第三話 立入禁止に入るだけの簡単な交渉・2
オレは言葉を失った。
ここは不安に思うべきだ。リオを引き留めるべきだ。
相手は銃を手にしている。交渉が失敗したとき、何が起こるかわからない。
オレはニイサンとして、オトウトを護る責任がある。リオは交渉の矢面に立ちたがっているが、力でねじ伏せてでも、自分の後ろに引き下げ、黙らせるべきだ。
それは頭でわかっている。だけど――。
「……」
時間切れだ。これ以上、日本語で話を続けるのはリスクが高い。
オレは祈る気持ちで、上着の胸元を掴んだ。
「……わかった。君の命令に、従う」
オレは半歩下がり――リオに道を譲った。
その瞬間、オレにとっては小さな大先輩、薄刃門リオが仕事を始めた。
「……僕たちは消息を手に入れたとき、ご遺体の状況や、亡くなった経緯も、なるべく細かく調べてきたの。けど、遺族の方にとって、つらくて知りたくない話があるかもしれない。だからよく話し合って、受け取るか、拒否するか、慎重に選んでほしいんだ」
リオは大きな瞳を相手に向け、真摯に、静かに、話を続けている。
「遺族の方には、知る権利もあるし、知らないでおく権利もある。けど、知ったあとから後悔しても……知る前には、絶対戻れない。僕が持ってるのは、判断が難しい荷物ばっかりなんだ。だから申し訳ないけど、素人さんにはお任せできないよ」
それに対して、女性兵士はすっかり落ち着きを取り戻し、厳しい態度で跳ね除けている。
「それは消息を回収したのち、こちらが適切に判断する。貴様らの預かる領分ではない!」
「駄目だよ。それっぽいこと言って、頼もしく見せようとしたって駄目だよ」
「もういい、グズグズするな! これ以上、遅延行為を働くならーー」
「だってお姉さん、どうやって正しく判断するの? 誰かに消息を届けたこと、ないんでしょ?」
「それは……」女性兵士は、少し言葉に詰まった。「私以外の、適切な者が判断する!」
「駄目だよ」
リオは、一言で切り捨てた。
「お姉さんの後ろにそれっぽい人がいるように見せちゃ駄目だよ。この街の行政執行部に、専門の部署があるかもしれないけど……せいぜい数十件とか、数百件しか渡したことない人でしょ?」
「……」
「あっ、その感じだと……そもそも専門の部署なんて、この街にはないんだね」
「い……いや……近々……適切な、部署を……」
女性兵士が口ごもっていると、リオはキッと厳しい目を向けた。
「ねえ、ご遺族の気持ちも、ちゃんと考えてよ。もし届けるべきなら、今すぐ届けてあげなきゃ駄目だよ。遺族の方は、今か今かとずっと帰ってくる日を待ってるんだよ? けど、もし届けるべきじゃない知らせが混じってたら……この先、一生、悔やんでも悔やみきれない毒を盛ることになるんだよ」
「だ、黙れ! これ以上部外者が、この街の方針に口出しするな! そこを含めて、こちらで適切に判断すると言っているのだ!」
「駄目だよ。この街の規則だからって、亡くなった方の消息を、好き勝手に扱っていい理由にならないよ。ご遺族の苦しみを考えもしないで、事務的にお届けしていい理由にならないよ。お姉さんの言ってる適切って……すごく他人任せで、信じらんないよ」
女性兵士は、少しずつリオに押し負けているように見える。
リオはまだ十五歳にも満たない消息代理人だが、静かな声で言い聞かせている。
「僕だって、こう見えてプロだよ? この業界に入って五年目だ。三人のニイサンの下働きで、四年経験を積んで、独り立ちしてそろそろ一年……僕が手に入れた消息って、素人が勝手にお届けするのが一番怖いって、いつも肌で感じてるんだ。けど、お姉さんはそんなことも知らないんだから……やっぱり素人判断が、一番怖いよ」
それに対して、女性兵士は負けじと片眉を吊りあげた。
「なら……具体的にどのような情報を届けると言うのだ。一部でいい、開示しろ!」
リオはその強要を受けて、白いダウンジャケットの懐から、手帳を取りだした。
それは、リオにとって、一番大事な仕事道具だ。
これまで発見した消息をすべて記録し、ページにドッグタグを貼り付け、すっかり膨らんでいる、手帳型の地図帳だ。
リオはその手帳から、とあるページを開いた。
女性兵士はそれを差し出され、ようやくアサルト・ライフルを取り下げた。手帳を引ったくり、疑いの目で、メモをジロジロと読んでいる。
ただ、目線が動き、行を追い、読み進めるうちに……次第に顔は、青ざめていった。
「……ロ、ジ……オン……?」
女性兵士は、メモを最後まで読み終えた。
だが、何かの間違いだと言いたげに、何度も何度も読み返している。
その挙げ句、何かに気づき、短く悲鳴をあげ、慌てて手帳を閉じた。
「か……彼は……ほ……本当、に……?」
「うん」
「……」
女性兵士は、かなりショックを受けた様子で、少し足元がふらついている。
だが、手帳を返すなり、急に自分の仕事を思い出したか、キッと鋭い目を上げた。
「こ、これは……絶対! 遺族に見せるべきではない! 今すぐ廃棄を――」
「だから、それが素人考えなんだよ!」
リオはピシャリと、平手打ちのような厳しい言葉で諌めた。
女性兵士は、それに気圧され、口をつぐんだ。
「……遺族の方には、色んな考えの人がいるの。『どんなつらい話でも構わない。覚悟はしてる。大事な家族が、どんな最期を迎えたのか、少しでも知りたい』って考える人もいるんだ」
「し、しかし……」
「だからこそ、僕たち消息代理人がいるんだよ。こういった知らせって、とてもじゃないけど、捨てるのも渡すのも、勝手に決めつけるのは――」
「でっ……デッチ上げだッ!」
女性兵士は、急に矛盾したことを叫び始めた。
「違う、その消息は……に、偽物だッ! だって……あいつは死ぬような奴じゃない!」
すると、となりで事態を見守っていた教官が、困り顔で止めに入った。
「ゾーヤ……」
「教官だって! あ、あいつが死ぬはずないって、わかるはずです! 本当、憎たらしいくらい、悪運ばっかり強いくせに……そんな……死ぬはずない、死ぬはずない!」
そのとき再び――雪原に、風がそよいだ。
「ねえ、ゾーヤ・エフレモヴァさんで……お間違え、ありませんね?」
真っ白な消息代理人が、冷たい声で、訊いている。
「お姉さんは、素人判断が怖くないんだよね。なら、もちろんこのお荷物……受け取る覚悟が、あるよね?」
女性兵士は、恐る恐る、うなずいた。
するとリオは、たった一言でーーその荷物を届け終えた。
それは、誰かの名前だった。
ありふれた名前。よくある名前。この地域ではありがちな、珍しくもない名前だった。
だが、女性兵士は、それを聞き、
何かを察し、何かを諦め、
力なく――膝から崩れ落ちた。
「ち、違う……そんなはずない、お前が知ってるはずない!」
座り込んでいる女性兵士に対して、リオは冷ややかな声で、つきつけた。
「心より、お悔やみ申し上げます」
「違うっ、違う違う違う!」
「ロジオン・マルコフ氏の遺品の中から、誕生日の刻まれていない、不可解なドッグタグを、二枚、回収しました」
「嘘だッ! 全部、全部全部全部、お前がデッチ上げた偽造品だッ!」
涙声で叫ぶゾーヤは、心細げに、アサルト・ライフルにしがみついている。
「あ、あいつは、絶対、帰ってくる……! 今に、泣きべそかいて、帰ってくる! 『俺が悪かった。どうか許してくれ』って、み、みっともなく言いだすに、決まってる……! でも、絶対、許すもんか! いまさら私に、あっ、謝りにきたって……!」
肩を震わせ、しゃくりあげるたびに、熱い涙が、次々と、雪の上に落ちていく。
「あっ、あいつのせいで……! あの子は、生まれる前に、死んだんだ! ろ、ロジオンが、いつも私に、お、怒らせること、ばっかり……! だから、あ、あの子、は……!」
そのときーー女性兵士は、急に顔を上げた。
ポニーテールが大きくしなり、髪を結っていた紐が、ほどけた。
艶やかな髪が、風に乗り、大きく広がり――彼女は月に向かって、吼えた。
「かっ……帰ってきなさいよ! なんで帰って、こないのよ、ば、馬鹿野郎!」
ゾーヤ・エフレモヴァは、しばらく声を上げて、泣きじゃくった。
あれだけ怖くないと言った荷物を、たった一言受け取っただけで、彼女はゲンジツを知ってしまった。
彼女がゲンソウから目醒めたときーーそこに、ロジオンの姿は、なかった。
***
ゾーヤ・エフレモヴァの元には、リオの手で、一通の手紙が届いていた。
彼女の婚約者、ロジオン・マルコフの遺体から発見された手紙だった。
ゾーヤは、その手紙の受け取りを――涙ながらに、拒否した。
「けどね、このお手紙だけは……ゾーヤさんに、絶対、必要なお届け物だって思うんだ……」
リオはゾーヤの前にしゃがむとーー彼女に、手紙を握らせた。
ボロボロに傷んだ便箋だ。
ただ、手紙の封は、すでに切られている。
ゾーヤは、怯えた顔をして、後ずさりを始めた。
だが、リオはそれを逃すまいと、しっかりと手を握っている。
「大丈夫だよ。ロジオンさんはあのこと、気にしてなかったよ。ゾーヤさんが別れ際に『二度と帰ってくるな、全部お前のせいだ』って言ったの、ちっとも気にしてなかったって。むしろロジオンさん、あれ言われて、俄然帰る気満々になったんだって! それで、街に帰ったら、真っ先にゾーヤさんに会って、『二度と帰ってくるなって言ったじゃん、この大馬鹿野郎!』って、散々怒ってもいいぜって、書いてあったんだ」
リオは柔らかく微笑みながら、優しく語り聞かせている。
「……『ゾーヤ、全部、俺のせいだったことにしていいんだ。全部、俺が悪かったことにしていいんだ。だからもう一度、お前と一緒になりたい』って……お手紙に、書かれてたよ」
ゾーヤはそれを聞いて、大粒の涙を、ひとつこぼした。
「……ばっ……馬鹿っ……あの馬鹿っ!」
彼女が苦しげにうつむいたとき、額から髪が、はらりと流れた。
「……ゾーヤさん、もう、自分に怒らなくても、いいんだよ」
リオからその言葉が出て、彼女はハッと顔を上げた。
「だってゾーヤさん……本当は、誰のせいでもなかったんでしょ? お医者さんも、そう言ってたんでしょ。あの子が生まれる前に亡くなったのは、誰のせいでもないよって」
真っ白な消息代理人は、そう言って目を閉じて笑っている。
「大丈夫だよ」
リオは髪だけでなく、眉もまつ毛も真っ白だから、目を閉じて笑うと、まるで白飛びした写真のようだ。表情がわかりにくく、何を考えているのか、まるで読めない笑顔だ。
「勇気が出たら、このお手紙を開いてね。途中で破ったり、燃やしちゃ駄目だよ?」
そう言ってリオは立ち上がりーー松葉杖の教官との交渉に戻った。
去るときは、あっさりしたものだ。
消息代理人に、守秘義務は存在しない。郵便配達員とは、似て非なる職業だ。
手紙を開けるのも、捨てるのも、脅迫に使うのも自由だ。
人を励まし、勇気づけ、知らせを受け取る背中を押すのも――。