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歪んだ父親コンプレックス

少し前から、清奈が転職するという噂が倉田の耳にも届いていた。


エアコンの冷気が漂うオフィスの中、倉田は広々とした本革のソファに沈み込んでいた。もはや怒る気力も湧かない。蓮とやり合うようになってからというもの、ずっと味方についていたはずの強運に見放された気がする。よくよく思い返せば、蓮はまるで自分を打ち負かすために生まれてきたかのような男だった。どんな手を打っても、蓮にはことごとく潰されてしまう。


倉田の視線がデスクの上に置かれた写真立てに落ちた。写っているのは、丸々とした頭のマッコウクジラの写真。


彼は指先で写真立ての縁をゆっくりと撫でる。思い出す。この写真の出どころは、前の妻がモーリシャス旅行の際に買ってきたポストカードだ。彼女は、マッコウクジラは「カタカタカタ」とタイプライターのような音を出すんだと言っていた。


あの頃、倉田はちょうど大きな案件を獲得したばかりで、飛ぶ鳥を落とす勢いだった。無敵になったような気分で、「そのうちアフリカに別荘でも買って、のんびり過ごすか」なんて豪語していたっけ……。


視線を戻し、窓の外の冷え冷えとした夜景を眺めながら、倉田はスマホを手に取った。


「今、少し時間あるか?」


やけに穏やかな声で、真理奈まりなに電話をかける。


ほどなくして、真理奈が彼の前の椅子に座った。


いつものように、倉田は尋ねる。


「最近どうだ?」


真理奈は当然、SSIキャピタルがMETを狙っている件を知っていたが、自分からそれを持ち出すつもりはなかった。


彼女は落ち着いた目で答える。


「METは予定通り進んでいます。それから……清奈がMETに入りました。倉田さんも、もうご存じですよね?」


倉田は軽く頷くだけだった。さほど興味がない様子だ。だが、本来ならこれは彼にとって大きな痛手のはず。


なのに、まるでどうでもいいことのように、さらりと言った。


「数日後のMETとの利益配分の会議、俺は出ない。お前がQVを代表してくれ。」


真理奈は一瞬、意外そうに目を見開いた。じっと倉田を見つめる。


「どうしてですか? 蓮は着々と私たちのリソースを奪い続けています。その上、清奈まで引き抜かれたんですよ? なのに、直接問い詰めるつもりもないんですか?」


彼女は探るような口調で続けた。


「それとも……もう別の策を?」


倉田は満足げに微笑んだ。さすがは自分が育てた人材だ。自分の考えをここまで見抜けるとは。


「俺は引退する。」


真理奈はすぐには反応できなかった。目を細め、倉田の顔をじっと見つめる。冗談を言っているのかどうか確かめるように。だが、倉田の表情は淡々としていて、むしろ肩の力が抜けたような軽さがある。本当にすべてを手放すつもりのように見えた。


彼女は小さく息をつき、苦笑する。


「……また、ずいぶんといいタイミングで。」


そう言いながら、鋭い眼差しを向ける。


「私を呼んだのは、ただその報告をするためですか? それとも、また何か私を試そうと?」


倉田は声を立てて笑った。まるで本当に引退する人間のように、肩の力が抜けている。


「ただのタイミングの問題だ。ちょうどQVの株を買い戻す動きがあったからな。俺の持ち分はすべて売った。もう十分稼いだし、そろそろ休んでもいい頃だろう。」


彼は真理奈の問いには答えず、あくまで淡々と言葉を続ける。


「俺が退いた後、このポストは空席になる。だから、お前を推薦した。」


「……推薦?」


真理奈はその言葉を復唱した。


「そんな簡単に、取締役会が納得したんですか?」


「お前の実力を考えれば、誰も異論はないさ。それに……清奈がもう頼れない以上、取締役たちも、確実に会社を支えてくれる人間が必要だった。」


真理奈は少しの間、思考を巡らせた後、倉田の目を真っすぐに見つめ、慎重に尋ねる。


「つまり、完全に身を引くんですか? それとも……私を通して、裏で操るつもりですか?」


倉田は、はっきりとした口調で言った。


「明日から、QVのことは一切関与しない。」


真理奈は倉田の顔を見つめ、数秒間黙り込んだ。彼の表情から、わずかな迷いも探そうとした。


しかし、倉田の表情は穏やかで、以前のような鋭さはまるでない。本当に、すべてを手放したかのような顔をしている。


彼女はゆっくりと眉をひそめ、静かに言葉を紡ぐ。


「……本当に、未練はないんですか?」


倉田は肩をすくめ、驚くほど軽い調子で答えた。


「未練? もう十分稼いだ。会社のことなんか、俺がいなくても回る。それに、人間、引き際を誤るとロクなことにならない。」


真理奈は沈黙した。


これまで、倉田が自分に責任を押し付けるつもりかと疑っていた。むしろ、自分から先手を打たなければならないとも思っていた。


だが、彼は自ら席を譲ると言う。これが策略ではないと言い切れるだろうか。


倉田は静かに彼女を見つめていた。まるで、長い時間をかけて磨き上げた芸術品を眺めるように。


そして、満足げに口を開いた。


「引退は本当だ。お前を推薦したのも本当だ。取締役会も、ほぼ承認するはずだ。」


彼は一拍置いて、言葉を続ける。


「……あとは、お前の意志次第だ。」



倉田は笑った。その表情は、まるで本当に後輩を気遣う親族のようだった。

「真理奈、俺はお前の叔父だ。お前を陥れるような真似はしないさ」

真理奈はじっと倉田を見つめる。

「叔父……? そんな呼び方、今まで一度も許したことなかったですよね」

倉田は軽く手を振って、肩をすくめた。

「仕事は仕事、家族は家族。今はもう関係ないんだから、そう呼んでもいいだろ?」


だが、真理奈はその言葉に動じなかった。

「……でも、もうすぐMETとの利益分配の交渉があるんです。QVにはまだ価格交渉の対策すらない。正直、負け戦ですよ」


倉田はゆっくりと、しかし確信に満ちた口調で言った。

「この世の中、勝ち負けだけが全てじゃない。流れに逆らわず、適切なタイミングで手を引くことも大事だ。俺が今まで勝ち続けてこれたのは、特別に頭が良かったからじゃない。引き際を知っていたからだよ」

彼は少し間を置き、そして飄々と笑った。

「俺もたまにはワガママを言わせてもらうさ。あとは好きにしろ」


そして、真理奈がQVの新しい執行役員に就任するというニュースは、すぐにMETにも伝わった。


三人組 は早速、噂話に花を咲かせる。

「倉田が……まさか、本当に逃げたの?」アリサが目を丸くする。

「老獪な狐ってのは、最後まで狡猾だな」と順平が呆れ顔で言った。


圭介は静かに首を振る。

「違うな、あれは『逃げ』じゃなくて『身の処し方』だ」

「え、それって何が違うの?」アリサが眉をひそめる。


圭介は眼鏡を押し上げながら答えた。

「『逃げる』ってのは、追い詰められて仕方なくすることだ。でも『身を処す』のは、あくまで自分の意志で状況をコントロールすること。倉田は絶対に追い詰められない男だよ。負ける前に身を引いたことで、彼の名声は傷つかずに済んだ」


順平が舌打ちをする。

「チッ、こんな時だけカッコつけやがって」


アリサは未だに納得がいかない様子だった。

「でも、本当にあの人が納得してると思う? せっかく自分で育て上げた会社なのに……」


圭介は肩をすくめる。

「さあな。ただ、もうQVのことは倉田の手を離れた。それよりも——問題は、真理奈が新トップになったことだ」


順平が頭をかきながら呟く。

「そういや、前に真理奈が蓮を占った時のカードって何だったっけ?」


アリサはPCの履歴を確認しながら答える。

「『恋人』の正位置——協力、選択、強い結びつき」


順平は急に興奮したように手をこすり合わせる。

「おいおい、これってまだワンチャンあるってことか?」


圭介が静かに頷いた。

「このタイミングで真理奈が上に立った以上、彼女は蓮と関わらざるを得ない」

アリサも同意する。

「METとQVの利益分配会議が間近に迫ってる。倉田が退いた今、真理奈が交渉の中心人物になるわけだ」


順平がワクワクしながら尋ねる。

「で、どうすると思う? 真理奈は蓮に対して……」


アリサは慎重に言葉を選んだ。

「彼女はきっと、ビジネスライクに対応する……でも」


圭介が冷静に補足した。

「蓮が、それを許すとは思えないな」


三人は顔を見合わせ、それぞれの想像に沈み込んだ。


その様子を少し離れた場所で見ていた清奈は、ふと立ち上がると蓮のオフィスへと向かった。


順平がその背中を見て、ニヤリと笑う。

「おっと、あの人は焦ってるみたいだな」


清奈は彼の言葉に軽く振り返り、冷たい視線を投げかけると、そのままオフィスのドアを開けた。


オフィスの中では、蓮が机に肘をつき、額を押さえていた。何かを深く考えているようだったが、清奈が入ってきた気配に気づくと、ゆっくり顔を上げた。


そして——


清奈は、彼の目元に涙の跡があるのを見つけてしまった。


彼女は思わず足を止める。

蓮がこんな表情をするなんて、今まで一度も見たことがなかった。

何が原因なのか、見当もつかない。


だが、蓮は何も言わずに手を軽く振った。

「出て行け」


清奈は戸惑いながらも、言われるままに踵を返す。


そして、ドアを閉める直前——


「……俺は、倉田が憎い」


蓮のかすれた声が、彼女の耳に届いた。


清奈の足が一瞬止まる。


怒りだけじゃない。

そこには、苦しみ、諦め、そして……絶望に近いものすら感じられた。


彼女の脳裏には、ここ数ヶ月の蓮の姿が浮かぶ。

慎重に機を伺い、時に冷酷に駆け引きをし、すべてを掌握してきた男——

それが、今はこんなにも傷ついている。


一体、倉田と何があったのか?


清奈はゆっくりと息を吐き、黙ってドアを閉めた。


遠くから、その様子を見ていた順平がニヤリと笑う。

「おいおい、Aidan劇場、今日はどうやら観客に冷たいみたいだぜ?」


清奈はそんな彼の軽口を無視し、そのまま彼の前へと歩み寄った。


順平が急に警戒し始めた。

「お、おいおい! 近づくなよ!」


清奈は彼のビビりっぷりに呆れ、軽くため息をついてから尋ねた。

「ねえ、あんたたち、蓮が泣いてるとこ見たことある?」


順平が大げさに声を上げる。

「はぁ!? お前、蓮を泣かせたのか!? すげぇな! あの男を手のひらで転がせるとは!」


アリサと圭介も驚愕の表情で清奈を見つめた。


清奈はさらに呆れて、もう一度ため息をついた。

「はぁ……残念ながら違うわよ。私が入った時には、すでに涙ポロポロだったの。それに、一言だけ呟いてたわ……」


三人は一斉に身を乗り出し、清奈が告げた四文字を聞いた瞬間、全員の口が「おぉ……」の形になった。


アリサは納得がいかない様子で首を傾げる。

「でも、倉田がいなくなったなら、むしろ喜ぶべきじゃない? これでMETの邪魔者が消えたんだから」


圭介はゆっくりと首を振った。

「だからこそ、だよ……」


順平が肩をすくめ、茶化すように言う。

「そうそう、最愛の倉田パパがトンズラしちまったから、蓮のメンタルが崩壊したんだよ」


清奈は三人のノリにまだ慣れず、彼らのぶっ飛んだ解釈に思わず聞き返した。

「最愛?」


圭介は懐かしむように目を細めた。

「蓮にとって、倉田はずっと……特別な存在だった」


順平が説明を引き継ぐ。

「要するにさ、あいつ、ずっと倉田を倒すことだけを考えて生きてきたんだよ。武侠モノとかでよくあるだろ? 生涯をかけて倒したい宿敵がいたのに、そいつが勝負を放棄して消えたせいで、燃え尽きるやつ」


アリサは驚きつつも、その理屈に納得し始めた。

「……つまり、蓮は長年のライバルを失って、喪失感でいっぱいってこと?」


清奈はまだ半信半疑だった。

「でも、蓮と倉田って、師弟関係があったわけじゃないし、むしろ敵同士だったんじゃないの?」


圭介は淡々と爆弾発言を投下した。

「まあ、例えるなら……歪んだ父親コンプレックスみたいなものだな」


一同が一瞬にして凍りついた。


順平が顔をしかめる。

「うわぁ……気持ち悪いこと言うなよ」


圭介は冷静に続ける。

「蓮はずっと倉田を超えたかった。まるで子供が父親を乗り越えたいと願うみたいにな。でも、倉田は最後の最後で戦うことすら拒否したんだ」


アリサは頭を抱えた。

「そう言われてみると……確かに、蓮って誰に対しても冷静で礼儀正しいのに、倉田にだけはやたらと感情的だったよね……」


順平が思い出したように指を鳴らした。

「ほら、思い出せよ! そもそも、倉田が真理奈を引き抜いたせいで、あの二人(蓮と真理奈)は別れたんだぜ? その後、真理奈はQVに行って、蓮とは完全に敵同士になった。それを仕組んだのは誰だ? そう、倉田! これこそ究極の復讐だろ!」


アリサの視線が、かつて真理奈が座っていたデスクへと向かう。そこはもう空席のままだ。

彼女は今、QVの高層オフィスで、かつて倉田が見下ろしていた景色を眺めているのだろう。もう、ここには戻らない。


清奈は満足げに微笑んだ。まさに、極上のゴシップを目撃した気分だった。

「ふふ……父親が息子のお気に入りを奪うなんて、一生のトラウマものね」


アリサは蓮の境遇に同情する。

「じゃあ、蓮にとっては、一度も倉田に勝てなかったってこと?」


順平が肩をすくめる。

「そういうことだな。老獪なキツネは、逃げるが勝ちってやつだ」


しかし、この話を聞いて、清奈だけは妙に楽しそうだった。

彼女はこれまで、蓮の野心が足りないのではと心配していた。METの未来を託すには、まだ弱いと思っていた。

でも、今の彼の執着と狂気を知って、逆に確信した。


「倉田がいなくなっても、蓮の執念は消えない。新しいターゲットを探すだけよ」


彼女は小さく笑いながら、その場を後にした。

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