸筋で交渉する男が現れた』……くっ、ダメだ、笑いが止まらねぇ!」




