君が見ているもの、聞いているもの、考えていること……すべて計画の一部だよ
蓮は突然、息を切らして飛び起きた。
気がつくと、自宅のソファに横たわっていた。暖炉の火はまだ暖かく燃えている。だが、ここは冷たい中世の古城ではなく、雪山の麓に建つ彼の北欧の別荘だった。
——夢の中の夢か。
安堵の息を吐き出し、先ほどの出来事が現実でなかったことに胸を撫で下ろす。
その時、真理奈が子どもを連れて部屋に入ってきた。
「ねえ、蓮。今日、湖のそばの森で何のキノコを見つけたと思う?」
彼女の穏やかな瞳が、幼い子どもへと向けられている。まるで無垢な天使のようなその子は、ぱっちりとした目で彼を見つめながら、小さな手に『キノコ図鑑』を握りしめていた。
「え……何のキノコ?」
蓮が問いかけると、真理奈は椅子を引いて座り、テーブルに籠を置いた。中には様々なキノコが詰まっている。鮮やかな赤、斑点模様、そして微かに発光しているものまで——。
子どもが興奮した声で言った。
「ねえ!僕たち、生物発光する新種のキノコを見つけたんだよ!夜になると小さなライトみたいに光るんだ!」
蓮は自分が着ている温かなセーターとルームパンツを見下ろし、ふと考え込む。
その様子を見て、真理奈が心配そうに声をかけた。
「蓮……『面壁者』の計画が、あなたを追い詰めているんじゃない?」
「……」
「今週、一度も外に出ていないわ」
蓮は眉間を揉みながら、暖かな家の中を見渡した。
窓の外には銀世界が広がり、暖炉の炎がパチパチと音を立てる。すぐ隣には、愛する妻と子どもがいる。
——こんな平穏な日々が、「面壁者」たる自分に許されるはずがない。
だが、彼は分かっていた。
この平和は、ただの幻に過ぎない。
蓮は真理奈の手をそっと握りしめた。
「……大丈夫。ただ、時々変な夢を見るんだ。氷の怪物や、炎を吐くドラゴン、それに——涼真っていう貴族の王子も」
真理奈はクスッと笑った。
「まるで物語ね」
「ちょっと陳腐だけどな」
彼は肩をすくめ、テーブルの籠を指差した。
「それより……このキノコ、本当に食べられるのか?」
「もう調べたよ!大丈夫!」
子どもが胸を張って自信満々に答える。
蓮はその頭を優しく撫でた。
「なら、今夜はキノコのスープにしよう」
キノコのスープの香りが、部屋に満ちていく。
真理奈は木のスプーンでスープをかき混ぜた。
白濁したスープの表面に、柔らかく煮えたキノコが浮かんでいる。まるで小さな雲のように、ゆっくりと揺れていた。
子どもが一口飲み、満面の笑みを浮かべる。
「美味しい!冬の味がする!」
蓮はスプーンを置き、真理奈と子どもの笑顔をじっと見つめた。
その瞬間だけは——
宇宙戦争も、三体人も、面壁計画も、すべて忘れられた。
この小さな家の中で、湯気を立てるキノコスープの香りこそが、何よりも尊い「平和」だった。
だが、不吉な予感が、蓮の脳裏をよぎる。
——この後、何が起こるのか、知っている。
彼を計画に集中させるため、最愛の妻と子は奪われる。
この温かな団欒も——全て、「計画」の一部に過ぎない。
スプーンを持つ手が、わずかに震えた。
キノコスープが、突然味気なく感じられる。
「蓮?どうしたの?」
真理奈が心配そうに尋ねる。
蓮は苦い笑みを浮かべ、静かに口を開いた。
「……真理奈、ひとつ、聞いてもいいか?」
「なあに?」
彼女はスプーンを置き、首を傾げた。
「俺たち……どうやって出会った?」
真理奈は一瞬、驚いたような顔をした。
そして、微笑む。
「覚えてるわよ。ここで初めて会ったのよね……あなたが言ったの。『僕たちが幸せに暮らすこと、それも計画の一部だ』って」
彼女の声は自然で、穏やかで——違和感のない、完璧な「記憶」だった。
だが蓮の心は、凍りつくように冷たくなっていく。
彼は無意識のうちに拳を握りしめた。
——完璧すぎる。
完璧すぎて、逆に「不自然」だった。
喉の奥に、言いようのない違和感が絡みつく。
「蓮?本当に、大丈夫?」
真理奈がそっと彼の手を握る。その掌の温もりは、まるで本物のようだった。
だが——
蓮は、目で彼女に問いかけた。
——お前も、計画の一部なのか?
真理奈は、目で優しく答えた。
——あなたへの愛は、本物よ。
蓮の指先がわずかに震えた。
もう、確かめる必要はなかった。
彼は静かにスプーンを持ち上げ、再びキノコスープを口に運んだ。
「……美味しいな」
真理奈は、微笑んだ。
「たくさん食べてね」
蓮は、ただ小さく頷いた。
——彼の時間は、もう長くはない。
夜。
子どもはすでに眠りにつき、暖炉の火が静かに揺れている。
蓮と真理奈は、ソファで寄り添っていた。
彼は、静かに目を閉じる。
「……真理奈、約束してくれ」
「なに?」
「俺のそばを、絶対に離れないって」
真理奈は、そっと彼の手を握った。
「……どうしたの、急に?」
彼女の声は優しく、どこか切なげだった。
「もちろんよ。私たちは、ずっと一緒よ」
その瞬間——
真理奈の顔が、倉田の醜い笑顔へと変わった。
「はは、気づいた?」
蓮の血の気が引く。
「……お前は……智子か!」
倉田は、ゆっくりと腕を組み、ニヤリと笑った——。
倉田は、どこか挑発的な笑みを浮かべながら、ゆっくりと腕を伸ばし、ソファにだらりと身体を預けた。
「おやおや、バレちゃったか」
蓮の表情が一瞬で険しくなり、拳を強く握りしめる。喉仏がわずかに動いた。
「……一体、何が目的だ?」
倉田は肩をすくめ、飄々とした態度で笑う。
「そんなに構えなくてもいいでしょう、蓮先生。ただちょっと気になっただけですよ。『面壁者』として、あなたが何を企んでいるのか」
蓮は深く息を吸い込み、その眼差しは極寒の吹雪のように冷たくなる。
「……お前たちは、俺をそんなに恐れているのか?」
倉田の笑みが一瞬だけ揺らぐ。しかし、すぐにまたいつもの無頓着な表情に戻った。
「恐れる? いやいや、俺たちにとって『恐怖』なんて感情は無意味ですよ。ただ……興味があるだけです」
蓮の心が、ゆっくりと沈んでいく。
そうか。
ようやく、すべてを理解した。
彼の夢も、家も、愛する妻と子どもも――
そのすべてが、最初から存在していなかったのだ。
温かな日々は、すべて智子によって作られた幻想にすぎない。
監視するために。
操るために。
偽りの幸福の中に閉じ込め、面壁計画への思考を停止させるために。
蓮は目を閉じる。
そして、ゆっくりと目を開けた時には、もう迷いはなかった。
ただ、静かな覚悟だけがそこにあった。
「……お前たちの傲慢さのせいで、俺の計画を理解することは永遠にできない」
智子は小さく笑った。
「そうか?」
その顔がぐにゃりと歪み、一瞬で涼真へと変わる。
爽やかな笑みを浮かべ、白い歯を見せながら言った。
「これも計画の一部さ」
そして、まるで川劇の変面のように、次の瞬間には清奈の顔になっていた。
「これも、ね」
数秒のうちに、智子の顔は次々と変わっていく。
そして最後に――
蓮自身の顔へと変わった。
蓮はその、自分と瓜二つの顔を睨みつける。
胸の奥に強い憎悪が湧き上がるのを感じた。
智子は微笑みながら、彼とまったく同じ声で言った。
「君が見ているもの、聞いているもの、考えていること……すべて計画の一部だよ」
蓮は歯を食いしばり、目の前の「自分」を睨みつける。
自分の顔が、あんなふうに歪んだ笑みを浮かべる光景は、耐え難いほど不快だった。
「……違う、違う、こんなの現実じゃない! これは……夢だ。そうだ、夢なんだ。俺はまだ夢の中にいる!」
その瞬間、蓮は意識を取り戻した。
目を開くと、見慣れた寝室の景色が広がっていた。
まだ頭がぼんやりとする。
これは……本当に現実なのか?
深く息を吸い込み、ゆっくりと身体を起こす。
肌に触れる布団の感触、窓から差し込む淡い光――すべてが現実味を帯びていた。
部屋はいつもと変わらない。
木の家具から漂う温かな香り。朝の風に揺れるカーテン。
蓮は強く腕をつねった。
鋭い痛みが走る。
……現実だ。
安心しながら視線を巡らせると、枕元の電子時計に目が止まった。
時刻は朝7時14分。
スマホには、未読の着信がいくつも残っていた。
メッセージを開く。
――『すぐに会社に来てくれ。サーバーが攻撃を受けた』
蓮の背筋に、冷たい電流が走る。
……ああ、これが現実だ。




