幕間にて
私は高校の制服に着替えて、二階から降りた。
「おはよう」
そんなお決まりの挨拶は重さを持たない。空気よりも軽く、どこかへ飛んでいってしまう。
「おはよう」
「おはよう」
聞こえたって心に何も残らないのだ。
そんな言葉に何の意味を持たせる事が出来るだろう。
私は朝食の準備をしつつ、居間のドアを閉めた。直後に「行ってきます」という声が二人分聞こえる。
ドアを通すと声がくぐもって、声量も二分の一以下に落ちる。
鼓膜にノイキャンはないから、ドアにはいつも助かっている。
両親は朝食を食べない。
いつも食べる時は一人だ。これで良い。逆に何人かで食事するのは耐え難い。
それに、しょっちゅうピーピー鳴らしちゃあ、耳障りだろうし。
私は朝食を食べ終わり、学校に行く準備を済ませると、いつも通り出勤するために、呪文を唱える。
『私の闇よ、、私に纏え』
その呪文を唱えた瞬間、胸の内から何が沸き上がる感覚と共に、黒いものが自分の身体を覆い尽くすのが見て取れた。
あっという間に、私の身体は高校の制服姿から、黒い手袋に、黒いブーツ、第二次世界大戦の軍隊の指揮官が着ていそうな厚手のコートについているフードを被り、そこから垂れる黒子のような薄い布。
私は今、完全に人であって人でなくなった。
変身の呪文で、今、私は人ならざる人、怪人となったのだ。
変身が完了すると私は手慣れた動作で、手のひらを広げて前に出し、ゲートを開く。
黒い台風みたいにぐるぐると回っているようで、黒煙が蠢いているような感じのゲートは、こちら、すなわち、現し世と向こうを繋ぐ唯一の道。
私は高校のバックを背負うと、ゲートの中に足を踏み入れた。
ブーツに地面の感触が伝わってくる。
ゲートの先は見渡す限りの黒、黒、黒。
踏み締める度に、じゃり、じゃり、と雑音を耳に放る黒い土。見渡す限り、空の色は黒く染まり、雲の一つも漂う事は無い。
色の濃淡はあるものの、視界に映るもの全てが黒色で構成されている。
それでも、目の錯覚なんかを起こして、道を間違えたり、迷ったりしないのは、ここに道なんて言うものは無いからだ。
ここは異界。吐き出された行き場の無い感情が、溜まり燻るだけの“場所”。
あるのは無残な残骸と思しきものだけだ。
元はホテルか、大聖堂だったのかと思われる、瓦礫の上に鎮座する大きなドーム型の屋根。倒れた鉄塔、崩れたレンガの塔、高層ビルだったもの達の表面が溶け、地に帰る最中のもの。何かの残骸らしきブロック塀の欠片か、その一部かといったものや、ガラス片が一帯に大量にばらまかれている場所もある。
模様も、色彩も無い。ただ黒いだけ。
そんなものが無秩序に、バラバラに、都市の体を為す事無く、大地に放置されている。
これらのものを人の夢の残骸という人も居れば、この世のものがあちこちから流れ着いたのだと言うものも居る。
どれが正しいかは分からない。
そんな残骸の中を私は進む。
行くべき場所は分かっている。自分の為すべき事も。そして、何に従えば良いのかも。
何棟目かの倒れたビルを横目に、瓦礫の山を二山ほど超えて、私はその場所に辿り着いた。
「おはよう、ツググ君」
長く、黒いテーブル。その後ろにある黒い重厚感のある椅子に、その人物は居た。
「おはようございます、シササカ参謀長閣下」
私はぴしりと両足をそろえると、敬意を胸に、肘を曲げ、伸ばした手の先を額に持っていく。
目の前の人物も立ち上がって、私に敬礼をした。
「こういう堅苦しいのは嫌なんだがね」
黒のシルクハットを被り、燕尾服を着た老練な怪人幹部は、そう言いつつ、脇にある椅子に座るよう、促してきた。
シササカ参謀長。我らがグランド・フィナーレ団東アジア方面兵団参謀長を務めていて、これまで多くの作戦計画を立案、実行し、成功を収めてきた名参謀の一人である。
「失礼致します」
私がそう言ってから、椅子に座るのを見やったシササカ参謀長は、顔に着けた仮面越しにこちらをじっと凝視してくる。
「な、何か…?」
「いや」
私が問いただすと、シササカ参謀長は何でも無い事のようにさらりと流してしまった。
どうしたと言うのだろう。私は人の視線などに敏感な方ではない。そのため、その目線が何を意味するのか、何を訴えかけているのかは全く分からない。
しかも、シササカ参謀長は顔に仮面を着けている。これでは、尚更、表情一つ動いた事すら、悟る事は出来ない。
知る事も出来ない上に、知る必要もなさそうだ。私はその様に判断した。
こちらの心中などはシササカ参謀長にとっては取るに足らぬ事のはず。そんなものを抱えていては、シササカ参謀長からのお話があると言うのに、集中できずに、満足に聞けない結果に終わってしまう。それだけは避けなければならない。
きっと、シササカ参謀長閣下もほんのお戯れのつもりだったのだろう。忘れてしまおう。
「ツググ君、いや、ツググ参謀中佐。君に辞令が下りた」
「はっ」
シササカ参謀長は、私に正式な階級を付けて呼び直した。
「とは言っても、書類一つ無いんだがね」
「致し方の無い事です。それに、無い方が機密保持に繋がります」
何とも言い難い、負の感情で満ちたこの“場所”は、何かを生み出すにはあまりにも不毛であった。
何しろ、ここにある色の数は少ない。ほとんど、色素が無いのだ。
あるとすれば、それは人の夢が終わったような、灰色。朽ち、剥がれ落ちる年季の入ったコンクリートの色。そして、頭上を覆う、絶望に染まった闇の色である黒だけだ。
赤、青、黄色などは元より、オレンジ、ピンクといったものも無い。そんな快活さの頂点を占めるような色は、この“場所”に含まれはしないのだ。
だが、ここにあるのは一度、何かに染まったものだけだ。
かつては活気と共に、色素に身に纏まとっていたもの達が色を失い、最後に辿り着き、果てる“場所”。それがここなのだ。
もちろん、例によって白も無い。染まる前の純真さなど、ここには無い。
よって、何を書き記すためのインクも無い。ペンも無い。
そのため、命令は基本口頭で伝えられる。例えそれが、どんなに重要かつ、即座に処置を下さなければならないものであっても、口頭である。
それ以外は、物理的に不可能なのだ。
「機密ねぇ……我々しか入れないと言うのに、そんなものを気にする必要は無いと思うが」
「いえ、諜報員が入り込んでいる可能性もあります。構えは万全を期すべきです」
私は何の淀みも無く答えた。人間の心というもの程、移ろい易く、変貌を遂げ易いものは無い。
いつ、誰が、何の目的で裏切るかは分からない。そして、拘束し、拷問にかける事になるかは分からないのだ。
顔では笑みを浮かべていても、腹の中に何を抱えているか、知る術はない。ならば、最初から疑い、決して信用しない事が良策だ。
自分以外は全て敵。いつ、蹴落とされ、陥れられるかも分からない。常に気を配り、迫りくる魔手にも、這いよる毒牙にもかからないようにせねばならない。
私はいつでも、そう思っている。
騙される方が悪い。そう言われてしまうような状況になった時には、全てが遅いのだ。
「真面目だねぇ」
「恐縮です」
「そんな君に、総司令部から直々のお達しだ」
総司令部。グランドフィナーレ団の活動から、構成員一人一人の管理まで行う総本山。実績のある優秀な参謀が集い、日々、世界の終焉のために数多の作戦計画を練っている。
そして、何より、総司令部には総帥閣下がおられるのだ。
我らの希望足る総帥閣下。あのお方が居なければ、今の我々はおろか、世界の終焉など望むべくも無かっただろう。
そんな誉れ高い総司令部が、私に直々に命令を?
「伝えるぞ。聞き逃すなよ」
「はっ」
「ツググ参謀中佐、貴官を新造部隊【デイリーアイフィールドハート連隊】副連隊司令官兼作戦参謀に命ずる」
素晴らしい、栄転だ。いや、まだそうと決まって訳ではない。
私は逸る心を落ち着かせた。だが、鼓膜に触れた“歓喜の言葉”を、脳細胞は海馬に深く刻んだ事だろう。
やった。もう、ちんけな後方勤務とはおさらばだ。
「はっ!拝命します」
「以上だ。そうれじゃあ、東アジア戦線は任せたよ」
「はい?」
席を立ち、机の縁に立てかけてあった傘を取って去ろうとするシササカ参謀長は困惑の表情を浮かべた————厳密にはこちらも顔を隠しているので、どんな顔をしていても、分からないが————私に言った。
「私は今日で総司令部に転属だ。もちろん、他の幕僚達もね。後は頼んだよ、ツググ君」