終わった……うちの会社に大恋愛野郎が誕生しちまった
蓮はこの話を語り終えたが、誠司がアリサに特別な感情を抱いていた部分はあえて伏せた。
仲間たちは顔を見合わせ、ようやく気づいた。
——この交渉は、最初から蓮が仕掛けた布石だったのだ。
「……マジかよ。」
順平が沈黙を破った。目を輝かせ、興奮気味に言う。
「こんな大掛かりなことやってたのか? 企業スパイまで投入するとか、やばすぎ!」
アリサは口をぽかんと開け、しばらく考え込んでから、ようやく言葉を絞り出した。
「つまり……METにはずっと、QVの内情を探る人がいたってこと?」
蓮は静かに頷く。
「正確に言えば、QVの技術外注先に、ね。」
圭介がメガネを押し上げ、考え込むように呟いた。
「つまり……お前がさっき言った『オープンソースにする』って発言は、ただのブラフじゃなくて、最初から勝算があったんだな。」
「そういうこと。」
蓮は少しだけ肩をすくめるが、すぐにため息をついた。
「ただ……倉田は技術のことをよく分かっていないんだ。正直、彼が問題に気づくのが遅れるんじゃないかと心配してる。だって、誠司の情報はリアルタイムの一次情報だ。俺の方が倉田より先に問題を知ることすらある。」
そう言って、蓮は苦笑するが、次の瞬間、少しだけ表情を引き締めた。
「でも、俺も誠司も確信していた……このコピー品はいずれ必ず問題を起こすって。QVの開発スピードは異常に速く、すでに俺たちに並び、下手したら追い越していた。でも、だからこそ、すでに一部のユーザー向けにテストを開始していたんだ。そして、誠司の報告によると——そこで、どうやら医療事故が発生したらしい。」
——会議室に静寂が訪れる。
医療事故——その言葉の重みを、全員が噛み締めた。
最初に沈黙を破ったのは順平だった。
「ちょ、ちょっと待てよ!? つまり、向こうの製品がやらかしたってことか?」
蓮は静かに頷き、深く息を吐いた。
「誠司によると、数日前、テストユーザーの一人が深刻な健康被害を訴えて病院に搬送されたそうだ。だけど、向こうはその情報を外に漏らさないように必死で隠している。」
蓮は手元のペンをくるくると回しながら、思案するように続けた。
「さっき倉田が強気から弱気に転じたのは、その情報をようやく掴んだからだろうな。だからこそ俺を引き止めながら、開発を急いでいるんだ。」
順平は「パチパチ」と皮肉げに拍手し、嫌味っぽく言った。
「いやー、倉田さん、マジですごいわ。打たれ強いし、メンタルも鋼だし、その根性があれば何でもできるよね!」
蓮は頷き、話を続ける。
「彼の賭けは、短期間で不具合を修正し、正式リリースまでにリスクを最小限に抑えることだ。結局のところ、良いプロダクトは磨かれて完成するからな。」
しかし、アリサは不安げに眉をひそめた。
「でも……うちも昨日から本格的なテストを開始してるよね? 倉田は、またうちの調整をパクってくるんじゃない?」
その言葉に、蓮の表情が明るくなった。
「だからこそ、真理奈は必ずまたMETに来る。」
順平の顔が一気に険しくなる。
「は!? また来るのかよ……? この前もこっちの技術を探りまくってたのに、誰も止めなかったどころか、むしろ歓迎してたじゃねえか。ほんと、最悪だぞ。」
アリサも小さく頷く。
「確かに……アクセス権を渡すのは最初から約束してたけど、それにしても蓮、最近ちょっと真理奈に甘くない?」
蓮は少しだけ間を置いて考えたあと、はっきりと言い切った。
「そんなことはない。」
しかし、順平は納得しない。
「いやいや、真理奈、ここじゃ女王様扱いだぞ? お前、毎日せっせとコーヒーまで淹れて持っていってるし、マジで見てらんねぇよ。完全に美人局に引っかかってるだろ!」
圭介も真顔で冗談めかしながら言う。
「このままだと、METが真理奈に給料を払う日も近いな。」
——その瞬間だった。
蓮は何の迷いもなく、淡々と言い放った。
「真理奈のせいじゃない。……俺が、彼女を愛しているんだ。」
——シン……
一瞬、時間が止まったかのような静寂。
そして、次の瞬間——
「……は?????」
順平、アリサ、圭介——全員が、一斉に息を呑んだ。
順平は勢いよく椅子にもたれかかり、危うくひっくり返りそうになった。
「はぁ!? お前今、何て言った!?」
アリサの目はまん丸に見開かれ、口をパクパクさせたものの、最終的に絞り出したのは一言だけ。
「……蓮、最近ストレス溜まってない?」
圭介は表面上は冷静さを保っていた。
「落ち着いて話そう。社内恋愛ならまあ分かる。長く一緒にいれば、そういうこともある。でも、ビジネス上のライバルって……難易度高くないか?」
順平がすかさず相槌を打つ。
「そうだよ! ライバルは恋愛対象にならねぇだろ!」
彼は蓮の目の前で手をひらひらさせた。
「お前、正気か? 真理奈はライバルってだけじゃなく、お前が絶対に戻らないって決めた元カノだぞ!? そんなの、ハードモードどころか地獄モードじゃねぇか!」
アリサは持っていた冷たいペットボトルを額に当てながら尋ねた。
「で、いつからまた真理奈のことを好きになったの?」
蓮は一切の迷いなく、確信を持って答えた。
「再会した瞬間からだ。」
その言葉は雷鳴のごとく、会議室に衝撃を走らせた。
順平は頭を抱え、まるで便秘のような顔をした。
「終わった……うちの会社に大恋愛野郎が誕生しちまった……お前、さっき倉田を脅してた時よりヤバいぞ。」
圭介は何とか論理的な説明を試みる。
「心理学的に見れば、対立関係にあるほど特別な感情が生まれやすいっていうのは分かる。だが……」
アリサは数々の小説を読んできた経験から、すぐに結論を出した。
「これは……変態だね。」
順平は歯ぎしりしながら、拳を握った。
「蓮、お前、頼むから『ビジネス版ロミオとジュリエット』なんてやめろよ!? あの二人、最後どうなったか知ってるか!? ダブルキルだぞ!!」
しかし、蓮は微動だにしなかった。まるで問題があるのは周りで、自分は冷静で正しいとでも言わんばかりの表情だった。
「理屈は分かってる。けど、気持ちは抑えられない。俺はもうどうしようもなく、再び真理奈に恋をしてしまったんだ。何度でも、彼女を好きになる。」
またしても、沈黙。
順平は勢いよく立ち上がり、「ちょっと外でタバコ吸ってくる」と言って会議室を出た。
アリサは無言で立ち上がり、冷たいお茶を淹れ、氷をたっぷり入れた。
圭介は何も言わず、テーブルの上の資料を丁寧にまとめ始めた。
数分後、順平は戻ってくるなり、問い詰めた。
「よし、お前が彼女を好きなのは分かった。じゃあ、真理奈は? 彼女はお前のことどう思ってるんだ?」
蓮の目に、一抹の期待が宿る。
「……彼女はまだ気づいてない。」
三人は一斉に息を呑んだ。空気が薄くなったような錯覚さえ覚える。
順平は、ついに堪えきれず声を荒げた。
「言いにくいこと言うぞ? いいか、蓮、お前だって分かってるはずだ! 真理奈は倉田の“策”なんだよ!! 最初はお前の罪悪感を利用するつもりだったんだろ? でも、お前はなんとか持ちこたえた。だから心配してなかった。だが、『あの会食』の後、お前は変わった。恋愛脳になっちまったんだ!! つまり、今の真理奈に『これが欲しい』って言われたら、お前、全部渡しちまうだろ? 目を覚ませよ!! 彼女は今、QVの人間だぞ!!」
確かに、倉田との会食の場で、真理奈は迷いなく過去に決別を告げた。
だが、言葉と行動は違う。あの日を境に、真理奈は蓮に対して以前のような冷淡な態度を取らなくなった。
もちろん、それはただ彼女が過去を割り切っただけかもしれない。蓮に特別な感情を抱いているわけではない可能性もある。
だが――蓮の心は、すでに彼女に囚われていた。
「大丈夫だ。」
蓮は穏やかに、だが確信を持って言った。
「俺はちゃんと自分の責任を果たす。」
その言葉を受けて、アリサが小さなテストを仕掛けた。
「じゃあ、もし真理奈が今、食事に誘ってきたら?」
蓮は少し微笑み、思い出に浸るように答えた。
「場合によるな。」
圭介も続けた。
「じゃあ、彼女が酔っ払って『迎えに来て』って言ったら?」
蓮はふっと、三人には理解できないような優しい笑みを浮かべた。
「彼女の安全を守るために行く。」
「それは“守る”じゃなくて、“自分から突っ込んでいく”って言うんだよ……」
順平が絶望的な声を漏らす。
「じゃあ、もし彼女が酔った勢いでお前に抱きついて『寒い』って言ったら?」
「……じゃあ、上着を持って迎えに行く。」
「もうダメだ!!」順平は頭を抱えた。「こいつ、終わってる!!!」
そこまで聞いた順平は、ついに核心を突く質問をした。
「じゃあ聞くけど、もし真理奈が『METの株を譲って』って言ったらどうする?」
蓮の顔から笑みが消えた。
「それは無理だ。」
「本当に?」
「……彼女がどう言うかによる。」
「オワッタアアアア!!!」
順平はその場で崩れ落ちた。
「お前、ビジネスを恋愛リアリティショーにする気か!? いい加減にしろ!!」
他の三人が波乱に満ちた表情を見せる中、蓮だけは静かに笑っていた。
「心配するな。真理奈は、仕事と感情を混同するような人じゃない。俺は彼女のことを分かってる。」
蓮の脳裏に蘇るのは、今日の彼女の姿。倉田の影はすでに霞んでいる。
思い返せば、彼女は確かに自分を気にかけていた。METのことまで――
「……俺の言ってること、間違ってるなら反論してみろよ。」
蓮はそう言い切り、微笑んだ。
順平は口を開きかけたが、反論する理由が見つからず、言葉に詰まった。
アリサは眉をひそめ、真理奈が交渉の場で見せた態度を思い返す。確かに、彼女は最初から特別な感情を表に出さず、あくまでQVの利益を最優先にしていた。しかし、蓮が「オープンソース化」を口にした瞬間の反応——あの無意識の戸惑いと拒絶。それは演技ではなかった。
「彼女は確かに場を和らげようとしていた。でも……」
アリサが言葉を継ごうとしたところで、順平が冷たく言い放った。
「でも、それはあくまで交渉の一環だ。次の展開に余地を残すためであって、お前のためじゃない。」
三人は同情の目で蓮を見つめ、無言でこう伝えていた——『彼女はまだお前を愛している』なんて、所詮人生三大錯覚のひとつだと。
「違うよ。」蓮はゆっくりと首を振った。その目には確信めいた光が宿っていた。「彼女が何を言って、何をしようと関係ない。問題は……目だ。あの眼差しだよ。」
蓮は言葉を探した。どう言えばこの微妙な感情を伝えられるのか。
恋に落ちていた頃、真理奈は幾度となくあの眼差しを向けてくれた。深い関心と気遣いに満ちた視線。それが今は淡くなっているとはいえ、確かに感じたのだ。彼女に再会してから初めて、あの眼差しが蘇った。その瞬間、彼は希望を取り戻した。
蓮はアリサを見た。
「アリサ、お前、俺と彼女の縁はまだ切れてないって言ったよな?」
「私のバカ!」アリサは頭を抱えた。
蓮は乾いた笑みを浮かべた。その表情は、泣くよりも痛々しかったが、すぐに決意を固めるように姿勢を正した。
「分かってる。これは倉田の仕組んだゲームだ。俺たちはみんな、その中の駒にすぎない……でも、俺はすでに倉田に二度勝ってる。三度目もあるかもしれない。どうせ彼のゲームに乗るなら、俺がシナリオを書き換えてやる。」
アリサは何かを思い出したように、少し躊躇いながら口を開いた。
「……そういえば、前に真理奈に君のことを少しでもよく言おうとしたんだけど、全然聞く耳を持たなかったよ。だから、あまり楽観的にならない方がいいと思う。」
圭介も頷く。
「過去の傷はそう簡単に癒えない。特に、真理奈みたいなプライドの高い人にとってはね。お前……あの時は仕方なかったとはいえ……」
順平が容赦なく言葉を継ぐ。
「めちゃくちゃクズだったぞ。」
蓮は鼻の奥がツンとするのを感じ、目尻が熱くなった。それでも、彼は赤くなった目を擦りながら、まっすぐに言った。
「だからこそ、俺は証明するんだ。これは俺への試練だ。俺は過去の過ちを償う。そして、彼女にもっといい未来を見せる。」
会議室に静寂が訪れた。
アリサ、順平、圭介は顔を見合わせ、誰も蓮を否定しようとはしなかった。
アリサが静かに息を吐いた。
「……狂気の沙汰ね。」
圭介はこめかみを揉みながら呟いた。
「究極の理想主義だな。」
順平は口元を引きつらせ、最後には無力感とともに額を押さえた。
「お前のその純粋すぎる想いの前じゃ、俺も毒を吐けねえよ。」
蓮は小さく笑った。しかし、その瞳はこれまでになく真剣だった。
「METは小さな会社だけど、ここにいると本社にいた頃よりもずっと強くなった気がする。自分で決断できるからだ。運命に流されるのではなく、自分自身で道を選び、その上で誰も傷つけない選択をすることができる。ここにいるみんなが信じていることも、そういうことだろ? 商業の形は変えられる。METなら、利益を追求しながら、それを生み出す人々への敬意も守れる。」
彼はふっと視線を落とし、現実に引き戻されたように言葉を続けた。
「QVとの関係についても、これまでの常識なら、この戦いには勝者がひとりしかいない。でも……俺は違う結末を見つけた気がする。誰もが納得するエンディング。そのために動いてる。そして真理奈——彼女はきっと、俺がたどり着くその場所で待っている。」
アリサがためらいながら口を開く。
「……でも、蓮。仮に全てを証明できたとしても、彼女が戻ってくるとは限らないんじゃない?」
蓮は静かに顔を上げ、温かく、それでいて頑なに答えた。
「それでも、俺はやる。」
この言葉に、もう誰も反論できなかった。




