涼真、あなたの魅力は疑わないけど……この人だけは絶対に落とせないと思うわよ?
テストエリアは、ただの普通のオープンスペースだった。
窓の外は曇天。室内の照明は暗めで、モニターの光だけが人々の顔をぼんやりと照らしている。
真理奈は視線を巡らせた。ここにいるほとんどの人を知っている――エンジニア、データアナリスト、ユーザーエクスペリエンス研究者……。かつて、モデル構築の段階で何度もこの場所を訪れ、エンジニアたちに技術的な質問を投げかけたこともあった。だが、テストが始まってからは足が遠のいていた。
蓮は彼女を一台のPCの前に連れて行き、画面を指し示した。
「このデータに映っているのは、実際に俺たちのシステムを使っているユーザーだ。ただの数字じゃない。彼らの選択、操作の一つ一つが、最終的な最適化の方向性を決めるんだ」
さらに彼は続けた。
「しかも、俺たちはテスト段階になってから問題を発見するわけじゃない。各モジュールの開発者がまず自分で試し、次にチームで検証し、QAチームを通して、最終的にユーザーテストに進む。この流れを徹底している」
真理奈は、画面に向かって作業を進めるチームを見つめた。彼らは無言で、細かい数値を何度も調整している。表情は真剣そのもので、妥協の色は見えない。
隣のモニターでは、テストデータのリアルタイムフィードバックが流れていた。データは時系列順に整理され、すべての変更履歴が明示されている。不自然な修正の痕跡は、どこにもなかった。
蓮は真理奈の隣に立ち、淡々とした口調で言う。
「俺たちは、偽のデータで自分を騙したりしない。もちろん、パートナーを騙すこともない」
そう言って、彼はさらに別のモニターを示した。
「これはユーザーフィードバック。すべてのテスト担当者がリアルタイムで確認できる仕組みになってる」
真理奈は、画面を流れていくフィードバックを見つめた。満足度の評価だけでなく、具体的な改善点や厳しい指摘も並んでいる。それぞれのコメントには、投稿者のIDと、彼らがどのテストに参加したのかが明記されていた。
「つまり、あなたが言いたいのは、テストの過程は完全にオープンで、データはすべて正確だと?」
「そうだ。これが俺たちMETのコアバリューのひとつ――透明性だ」
「……でも、バグが一度も出なかったなんてことはないでしょう?」
「当然、あるさ」蓮はあっさりと認める。「でも、重要なのは発見したらすぐ修正することだ。俺たちは問題を見つけたら、1時間以内に対応する。それが徹底されているから、今見えているデータは、すでに修正後のものだ」
「……つまり、あなたは遠回しに言いたいのね」真理奈は少し苛立ったように口を開く。「私たちの外注先が、怠惰な集団だと」
蓮は少し考え込み、慎重に言葉を選んだ。
「……態度の問題は、大きい」
しかし、真理奈は納得しなかった。
「態度の違いだけで、ここまで差が出るとは思えないけど?」
「それは俺の結論じゃない。ただ……細部が結果を左右するのは事実だ」
そう言って、蓮は真理奈をじっと見つめる。
「お前の外注先は、ユーザーフィードバックをどう処理してる?」
真理奈は言葉を詰まらせた。思い浮かぶのは、外注会社の一般的な流れ――フィードバックは運営チームが精査し、プロダクトチームが取捨選択する。そして、テスターは決められた手順に沿って動くだけで、ユーザーと直接やりとりすることはほぼない。
一方、METのテストのやり方は――
どんな些細なバグでも、開発者自身がコードを見直し、根本的な解決を図っている。
ユーザーからの改善提案があれば、表面的に処理するのではなく、本気で分析し、実際に試している。
まるで、新人社員がひたむきに仕事に取り組んでいるかのようだった。
真理奈は、これまで多くの現場を見てきた。手を抜く者、納期を優先して品質を犠牲にするプロジェクト、そして何より、自分自身も「結果がすべて、過程は重要じゃない」と教えられてきたことを思い出す。
だが、ここには、そんな妥協がなかった。
一瞬、彼女の中に迷いが生まれる。
しかし、それでもすぐには納得しない。
「……でも、これだけじゃ、私を説得するには足りないわね」
蓮は軽く頷き、そばにいた同僚と何か短く言葉を交わした。
そして、真理奈の方を向く。
「――行くぞ」
「どこへ?」
「ユーザーの視点に立てば、もっと直感的にわかることもある」
そう言って、蓮はドアへ向かった。
彼らはとあるカフェに入った。しばらくすると、テストに参加しているユーザーの一人が、約束通りやってきた。
彼は顔色が少し青白かったが、精神的には安定しており、礼儀正しい話し方をする、知性を感じさせる人物だった。
「二十歳のときにこの病気を発症して、常に数値をモニタリングしながら、薬でコントロールしなければならなくなりました。正直、日常生活にはかなりの支障があります……そんなときに病院の前でこのプロジェクトの広告を見かけたんです。最初は、まさに自分の求めていた技術だと思いました。ずっとこういうものを探していたので。テストのプロセスはとても興味深かったですね。従来の測定機器と比べて、痛みも少なく、使い勝手もいい。それに、アプリのフィードバックがとても的確で、役立つアドバイスをもらえました。おかげで気持ちまで前向きになれた気がします」
真理奈は真剣に耳を傾け、いくつか技術的な質問を投げかけた。
すると、ユーザーはさらに饒舌になった。彼は真理奈を開発チームの一員だと勘違いしたのか、次々と感謝の言葉を口にする。
「この製品が一日でも早く世に出ることを願っています。こんなにテストユーザーのことを真剣に考えてくれるなんて、本当に感動しました。素晴らしいチームですね!」
真理奈は一瞬驚いたが、流れに任せて微笑んだ。
「そう言っていただけると、嬉しいです」
ユーザーが去ったあと、真理奈は考え込んだ。
蓮はそんな彼女を静かに見つめ、微笑むだけだった。
「これまでの過程、すべて君にオープンにしてきた。METと外注会社の違い、少しは感じ取れたんじゃないか?」
真理奈は沈黙した。
彼女はずっと、このテスト結果がMETによる巧妙な仕掛けではないかと疑っていた。だが、今目の前で起きていることは、その認識を覆しつつあった。
ふと、頭の中にあのタロットカード「月」の絵柄がよぎる。
霧、幻影、欺瞞——。
彼女はゆっくりと顔を上げ、複雑な表情で蓮を見つめた。
「本当に、何の策略も含まれていないって保証できる?」
「策略はあるさ」蓮はあっさりと答えた。「でも、少なくとも製品開発の過程にはない」
彼の言葉に微かな違和感を覚えた真理奈は、鋭く問い返す。
「じゃあ、どこにあるの?……それに、あなた、私たちが外注を探していたことを知っていたみたいだけど、驚いた様子がまったくなかったわよね」
「最初から知っていたよ」蓮は平然と答えた。その口調には、すべてを見通しているような自信が滲んでいた。「倉田はそれを秘密兵器のつもりでいたみたいだけど、正直、僕には大した脅威には思えなかった」
——最初から知っていた?
真理奈は思わず眉をひそめた。蓮の戦略眼は、もはや倉田に匹敵するのか?
蓮は続ける。
「仮にフェアな競争だったとしても、僕は勝つ自信がある。でも、倉田が小細工を使って君をMETに送り込んできたんだから……僕だって、ちょっとした贈り物を返すくらいのことはするさ」
彼はちらりと時計を見る。
「ちょうどいい、君に紹介したい人がいる。そろそろ来るはずだ」
すると、背の高い、細身の男性がこちらへ歩いてきた。
眼鏡をかけていないのに、なぜか眼鏡が似合いそうな雰囲気を持っている。
その姿に、真理奈は少し驚いた。
「湊……?」
その瞬間、すべてがつながった。
湊が、蓮が外注会社に送り込んでいた"内通者"だったのだ。
——なるほど、そういうことね。
全てが腑に落ちた真理奈は、皮肉めいた笑みを浮かべる。
「そう考えると、私もあなたも、大差ないわね」
そして、蓮を見つめる。その目には、すでに諦めにも似た納得が滲んでいた。
「結局、あなたも倉田と変わらないってことね」
蓮は静かに真理奈を見つめ返した。
「僕は倉田のようなやり方はしない。彼は人を操ることで相手を弱らせようとする。でも、僕は人を知ることで、自分を強くするんだ」
湊が口を開く。その声は淡々としていた。
「僕は自分の意思でこっちに来たよ。ちなみに、名前は誠司」
「自分の意思で?」真理奈は小さく笑った。「選択肢のない駒は、自分が自由だと錯覚するものよ」
蓮は穏やかに言う。その声には、どこか優しさが滲んでいた。
「誠司が僕の側についたのは、彼がここでこそ、自分の能力を最大限に活かせると分かっているからだよ」
誠司は小さく頷く。
「そもそも、僕は元々METにいたんだ」
——なるほどね。
真理奈は言葉を失った。
「そうなると……倉田の負けは確定ね。数日後の利益分配会議では、彼もあなたたちに譲歩するしかないでしょう。彼の誤算は、あなたを甘く見たことね」
しかし、蓮は首を横に振る。
「彼が負けたのは、彼自身の傲慢さだよ。人の心を操るゲームにのめり込みすぎて、自分を見失ったんだ」
真理奈は静かに立ち上がった。
——すべてを知ったはずなのに、なぜか気持ちは軽くならない。
この先、どうすればいい?
倉田が怒り狂うのは目に見えている。それでも、自分が向き合わなければならないことに変わりはない。
タクシーのドアが閉まると同時に、真理奈の姿は夜の街に消えた。
それを見送りながら、誠司がぽつりと呟く。
「彼女もMETに引き込めばよかったんじゃないか?」
蓮はしばらく黙っていたが、やがて少し寂しげな声で言った。
「もし彼女が望むなら、僕は何だって用意するよ。でも……彼女には彼女の信念があり、彼女の道がある」
一拍置いて、彼の瞳に複雑な感情が浮かぶ。
「彼女は、僕の思い通りにはならないさ」
誠司は軽く頷いた。
「彼女は確かに芯が強い。でも今の状況では、選択肢は限られているだろう?」
蓮は静かに首を振った。
「多くはないが、彼女には実力も知恵もある。最終的に道を切り開くのは、彼女自身だ。」
「お前、彼女に特別な感情を持ってるみたいだな。」
「彼女を通して、今まで気づかなかった可能性を見せてもらった。彼女が何かをしてくれるからではなく、彼女の存在そのものが俺に新しい視点を与えてくれるんだ。彼女には、人を前向きにさせる力がある。ただの元恋人や元同僚という枠を超えて、尊敬し、守りたいと思わせる存在だ。」
誠司は話題を変えた。
「……俺、退職願を出したよ。明日にはMETに戻るつもりだ。」
蓮は感謝の笑みを浮かべた。
「もちろん。まさにお前が必要な時だからな!」
誠司は少し躊躇した後、口を開いた。
「アリサは……」
蓮は微笑んだ。
「まだ知らない。でも、お前のデスクを彼女の隣にするつもりはないからな。そういうのは、自分でなんとかしろ。」
誠司は静かに笑った。
「挑戦、受けて立つよ。」
翌日、倉田のオフィス。
真理奈の報告を聞き終えた倉田は、表情を曇らせながらも、予想されたような感情的な怒りは見せなかった。おそらく、自分の敗北を理解していたのだろう。
そして彼は、長年のビジネス経験者らしく、最後の一線だけは守った——潔さ。
「引き続きMETに常駐し、次の利益分配会議の準備も進めておいてくれ。」
彼はそれだけを言い残し、真理奈に背を向けた。
METのオフィスは、普段通りの静かな忙しさに包まれていた。
——ただし、ひとつを除いて。
廊下の奥から、一人の若い男性がゆっくりと歩いてくる。落ち着いた足取りながらも、どこか圧倒的な存在感を放っていた。
日に焼けた健康的な肌は、長年のアウトドア活動の証だろう。彼の身に纏うのは、体にぴったりと合った深灰色のカシミアスーツ。白いシャツの袖口は無造作にまくり上げられ、手首には多機能スポーツウォッチ——その文字盤には、使い込まれた傷がいくつか刻まれていた。
順平がアリサの肩を肘で軽く突いた。
「なあ、最近うちの会社、幹部クラスの人材を採用したっけ?」
アリサも少し困惑しながら首を振る。
「聞いてないけど……でも、普通の社員には見えないね。」
その時、若い男が彼らの視線に気づいたように、ゆっくりと顔を向けた。
そして、唇にかすかな笑みを浮かべる。自信に満ちた、その表情。まるで、人々の注目を集めることに慣れきっているかのようだった。
「お邪魔してるよ。俺は涼真。初めてMETに来たから、少し迷ってしまってね。案内をお願いできるかな?」
アリサは一瞬戸惑いながらも、すぐに礼儀正しく答える。
「新人の入社手続きなら、総務部があちらにありますよ。」
涼真は軽く頷き、右目をわずかにウインクさせた。
「ありがとう。でも、俺はここに働きに来たわけじゃない。ただ、ちょっと見学にね。」
順平とアリサは顔を見合わせる。
この男は一体何者なのか?
彼らの疑問をよそに、涼真は興味を惹かれたように視線を移した。
その先にいたのは、デスクで書類に目を落とす真理奈。
彼はゆっくりと歩み寄り、自然な口調で声をかける。
「初めまして、SSIキャピタルの涼真だ。お邪魔していないといいんだけど?」
真理奈は視線を上げ、一瞬で状況を理解した。METは現在、投資を受け入れようとしている。
だが、彼女の表情はほとんど変わらない。ただ淡々と答えた。
「問題ありません。」
涼真はますます興味を持ったようだった。
彼の口から出た言葉は、どこか独特なものだった。
「君の集中力には驚かされる。もしここが崖の上だったとしても、同じように仕事を続けられるのかな?」
真理奈は冷静に答えた。
「今、少し忙しいので……何かご用件がないのでしたら。」
涼真はすぐに察し、穏やかな微笑を崩さずに言った。
「それじゃあ、また改めて話せる機会があるといいね。」
「——涼真。」
その時、少しハスキーで落ち着いた声が背後から響いた。
彼が振り向くと、清奈がゆったりとこちらに歩いてくる。
涼真は腕を広げ、軽く肩を触れる程度のハグを交わす。
「清奈、久しぶりだね。相変わらず華やかだ。」
清奈も珍しく彼を褒める。
「あなたこそ、最近はどんなスポーツに夢中なの?」
涼真は笑い、白い歯を覗かせた。
「二日前はタヒチにいたよ。あそこのバレルウェーブは最高だった。」
清奈は母親のような柔らかい笑みを浮かべると、彼の腕を軽く引いた。
「蓮のオフィスに行きましょ。」
涼真は微かに頷いた後、真理奈のデスクに置かれた名札をちらりと見て、不敵なウインクを送る。
「君と話せてよかったよ、真理奈。また今度、一緒に集中力の限界に挑戦しようか。」
彼女は変わらず淡々とした表情で、一言だけ返した。
「……どうぞご自由に。」
清奈は状況を見て、わざとからかうように言った。
「涼真、あなたの魅力は疑わないけど……この人だけは絶対に落とせないと思うわよ?」
涼真は片方の眉を上げる。
「真理奈さんはそんなに手厳しいんですか?」
清奈は微動だにしない真理奈を見て、待ちきれない様子で言った。
「だって元カレは蓮よ!」
涼真は大きく頷いた。ただの野次馬的な驚きではなく、どこか感心しているようだった。
「別れても一緒に働けるとは……集中力が違いますね。METの懐の深さを実感しましたよ。」
それでもなお涼しい顔の真理奈が気に食わなかったのか、清奈は皮肉っぽく言った。
「当然よ。真理奈はエリート中のエリートだから。」
「それなら。」
涼真は真理奈に真剣な口調で言う。
「真理奈さん、ちょっと面白い提案があるんですが、聞いてみませんか?」
真理奈は顔を上げることもなく、淡々と答えた。
「結構です。」
しかし、涼真はまったく気にした様子もなく、まるで了承を得たかのように満足げに頷く。
「じゃあ、また今度。」
そう言い、軽やかな足取りで清奈とともに去っていった。




