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コーヒーと共に飛んでくる女の策略

倉田はQVに戻ると、すっかり冷静さを取り戻し、いつもの老獪な策士に戻っていた。

真理奈は彼のこの変わり身の速さにすっかり慣れており、もはや驚きもしなかった。


「ここだ」倉田は一つの住所を彼女に渡した。

「うちが依頼している技術系の外部委託会社だ。実際に行って、何が起こっているのか確認してこい」


「技術外注……?」

真理奈はその単語を繰り返しながら、ふと疑問がよぎる。

「いつから契約していたんですか?」


「プロジェクト立ち上げ当初からだ」


つまり、METとの協業を進める一方で、倉田はすでに別ルートを確保していたということか。

どれほどMETが優秀であろうと、QVにとって彼らはあくまで「プランB」に過ぎない。

倉田は最初からMETを完全に信用してなどいなかった。いや、むしろ真理奈自身でさえ、彼の意思決定の中枢に完全に入り込んでいるわけではなかったのだ。


彼女は無意識にスマホを握りしめる。胸の奥にわずかな悔しさが滲んだ。

だが、そんな感情に意味はない。

倉田を責めるつもりもなければ、METに同情するつもりもない。

ビジネスの観点から見れば、これは理にかなった戦略であり、会社の利益を最優先に考えた正しい判断だ。


気持ちを切り替え、真理奈はすぐにその住所へと向かった。


技術外注先のオフィスに足を踏み入れると、空気が張り詰めていた。

焦燥感に満ちた雰囲気の中、コーヒーとタバコの匂いが入り混じる。

何人かのエンジニアがモニターを囲みながら険しい表情を浮かべていた。中には頭を抱え、低く呪詛のように何かをつぶやいている者もいる。


「何があったんですか?」

真理奈は単刀直入に尋ねた。


すると、一人のエンジニアが顔を上げた。

無表情ではあるが、その目には明らかな怒りが滲んでいる。


「QVの人間か?」

彼は低い声で問い、嘲るように口元を歪めた。

「だったら知ってるだろ? こっちはひどい目に遭ってるんだ」


真理奈は眉をひそめる。ますます嫌な予感がした。


「詳しく説明してください」


エンジニアは腕を組み、無感情な声で答えた。

「今朝、テストユーザーが意識を失って病院に運ばれた」


真理奈の心臓が一瞬、跳ねた。


まさか、社内テストで……医療事故!?


表情こそ変えなかったが、頭の中ではすでにシミュレーションを始めていた。

この件がメディアに漏れれば、QVは世間からの厳しい追及を受けることになる。

最悪、プロジェクトの存続自体が危うくなるかもしれない。


彼女がさらに詳細を尋ねようとした瞬間、エンジニアの声が一段と鋭くなった。


「お前が報告書を書いたって聞いたが、本当にブラックボックスの部分までちゃんと記述してたのか? お前、技術のことわかってるのか?」


真理奈はスッと目を細めた。

相手の言葉には、QVに責任を押し付けようとする意図が透けて見える。


……やれやれ、小規模の外注先はこれだから困る。


彼女は無言で腕を組み、少し首を傾げながら、じっとエンジニアを見つめた。

その視線には、明確な圧力が込められている。


「ブラックボックス?」

彼女の声は落ち着いていたが、芯の通った鋭さがあった。

「つまり、自分たちで書いたコードの中身すら把握できていない、ということですか? それとも、QVから提供されたデータとフレームワークをただ継ぎ接ぎして、場当たり的にシステムを組み上げた結果、問題が発生しただけの話?」


彼女の指摘は、遠回しな嫌味ではない。

核心を突く直球だった。


エンジニアの表情が一瞬、曇る。

他のメンバーも気まずそうに視線を交わし、場が静まった。


「……」

エンジニアは唇を噛みしめ、言葉を探すように目を泳がせる。


だが、すぐに態勢を立て直し、新たな話題を持ち出してきた。

「……もう一つ、気になることがある。最近、誰かが勝手にコードをいじってる形跡があるんだ」


「どういう意味です?」


「重要な部分のコードが、ここ数日で微妙に書き換えられてる。まるで、意図的にミスを誘発させようとしてるみたいに……」


真理奈はこの話を聞き流した。


「それはそちらで調べてください」

彼女の口調はさらに冷たくなる。

まるで倉田の言い回しを完璧にコピーしたかのように、一語一語、はっきりと告げた。


「私は、問題の所在を確認しに来たのであって、あなた方の尻拭いをしに来たわけではありません」


今の最優先事項は、医療事故への対応だ。

事態がこれ以上悪化しないよう、すぐに動く必要がある。


素早く要点をまとめ、彼女は倉田へ電話をかけた。


ところが、倉田は驚くほど冷静だった。

「他のことは気にするな。METのテストを優先しろ」


「ですが、医療事故が公になると——」


「公にはならない」


倉田は彼女の言葉を遮り、確信に満ちた声で続ける。


「患者側には既に対応済みだ。医師の診断では『個人の体質による突発的な症状』とされ、機材との因果関係はない。報道関係も、広報が手を回している。心配はいらない」


……つまり、彼女が報告するより前に、倉田はすべて手を打っていた、ということだ。


真理奈は滅多に驚かないタイプだが、今回は思わず感心せざるを得なかった。

倉田の危機管理能力は、やはり一流だ。


そして、彼は次の指示を下す。


「明日からMETに常駐して、テストの進行をチェックしろ。蓮にはすでに話を通してある」

真理奈は眉をひそめ、その言葉を咀嚼した。


「MET側で……私に何をさせたいのですか?」


電話の向こうで、倉田がくすっと笑う。彼女の素早い理解力に満足しているようだった。


「METに溶け込み、あらゆる形で支援しろ。」


真理奈は耳を澄ませ、一瞬で意図を読み取った。


「了解しました。」


「いいだろう。」倉田は意味深に言葉を続けた。「真理奈、気をつけろよ。」


電話を切ったあとも、真理奈の心は波立っていた。


QVの立場からすれば、彼女の任務は明確だ――METの内部に入り込み、信頼を勝ち取り、あらゆるコアデータを掌握し、その成果を外部の無能な外注へ還元する。ビジネス的に見れば、これ以上ない完璧な戦略だ。もし外注企業がMETの技術を吸収できれば、QVはMETを周縁化し、最終的には完全に無力化できる。そうなれば、QVは最小限の労力で最大の利益を得られるだろう。


倉田の布陣はいつもながら精密で、彼女の役割は、その鋭利なメスとなり、迷いなくMETの心臓を抉り取ることだった。


だが、自分自身の立場から考えると――話はそう単純ではなかった。


ある意味で、蓮の執念と信念には感心すらしていた。倉田のように歪んだ支配欲や、業界を手玉に取る優越感とは違い、蓮が本当に大切にしているのは「プロダクト」そのものだった。彼にとってMETは、取引の道具ではなく、自らの使命だった。その純粋さは、今となっては貴重なものに思えた。


だが、それ以上に真理奈を混乱させたのは――蓮の態度だった。


彼は、彼女がMETで働くことをまるで警戒していなかった。以前、彼女がコア技術に踏み込んだときもそうだった。彼がまったく気づいていないとは思えない。だが、なぜ何の手も打たないのか?


真理奈がQVにいる限り、彼女は倉田の刃であり続ける。選択の余地はない。


しかし、蓮には選択肢があったはずだ。


倉田がオープンソース化を拒み、外注の方針にも狂いが生じているこの状況――もし蓮が本気で動けば、逆転のチャンスは十分にある。


……もしかして、蓮もまた、もっと大きな勝負を仕掛けようとしているのか?


彼女は心の中で呟いた。


蓮、あなたは一体、何を考えているの?


そして、一方で――


電話を切った倉田は、ふっと虚空を見つめ、蓮の姿を思い浮かべながら鼻で笑った。


「お前はまだ、"愛"しすぎている。」


翌日、真理奈はMETのオフィスに姿を現した。


席に着き、視線を軽く巡らせる。


ここは、今まで彼女がいたどの企業とも違っていた。そこにあるのは、資本の計算高い打算ではなく、純粋な「情熱」だった。


何人かの社員が集まり、コードの最適化について議論している。誰も声をひそめない。上司の機嫌を伺う者もいない。ただ、彼らは「より良いもの」を作ろうとしていた。


ふと、真理奈は錯覚を覚えた。


まるで、本当に「仲間」として迎えられたかのような――


だが、それは幻想だ。


自分は、このチームを打ち破るために送り込まれた存在なのだから。


彼女は静かに息を整え、PCのセットアップを始めた。


給湯室


順平は絶望的な表情でため息をついた。


「なあ、知ってるか? 俺、今日ずっと自分に言い聞かせてたんだよ。"順平、お前なら耐えられる。ツッコむな、ツッコむな"って……でもさ! でもさ!」


アリサは気まずそうにうなずいた。


「圭介の言った通りになったね……MET、本当に真理奈に給料払うんだ……。」


圭介はじっと真理奈のほうを見つめ、眉をひそめた。


「いや、待てよ……俺、何か見間違えたか?」


「え、何が?」


順平もつられて振り返る。


「……おい、どういうことだ!? もう一人、真理奈がいるぞ!!」


アリサも困惑した表情で、デスクのほうを見やる。


「えっ……これ、うちの社員?」

真理奈の向かいに立つ女性は、わずかに身を傾け、気だるげな視線を向けていた。

漆黒の髪は滑らかに肩へと流れ、こめかみのあたりでゆるく巻かれたカールが、彼女の奔放な雰囲気を際立たせる。

端正な顔立ちは鋭く、弧を描く眉、つり上がった目尻はまるで刃のよう。

生まれつき微笑んでいるかのような唇は、危うい魅力を孕んでいた。


全身を黒で包み、袖口だけをわずかに折り返して白い手首をのぞかせる。

足元の細いヒールが床を打ち、軽やかな音を響かせるたびに、その存在感を無言で主張していた。


立っているだけで、ただならぬ気配を放つその女性――


清奈せいな。QVの広報兼マーケティングディレクター。


なぜ彼女がMETに?倉田に呼ばれたのだろうか?


「清奈?どうしてここに?」


問いかけると、清奈は微かに笑い、どこか余裕を漂わせる。


「仕事よ。あなたは?」


真理奈は表情を崩さない。


「同じく、仕事です。」


淡々と答えながら、頭の中ではすでに計算を始めていた。

清奈の手腕は業界でも名高い。彼女はQVの伝説的な存在であり、世論を操り、言葉で人を翻弄することに長けている。

ここにいるのは倉田の差し金――その確信が、真理奈の中で静かに固まりつつあった。


真理奈は首を少し傾け、清奈を見つめる。


「でも、倉田さんからは何も聞いていませんでしたが?」


清奈は気だるそうに頭を傾ける。


「サプライズにしたかったんじゃない?」


真理奈は鼻で笑う。だが、目の奥に鋭い光が宿った。

この言葉には二つの意味がある――清奈は自分の味方か、それとも敵か。


感情を押し殺しながら、背もたれにゆったりと身を預ける。


「光栄ですね。」


そう言いながら、一拍置いて尋ねた。


「それで、担当は?広報?それともマーケティング提携?」


清奈は独特のハスキーな声で、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「METが必要とするものを、提供するだけよ。」


「ふふ、倉田さんも随分とMETに入れ込んでるみたいですね。」


真理奈は笑いながら、視線を絡ませる。


「でも……彼らが本当に必要としているのはあなた?それとも私?」


清奈はその挑発を受け流し、小さく鼻を鳴らすと、甘えるように言った。


「バカね、あなたには私が必要でしょ?」


真理奈の眉がわずかに動く。だが、すぐに口元を持ち上げ、清奈を見つめた。


「……ほう?私があなたを必要とする理由って?」


清奈はゆっくりと身を乗り出し、毒蛇のように滑らかに距離を詰めると、耳元で囁いた。


「仕事をしに来たんでしょう?恋愛をしに来たんじゃなくて。」


そう言い終えると、甘い笑みを残しながら、そっと身を引いた。


真理奈はゆっくりと瞬きをし、まるでその言葉が可笑しかったかのように小さく笑う。


「……私が感情に流されるように見えます?」


清奈は微笑んだが、その目には一切の温もりがなかった。


「そうじゃないことを願うわ。」


冷ややかにそう言い放つと、長い髪を翻し、踵を返して去っていった。


真理奈は唇をわずかに引き結び、指先で無意識にテーブルを軽く叩く。思考が回り始める。


清奈の登場、それ自体が大きな変数だ。


倉田はただの監視役として彼女を送り込んだのではない。

そこにはもっと大きな意図がある。


「そうじゃないことを願うわ。」


彼女の真意は測りかねるが――これは間違いなく警告だった。

METでの真理奈の立場は、決して揺らいではならない。


だが、そんなことは最初からわかっている。


Aidanの些細な気遣いに心を動かされたわけではない。

そして、清奈の登場は、倉田が自分に対して焦りを感じ始めた証拠――


ならば、より慎重に動くべきだ。


そう自らに言い聞かせながら、真理奈は再び静かに目を閉じた。


彼女は倉田の最も鋭い刃。

そして、刃に選択肢はない。

反対側で様子を伺っていた三人組は、まるで思いがけない大スクープを目撃したかのような顔をしていた。

会話の内容は聞こえなかったが、真理奈と清奈が微笑みながら「親密な会話」を交わしているのが見える。


順平は興奮したように膝を叩いた。

「おいおい、あの二人、今にもキスしそうだったぞ!」


アリサは目を丸くして驚いている。

「二人って知り合いだったの?しかも、こんなに……仲が良さそう?」


圭介は腕を組み、訝しげに呟いた。

「……でも、なんか雰囲気がおかしいな。あの女、誰だ?」


「……QVの人間だよ。」


ドアのほうから聞こえた声に、三人はそちらを振り向いた。

浅いブルーのシャツを着た蓮が、コーヒーカップを手にして立っていた。

今日は珍しく髪まできちんとセットしている。


順平は顔をしかめ、苦々しく呟いた。

「真理奈だけでも厄介なのに、さらにもう一人増えたのかよ。」


蓮はコーヒーを一口飲みながら、軽く笑う。

「そうだな。倉田さん、二人セットで採用したらしい。」


アリサは信じられないといった表情で蓮を見た。

「蓮、あんたよくそんな余裕でいられるわね!あの二人、どう見ても……どう見ても……」


「企業スパイだな。」


圭介が簡潔に言い切る。

「倉田さんが、本当に支援のために彼女たちを送り込んだとは思えない。」


「結局、どちらが上手く立ち回れるかってことだろ。」


蓮はカップをトレーに置くと、自然な動作で言った。

「真理奈のコーヒーができたから、持って行ってくる。」


順平の目が点になる。

「おいおい、そこまで媚びるか?」


アリサは頭を抱えた。

「蓮、これも作戦の一環なんでしょうね?」


圭介は黙って蓮の後ろ姿を見送りながら、小声で呟く。

「……本当に、彼は大きな賭けに出ているのかもしれないな。」


三人は声を揃えて言った。

「本当にそうであってくれよ!」


蓮は歩みを止めない。

まるで全てを計算済みかのように、穏やかで自信に満ちた足取り。

コーヒーの湯気がふわりと立ち上り、彼の視線は真理奈へと向けられた。


「持ってきたよ。」


振り返った真理奈に、蓮はすかさずカップを差し出した。

まるで、これまで何度もそうしてきたように。


真理奈はカップを見下ろし、一瞬だけ目を細めた後、蓮を見上げる。

「……随分と気が利くのね。」


蓮は軽く笑い、まるで聞き流すように言った。

「君が喜んでくれたら、それでいいから。」


真理奈は鼻で笑いながら、指先でカップの縁をなぞる。

「私が、今でも昔と同じ味を好むとでも?」


まるで忠犬のように、蓮は嬉しそうに微笑む。

「わからないよ。教えてくれる?」


真理奈はカップを持ち上げ、軽く息を吹きかけてから、ゆっくりと一口飲んだ。


「……蓮、あなた、暇なの?」


無邪気に尻尾を振るかのように、蓮は堂々と答える。

「METの仕事は効率がいいからね。そのうちわかるよ。」


真理奈は軽く鼻を鳴らしながら、指先でカップを回した。

「なら、見せてもらおうじゃない。どれほどの効率か。」


蓮はまっすぐに彼女を見つめ、まるで願うように言った。

「真理奈、そんなに俺を遠ざけなくてもいいだろう?そんな皮肉な言い方はやめてくれないか?」


真理奈の目がわずかに細められた。

過去の記憶が、ほんの一瞬、胸をよぎる。


「蓮、私はあなたの部下じゃない。あなたを気持ちよくさせる義務はないわ。」


それでも、蓮は微塵も気にした様子を見せない。

どこから湧いてくるのか、その執着心と忍耐力。


「なら、俺が君を気持ちよくさせるよ。」


真理奈は小さく笑い、カップに視線を落とす。

一口、コーヒーを啜る。

そのまましばらく沈黙した後、顔を上げ、だるそうに言った。


「……なら、頑張って。」


その一瞬の揺らぎを、蓮は見逃さなかった。

それだけで、彼の心は大いに弾む。


「任せて。」


真理奈は、それ以上何も言わず、コーヒーを手に持ったままテーブルに寄りかかる。


少し離れたところで、清奈が鋭く眉を上げた。

蓮が真理奈に対して見せるあからさまな好意に、静かに鼻を鳴らす。


「……男ってやつは。」


真理奈は清奈の視線に気付き、わずかに微笑んだ。

まるで、「あなたの思った通りよ。それで、どうする?」とでも言いたげに。


彼女は、わざと軽やかな口調で蓮に問いかけた。


「ねえ、蓮。あなたの親切って、誰にでも向けられるものなの?」


真理奈の軽妙な口ぶりに、蓮はすぐにその意図を察した。

そして、少し芝居がかった口調で答える。


「……本当に大切な人にだけ、ね。」


真理奈は薄く笑いながら、目の奥に静かな光を宿す。


「そう?それは光栄ね。」


真理奈は蓮に向ける視線に、どこか意味深な色を帯びていた。

「後悔しないといいけど」


蓮は確信に満ちた目で、静かに彼女を見つめ返す。

「俺は何事も後悔しない」


真理奈は軽くコーヒーの表面を吹いて、目を細めた。

それは品定めのようであり、また何か無言の暗号を交わしているようでもあった。

「その自信、ずっと持ち続けられるといいわね」


——「きゃっ!」


突然、蓮の背後で甲高い悲鳴が響いた。

同時に、何か熱いものが背中にぶちまけられる感覚。驚いて振り返ると——


清奈が目を見開き、半分ほどしか残っていないコーヒーカップを持って立ち尽くしていた。

「ごめんなさい、ごめんなさい!わざとじゃないの、すぐ拭くわね!」


慌ててティッシュを手に取り、蓮の背中を拭き始める清奈。

その瞬間、華やかな香水の匂いが鼻をつく。加えて、背中をなぞる細い指先の感触が、何とも言えないむず痒さを引き起こした。


真理奈は黙ってその光景を見つめながら、コーヒーカップを指先でくるりと回す。

その指がカップの縁をトントンと叩くと、静寂の中に澄んだ音が響いた。


「清奈、あなたらしくないわね」

彼女は淡々とした口調で言いながら、探るような視線を向ける。

「手が滑ったの?」


清奈は申し訳なさそうに髪を耳にかけ、気まずそうに微笑んだ。

「そうなのよ、前のオフィスと勝手が違って……ちょっとつまずいちゃったの」


真理奈は表情を変えずに、冷静に返す。

「へえ、METの床ってそんなに引っかかりやすかったかしら?」


コーヒーを一口飲みながら、ゆっくりと清奈と蓮の間を見比べる。


だが、清奈は真理奈の言葉をさらりと受け流し、にこやかに蓮へと向き直った。

「初めまして、蓮。私は清奈。QVで政府対応とメディア戦略を担当しているの。倉田さんもMETとのプロジェクトをとても重視しているし、私も全力でサポートするわ!」


なぜか、真理奈の中に得体の知れない苛立ちがこみ上げる。

「倉田さんも随分とお心遣いが細やかですね」


彼女は蓮を見やり、矛先を変える。

「METは本当に運がいいわね。QVの重役がわざわざお手伝いに来てくれるなんて?」


蓮が何か言う前に、清奈が間髪入れずに口を挟んだ。

「真理奈、仕事中はプロ意識を持たなきゃダメよ?嫌味を言う暇があったら、もっと建設的な話をしましょう?」


真理奈は思わずため息をつき、わざと彼女の口調を真似る。

「清奈ってば、プロ意識すごいね。私に仕事の心得を説いてくれるなんて」


蓮は二人の間に漂う火花を察し、慌てて場を取り繕った。

「まあまあ、みんな同じプロジェクトの仲間なんだから、協力していこう。清奈、METへようこそ」


清奈は満足げに微笑み、すぐに蓮へと甘えるような視線を向ける。

「それにね、私は今日が初日だから、職場を案内してもらえたら嬉しいんだけど?」


——わざとらしい。


真理奈はわざわざ顔を上げることもせず、コーヒーを静かに飲み続ける。


だが、蓮は何も疑問を抱くことなく、すんなりと頷いた。

「いいよ。METの構造はちょっと複雑だから、一通り案内するよ」


そう言って、彼は真理奈の方をちらりと見た。何か言いたげな表情だったが、結局は微笑んだだけで済ませる。

「じゃあ、また後で」


清奈が嬉しそうに蓮の隣を歩いていく。その後ろ姿を見ながら、真理奈はイライラした様子でカップの縁をトントンと指で叩く。


まるで蛇のようだ——優雅にとぐろを巻きながら、ゆっくりと蓮へとにじり寄る。

彼女は何を主張したいのか?METでの立場?それとも、蓮への興味?

あるいは、ただ単に私を苛立たせたいだけ?


どれであっても、気分が悪い。


……それ以上に、苛立たしいのは蓮の方だ。


何の警戒心もなく、あっさりと清奈の要求を受け入れるなんて。

彼は生まれついての「いい人」だ。でも、それが何もかも許される理由にはならない。


私はこの感覚が嫌いだ。

自分の領域がじわじわと侵食されていくのを、ただ黙って見ているしかない——この無力感が。


***


休憩スペースの隅では、順平・アリサ・圭介の三人組が、この一部始終を見届けていた。


順平が目を丸くする。

「なあ、今の見たよな?アイツ、わざとコーヒーぶっかけたよな?」


アリサは腕を組み、呆れたように舌を打つ。

「しかも、その流れでさりげなく蓮にくっつくって……なかなかやるわね」


圭介は眼鏡を押し上げ、考え込むように言った。

「蓮の表情を見る限り、彼はあえて拒絶はしなかったね。……これがどういう意味を持つのか、興味深い」


順平は頭を抱えて、大げさなため息をつく。

「結局、男なんてそんなもんだろ?二人の美女に取り合われて、悪い気がするはずないじゃん」


アリサは肩をすくめながら、ふと真理奈の方へ目を向けた。

「でも、蓮ってちょっと……ほだされやすいところ、あるのよね」


三人は無言になり、思わず真理奈の方を見る。


案の定——彼女の表情は険しく、指先は無意識にキーボードを激しく叩いていた。

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