これ、完全に『元カノ未練モード』じゃん
NETに戻ると、アリサはまるで霜が降りたナスのようにしおれた表情で、椅子にもたれかかっていた。顔には「もうダメだ……」と書いてあるかのようだった。
順平はその様子を見るなり、楽しそうに近寄った。
「で、真理奈とやり合った感想は?」
アリサは頭を抱えて呻いた。
「怖すぎる!!真理奈が第二の倉田になってる! 私を見る目が、処理すべきエラーを見てるようだった!」
圭介が眼鏡を押し上げながら尋ねる。
「それで、結果は?」
アリサは机に突っ伏したまま、人差し指を一本だけ立てた。
「……OKもらった。」
蓮はようやく胸のつかえが下りた気がした。
「アリサ、本当にすごいよ。よくやった。」
だが、アリサの表情は晴れない。
「でも、なんか悲しい……真理奈、昔はこんなんじゃなかったのに。まるで感情を失ったみたい。きっと、この半年間、すごく辛かったんだと思う……。この前会ったときは普通に笑ってくれて、一緒に買い物に行く約束もしたのに……。」
誰もが言葉を失い、沈黙が落ちた。
蓮は特に、何も言えなかった。
今日のこの状況は、どれほど自分のせいなのか——考えずにはいられなかった。
そんな空気を打ち破るように、順平が軽い調子で茶化す。
「いやぁ、お前が“徳川真理奈”と戦って無事でいられたってことは……めでたく昇格ってことだな!」
アリサは思い切り睨みつけた。
「その“めでたさ”をお前に譲るよ!」
その後、アリサはMETの代表として引き続き会議に出席した。
蓮が目の前にいなければ、真理奈の感情が乱れることもなく、交渉はよりスムーズかつ効率的に進んでいった。
数日後。
会議が終わった後、アリサは資料を片付けながら、慎重に切り出した。
「……真理奈、実は蓮のこと——」
真理奈は一瞬アリサを見て、冷静に遮る。
「言わなくていい。興味ないから。」
アリサは少し躊躇ったが、結局、飲み込んだ。
真理奈は淡々と荷物をまとめ、会議室を後にした。
誰もが何事もなく終わるかと思っていた矢先、またしても倉田が余計なことを仕掛けてきた。
彼は思い付きで、真理奈と蓮を食事に誘ったのだ。
真理奈はスマホの画面に表示された招待メッセージを見つめ、内心うんざりしていた。
倉田……また面白がってるな。
彼の性格を考えれば、適当に断ったところで、次はもっと厄介な状況を作り出すに決まっている。
だから、短く返した。
「いいですよ。」
その頃、蓮も同じメッセージを受け取り、困惑していた。
順平は、いつもの調子でふざける。
「おお、因縁の相手+元カノの組み合わせ……これはもう完全に“修羅場”だな!」
蓮はため息をつく。
倉田の意図はわかりきっていた。
そして、真理奈が自分に対して未だに怒りを抱えていることも。
“修羅場”という表現は、確かに的を射ていた。
順平はさらにノリノリで言う。
「なぁなぁ、俺も行っていい? お前の親友として、こんな面白い場を見逃すわけにはいかない!」
アリサが呆れ顔で言う。
「……あんた行って何するの? 仲裁?」
順平はニヤリと笑った。
「いや、せめて蓮の盾になってやるよ! ついでに観戦もな!」
蓮は苦笑した。
「……その善意はありがたいけど、お前が行ったら絶対に火に油を注ぐ。」
アリサは少し考え、真剣な表情になった。
「でも、倉田がわざわざ食事に誘うなんて、ただの世間話のはずがない。きっと何か企んでるよ。気をつけてね。」
蓮も、それは分かっていた。
倉田の“ゲーム”は、まだ始まったばかりだ。
今回、交渉の場で蓮が一歩引いたことが、倉田にとっては物足りなかったのかもしれない。
だが、もし彼が「蓮の苦境」を見たがっているのなら——見せてやればいい。
もう、あがくつもりはなかった。
これは倉田に対する償いであり、そして——真理奈に対する罪でもあった。
蓮にできることは、ただ一つ。
——流れに身を任せるだけ。
食事の席で、蓮と真理奈は黙々と料理をつつき、言葉を交わすこともなく、ただ倉田が仕掛けてくるのを静かに待っていた。
彼が求めるのは、二人がそれぞれの「役割」を演じること。しかし、今夜の倉田はいつもと違った。やたらと料理を褒めたり、「これ、美味しいな」などと何気ない感想を漏らしたりして、まるで親戚の集まりで世間話をする年長者のようだった。
蓮の警戒心が一気に高まる。
倉田がこういう態度を取るときは、決まって裏がある。
向かいに座る真理奈も、表面上は冷静さを保っていたが、僅かに眉をひそめている。ときおり愛想程度に相槌を打つものの、その視線は終始、警戒の色を帯びていた。
倉田は酒を飲みながら、懐かしそうに話し始めた。
「真理奈、お前が新人だった頃を覚えてるか? 何をするにも全力でさ、PPTのフォーマット一つで俺と半日くらい言い合ってたよな」
真理奈は苦笑を浮かべるだけだった。
蓮は、思わず新人時代の彼女を想像してしまい、それが自分にとって無意味なことだと気付き、すぐにその考えを振り払った。
これはただの食事会ではない。――"鸿门宴"だ。
倉田は蓮にも話を振る。
「蓮、お前はこの半年で変わったと思うか?」
ついに来たか。
蓮は内心身構えた。
今から本題に入るのか? 本社との軋轢、そして――蓮が果たした“役割”について……。
しかし、倉田はそれ以上踏み込まず、ただ酒を軽く回しながら、含み笑いを浮かべて言った。
「感情は弱点じゃない。感情があるからこそ、人は人でいられるんだ」
少し間を置き、さらりと付け加える。
「この酒もさ、放っておけば味が落ちる。飲み頃のうちに飲まなきゃ、最後は捨てるしかなくなる」
真理奈も蓮も、ただ黙っていた。
そこへ倉田のスマホが鳴った。彼は席を立ち、電話を取りながらそのまま戻ってこなかった。代わりに「急用ができた」とのメッセージだけが届いた。
唐突な展開に、蓮と真理奈は思わず顔を見合わせた。
さっきまでの倉田の態度、酒に濡れた瞳……まるでワニが涙を流すような違和感だった。
そして、そのワニはさっさと姿を消した。
沈黙を破ったのは、真理奈だった。
「……もしかして、倉田さん、本当に女の同僚に振られたのかもしれませんね」
蓮は思わず笑い、そして苦笑しながら首を振る。
「前にもそう言ってたよな」
「でも、今なら確信が持てます」
真理奈の声はいつも通り淡々としていた。
蓮は手元の茶を揺らしながら、彼女の言葉を噛み締める。
そこに漂うのは、かつての関係の残り香か、それとも一時的な停戦の空気か……。
今しかない。
蓮は意を決し、口を開いた。
「真理奈……ごめん。俺、ずっと隠してたことがあるんだ」
真理奈は静かに彼を見つめた。
「実は、俺……本社の人間だったんだ。あのときの俺の仕事は、倉田さんの不正の証拠を掴むことだった」
彼女は目を伏せたまま、しばらく沈黙していた。
そして、低い声で問いかける。
「……じゃあ、私と競い合ったあの昇進試験は……ただの茶番だったってことですか?」
蓮は答えられなかった。
「あなたは最初から結果を知っていたのに、私だけが馬鹿みたいに必死になっていたんですね」
彼女の声には怒りも非難もなかった。ただ、事実を並べているだけ。
だが、それがかえって胸を締め付ける。
蓮は深く息を吸い、目を逸らさずに言った。
「俺のせいだ。隠し続けたことも、君を一人で不公平な状況に置いたことも、全部俺が悪い」
真理奈は小さく冷笑する。
「“隠すべきじゃなかった”……たったそれだけ?」
蓮は目を閉じ、拳を握りしめた。
「わかってる、真理奈。俺はずっと——」
「何を?」
真理奈の声が鋭くなる。
「あなたって、誠実さが大事だってよく言ってましたよね?」
彼女の瞳が鋭く光る。
「それなのに、あなたが一番嘘をついてた」
「俺には……言えなかったんだ!」
蓮は声を上げた。
「当時の状況を考えれば、どうなるかなんて誰にもわからなかった。もし君に話していたら——」
「私に話していたら?」
真理奈は蓮の言葉を遮る。
「君の昇進が不自然になるとでも?」
彼女の視線が刺さるようだった。
「あなたが守りたかったのは何ですか? 私? それとも、自分のキャリア?」
蓮は、反論する言葉を持たなかった。
真理奈はゆっくりと息を吐くと、静かに言った。
「もういいです。これで終わりにしましょう」
「真理奈……」
「言わなくていいです」
彼女は鞄を手に取り、立ち上がる。
「蓮、あなたはきっと、私に理解してほしいんですよね?」
彼女は目を伏せ、薄く笑った。
「でも残念です。私はもう、昔の私じゃありませんから」
そう言って、彼女は振り返ることなく去っていった。
蓮は、何も言えなかった。
自分は賢いつもりでいた。
合理的な選択をしてきたつもりだった。
だが、結局のところ、愚かだったのは自分の方だったのかもしれない。
彼はゆっくりと椅子にもたれかかり、消えていく彼女の背中を見送った。
会社に戻る頃には、すっかり深夜になっていた。
蓮が夜食を買って帰ると、まだ残っていた同僚たちが興味津々にこちらを見てきた。
「どうだったんだよ、"鸿门宴" は?」
蓮は苦笑し、持ってきた夜食を机に置いた。
「……まずは飯食え。腹が減ってると、話もできないだろ?」
順平が一番に手を伸ばし、唐揚げをつまむと、口いっぱいに頬張りながらも不明瞭に言った。
「で、どうなった? 宿敵+元カノ、戦況報告をどうぞ?」
アリサはタピオカミルクティーを両手で持ち、ぱちくりと瞬きをする。
「真理奈さんに、ボロクソに怒鳴られたとか?」
蓮は深く息をつき、肩をすくめた。
「まあ……完全に終わったって感じかな」
一瞬、誰もが沈黙した。
アリサは少し躊躇しながら、小さな声で尋ねる。
「……それで、蓮は大丈夫?」
蓮はぐるりと周囲を見渡した。自分と共に戦ってきた仲間たちの顔を見つめ、ふと笑みをこぼす。
「平気だよ。本当に」
「いやいや、それじゃ説明になってない。どう終わったのか、聞かせてもらおうか」
順平は蓮をじっと見つめ、鋭い目で観察する。
「ふむ、顔色はいいし……圭介、まさか毒を盛られたりはしてないよな?」
蓮は苦笑しながら首を振った。
「そういや倉田さん、今日はいつもと違う怖さだったぞ。信じられないかもしれないけど、めっちゃ感傷的なこと言ってきたんだ」
順平はすぐさま興味を示し、誇張したように身震いした。
「倉田さんが感傷的……? やめろ、鳥肌が立つ。で、何て言ったんだ?」
蓮はため息をつき、倉田の口調を真似てゆっくりと言った。
「“感情を持つことは弱さじゃない。感情があるからこそ、人は完成される”」
オフィス内に一瞬、静寂が訪れる。そして――
「うげぇーーっ!」
順平は机に手をつき、嘔吐くふりをしながら苦悶の表情を浮かべる。
「マジで言ったのか、それ?! 聞き間違いじゃないよな?!」
アリサは吹き出しそうになり、危うくミルクティーをこぼしそうになる。
「その言葉、誰が言ってもそれなりに聞こえるけど、倉田さんが言うとギャグにしかならないね」
圭介は眼鏡を押し上げながら、冷静に分析した。
「その発言の意図は、君たちに和解しろということかな?」
蓮は両手を広げて肩をすくめる。
「さあな。言い捨ててさっさと帰っちゃったし」
再び沈黙が訪れる。順平は真剣な表情で頷き、厳かに言った。
「老獪な策士だな……さすが倉田さん」
他のメンバーも同時に口をそろえた。
「老獪な策士」
夜食の香ばしい香りがオフィスに広がり、彼らの賑やかな笑い声とともに、何もかもがそこまで悪くないと感じさせた。
アリサがふと、ぽつりと口にする。
「でもね……私、真理奈さんの言ったこと、違うと思うんだ」
アリサの言葉に、誰もが手を止めた。彼女は慎重に続ける。
「もし彼女が知ってたら……蓮が後から私を助けてくれたこと、それに……みんなのために会社を辞めて起業したこと……彼女も、蓮が今は本当に信用できる人間だって、分かったと思う」
アリサは途中から、声を詰まらせた。
「なんか、悲しいよ……だって、二人はまだ縁が切れてない気がするのに……」
蓮の胸に、一瞬だけ熱いものが込み上げた。彼女の気持ちが嬉しかった。だが――人生で一番残酷なのは、二度目のチャンスがないことだ。
だから彼は、わざと茶化してアリサをからかった。
「アリサ、もしかして……俺の代わりに真理奈と交渉するのが嫌になった?」
アリサは、その一瞬の沈痛な表情を察したのか、すぐに話を切り替えた。
「バレたか。そもそもそれ、私の仕事じゃないからね?」
蓮は降参するように手を上げた。
「分かった分かった、自分の問題は自分でやるよ」
順平がニヤリと笑う。
「おやおや、蓮がこんなにあっさり降参するとは」
アリサは腕を組み、満足げに頷く。
「そりゃそうよ。私はもう毎回巻き込まれるのはごめんだから」
皆が笑い、オフィスの空気が明るくなった。
蓮の胸の奥が、ほんのりと温かくなる。
どんなに大変でも――彼の仲間たちはここにいる。
これからの道は険しくても、彼は一人じゃない。
真理奈は、開発の進捗を追うためにMETへ足を運ぶことがあった。
技術者たちと仕様について議論していると、時々蓮が通りかかることがあった。
最初は純粋に仕事の話だけだったが、いつしか、気まずさと抑制に満ちた会話の中にも、昔のような軽口や息の合ったやりとりが戻っていた。
ある日、打ち合わせ後の雑談で、真理奈がふと口を開いた。
「ここの給湯室のコーヒーメーカー、どうなってるの? 毎回来ても飲めた試しがないんだけど」
蓮は肩をすくめる。
「管理会社が適当だからな。いつも補充を忘れてるんだ。悪い、次は俺が用意しとくよ」
“コーヒー豆”――その単語が、ぽつりと真理奈の心に落ちる。
彼女はすぐさま頭を振った。
過去の記憶なんて、掘り返しても仕方ない。
「いや、いいわ。借りを作りたくないから」
だが、翌日――蓮は真理奈と技術者全員にコーヒーを買ってきた。
彼が紙コップを手渡した瞬間、指先がほんのわずかに触れ合った。
その微かな接触が、二人の距離を最も近づけた瞬間だった。
真理奈は眉をひそめ、蓮は何も言わずに離れた。
彼が去った先で、アリサが肘をつき、じっと彼を見ていた。
「アリサ? 目、疲れてる?」
アリサは首を振り、一語ずつゆっくりと言った。
「これ、完全に『元カノ未練モード』じゃん」
蓮は即座に否定する。
「違うから!」
順平がコーヒーを手に取り、哀れむような視線を送る。
「……お前、毎日、元カノの後を追っかけ回してるじゃん」
「してねぇよ!!」
蓮は顔を背け、強引に話題を変えた。
「そういやさ、コーヒーメーカー、やっぱり管理会社と話し合わないとダメだな!」
そう言うと、そそくさと去っていく。
残された三人は、無言で目を合わせた。
圭介までもがぼそりと漏らす。
「……俺たち、普段は紅茶派なんだけどな」




