第三話 立入禁止に入るだけの簡単な交渉・1
あの二人のココロにゲンソウを植えつけ、信頼を騙し取るしかない。
人間としては使い物にならなくなるだろうが、それはそれで仕方ない。
「米沢ニイサーン、ちょっと待ってー! 雪に足が埋もっちゃって、抜けないのーっ!」
呼び止められて、振り向くとーーあの子は雪まみれになりながら、ジタバタともがいている。
丘のだいぶ後ろに取り残され、焦っているようだ。
「リオ、ゆっくりでいい……」
置いて行くわけがない。
「オレは先に、トッカーテルンがまだ壊滅してないか、それだけ確かめてくる」
「えーん! 待ってってばあーっ!」
「平気だ、すぐ戻る。……おいベッケンバウアー、リオに手を貸してくれないか?」
そう求めてみたがーーリオの近くにいるベッケンバウアーは、皮肉っぽく肩をすくめているだけだ。
「フフっ、米沢くん……なぁんの嫌味かは知らないがぁ、片腕の私には、少々荷が重いねぇ」
「……はいはい、どうせそう来ると思った。……リオ、すまない、すぐ手伝うから、待っててくれ」
オレはそう言い残し、湿った雪を踏みしめ、急いで丘を駆け登った。
焦りたくもなる。
夜にしては、静かすぎる。
街はもう目の前にあるはずだ。なのに、街の喧騒が聞こえてこない。
いくら雪が音を吸うとはいっても、小高い丘をひとつ隔てているとはいってもーー街人の笑い声が、誰かが聞き流しているラジオの雑音が、人が生活しているにぎわいが、何も聞こえてこない。
まさか。
まさかとは思うが。
まさか前の街と同じように、あの街もーー。
「ねえニイサーン! 米沢ニイサーン! どうだったー!?」
ようやく、丘の頂上に着いた。
弾む息をこらえ、顔を上げるとーー眩しい月に照らされた雪原の向こうに、目的地が見える。
オレはーー返す言葉に詰まった。
「リオ……あの噂は間違いだった! トッカーテルンは、今も健在だ!」
よかった。あそこに見えるのは、廃墟じゃない。窓という窓に、今も人が暮らしている明かりが灯っている。
オレたちは十七日ぶりに、生きた人間がいる『街』にたどり着いたんだ。
それにしても立派な街だ。あのフェンスの中には、明かりの数だけ人間が暮らしている。きっと百人以上が無事でいるはずだ。
感慨深く街明かりを眺めているとーー街の方から、女性の絶叫が聞こえてきた。
「ロジオン……? ロジオン! 帰ってきたのね!?」
ロジオン? いや、誰だ?
オレの名は『米沢』だがーー見ればフェンスを巡回していた女性兵士が、迷彩服のフードを脱ぎ、こちらに駆け寄ってくる。
「あの、ちがっ――」
世界が一瞬ーーゆっくりと流れるように見えた。
ひたむきな笑顔が、こちらを見上げている。
キラキラと輝く眼差しには、まるで初恋の人を見つけたような、あどけない恋心がありありと見て取れる。
彼女はそのまま勢いよく抱きついてきたから、オレは後ろに転ばないよう、強く踏ん張った。
「ロジオン、よかった……おかえり、おかえりっ!」
「……」
人違いだとは、とても言いだしづらい雰囲気だ。
だが、こればっかりは、オレにも非がある。自分の顔をマフラーで半分隠していたせいで、誤解を招いてしまったんだろう。
マフラーを下げると、この女性からは、本当に嬉しそうな匂いがする。
人は、嬉しいときは嬉しそうな匂いがして、悲しいときは悲しそうな匂いがするものだ。
オレはヘレン型のリビングデッドだ。人間の匂いから、気分や感情が正確にわかる。この人にゲンジツを告げるのが気の毒になるほど、心から喜んでくれているようだ。
ただ、彼女はオレの顔を見上げるなり――ギクリと硬直した。
「……し、失敬……」
女性兵士は咳払いすると、二、三歩後ずさり、急に冷たい目で睨みあげてきた。
「私は、この街の入街審査官だ。君たち、この街に何の用だ!」
そのとき街の門前から、しゃがれた声が飛んできた。
「ゾーヤ、いーけんいけん! お前さんが出鼻に絡むと、まーた面倒臭いことになるけぇ、今すぐやめんしゃい!」
詰所からガタゴトと物音がするなり、迷彩服を着ている初老の男性が、松葉杖をついて出てきた。
男性は右脚が欠損している。あの年代の方だと、過去にリビングデッドの掃討作戦に関わった軍人なのかもしれない。
そのとき女性兵士が、振り向きざまに鋭い声をあげた。
「しかし教官! 彼らは明らかに、商人登録にない旅人であります! こうしたケースの対応ならば、十分に勉強しております。ぜひ私に担当させてください。不審なよそ者に対しては――」
「こーれ馬鹿たれっ! 0点じゃい! わしが講義で教えちょったこと、そのまま復唱する奴がおるかぁー! ええから、はようこっち戻ってきんさい!」
女性兵士はハッと赤面すると、気まずそうにうつむきながら、黙って丘を駆け下りていく。
そのときオレの後ろから、雪を踏みしめる音がサクサクと聞こえてきた。
ベッケンバウアーが遅れて現れるなり、偉そうに何かのたまっている。
「おやぁ? あの街はどうにも、かつての軍事拠点を改築したものだねぇ」
言われてみれば、確かにあの街は過去に軍事目的で使われていたのかもしれない。
五メートル以上あるフェンスには、「関係者以外、立入厳禁」の看板がいくつも設置されている。つまり、リビングデッドが世界を蹂躙する以前から、人間の立ち入りが禁止されたエリアだったわけだ。
軍事拠点の街か……これまで訪れた街の中でも、ここは一際安全そうだな。
「リオ……君も見てみろ。トッカーテルンに着いたぞ」
嬉しさ余って、つい振り向いた。
だがリオは、まだずいぶん後ろに取り残されている。雪に埋まったままモゾモゾと動いて、ひとりで困っていた。
「えーん! ニイサン、ネエサンのばかー! 置いてかないでって言ったじゃーん!」
しまった。人間は疲労が溜まると動きが鈍くなることを、すっかり忘れていた。
オレは慌てて雪道を戻り、リオを引き上げてくるのを手伝うことにした。
***
オレたち三人が門前にたどり着くと、詰所から松葉杖の教官が出てきて、気さくな笑顔で出迎えてくれた。
「いやぁー、あいすいませんねぇ旅の方々。あっこの姉さん、まーだ見習いみたいなもんでのーう。大袈裟なこと言うちょりましたが、気ぃ悪くせんといてつかぁさい」
軍人らしからぬ低い物腰で敬礼されたのは、初めてだ。
松葉杖の教官は、柔らかい笑顔で目を細めると、後ろに控えている女性兵士を顎でしゃくっている。
「なぁに、あの若造は、わしがあとでたーっぷりしごいたりますわぁー。久々に、鬼教官と呼ばれた頃の血がうずくってもんじゃー、あっはっはっは!」
「いえ、お気になさらず……」
オレは愛想笑いを示しながら、彼の胸元に目をやった。
階級章の数々を見るに、相当影響力のある人物だ。だが、そういったトップの人間が、街の玄関口で入街審査官をやっているのは珍しいな。
オレはマフラーを下げ、なるべく何気なく握手を求めた。
「どうも、お会いできて光栄です……米沢といいます……」
「いやぁー、どうもどうも! わしはオーウェン・ジェブロフスキーじゃ。ここでのーんびり入街審査官をやっちょる、隠居ジジイみたいなもんでのーう」
隠居ジジイ……その自己紹介は、卑下でありながら湿っぽさはどこにもなく、陸風のようにさっぱりした好ましさを感じる。街の重鎮でありながら、その気質を失わない人間は、珍しいな。
恐らく、現場の方が性に合っているなどと言って、階級章の数に見合う奥まったひな壇を好まない方なんだろう。
少し気を引き締めてかかるべき相手だ。決して失礼を働かないように――。
「ほいでー……兄さんの後ろに隠れちょる、真っ白髪のお嬢ちゃんは?」
「ああ、この子ですか……」
オレはとっさに、リオが前に出ないよう、自分の後ろに隠した。
リオが口を挟むと、厄介なことになりそうだ。あの教官に馴れ馴れしく握手を求めたり、関係のない冗談をふっかけたり、妙なことでからかい始めたら最悪だ。
「この子は、薄刃門リオ、オレのイモウトです。向こうの奴は、ナンシー・ベッケンバウアー。一応あれでも研究者みたいなものでして……」
「ほほぉー! そりゃーますます『いなげ』じゃなぁー」
「いなげ……?」
「あぁ、わしらの訛り言葉で『ちぃと不思議じゃなー』ってだけのことじゃー」
「はあ……そうでしたか……」
果たして本当にそうだろうか。
「ほいじゃあ、まぁー、形式上の質疑ってやつなんじゃがぁー……」
教官は、なぜか慎重に言葉を選んでいる。
「あんた方……何の用でお越しんさったか、聞かしてもろうてもええかのう?」
「ああ、旅の目的ですか……」
少し……嫌な感触だな。
まだ正式な入街審査は始まっていないはずだ。このタイミングでその質問が出てくるのは、あまりいい傾向じゃない。
「ま、オレたちは旅人としてーー」
「あっはっは! 兄さん、兄さん! わしが訊いとるんは、仕事の方じゃー!」
教官は気さくにオレの肩を叩きながら、話の逃げ道を、きっちり塞いできた。
「なーんせ兄さん方、商人にしちゃー荷物がほとんどありゃせんし、ソリも犬も連れちょらん。車も列車も持っちょらんとくると……どうにもあんた方、ちぃと『不気味』じゃなーって……普段、何のお仕事されちょるんで?」
オレは思わず……苦笑いした。
こんな早い段階で職業を明かすのは、なるべく避けたいところだ。まだオレたちは、この人物から何も信頼を得られていないはずだ。
だが、正直に打ち明けるなら、オレたちの仕事は……消息代理人だ。
業界的に、クズとごうつくばりの集まりなのは事実だ。
しかし、オレたちは同業者ではあっても、奴らの同類ではない。
ここは少しでも信頼を得られるよう、誠実な態度で打ち明けるしかない。
「オレたちは……消息代理人の一行です。この街にお住まいの遺族の方に、何件か消息をお届けに来ました。数日ほど、街に滞在する許可を頂きたいんですが……」
ただ、肩書を明かした瞬間――教官の親しげな笑顔が、サァっと引いた。
オレは、冷や汗を感じた。
「あの……消息代理人とは言っても、決して法外な報酬は、請求いたしません。はは、ご覧の通り、しがない徒歩旅の身ですから……」
「……ゾーヤ、早うせい」
教官は部下に目配せしている。
それでもこちらとしては、努めて笑顔を見せるしかない。
「あの……他の業者がどうか知りませんが、少なくともオレたちは――」
「ゾーヤ! 早くしろ!」
教官が一喝した。
すると女性兵士は、慌ててアサルト・ライフルを構え、安全装置を外している。
「は、はい教官! この街において、消息代理人の営業行為は、全面的に禁止であります!」
女性兵士はこちらに銃口を向け、引金に指を、ぴたりと添えた。
その銃口を見た瞬間――全身の細胞が、ざわめくのを感じた。
「あの……この子に、銃を向けないでください」
「動くな! こちらも自衛のため、消息代理人との交渉中は、厳重に警戒することが義務づけられている」
「銃を、おろしてください」
「問答無用! いいから、すべての消息を洗いざらい提出しろ! 今すぐだ!」
うぞうぞと、怒りとも憤りともつかない感情がこみ上げてくる。
その感情が脳に浸透するほど、頭の芯が、真っ白に痺れていく。
この子に銃を向けている。この子に殺意を向けている。
ならばこの子が殺される前に――あの人間は殺していい。
「……はは……」
つい――笑ってしまった。
殺していい人間を、久々に見つけた。
オレは、もう我慢しなくていいんだ。
アドレナリンがドクドク出てくる。興奮するなと言われる方が難しい。今までリオがいる手前、大人しくしていたが――オレにだって、押し殺していた欲がある。
グツグツと煮え滾っていた渇望を、つのりつのった欲求不満を、ここならすべて、すべてぶちまけて――あいつらを好きなだけ、嬲り殺しにしていい。
オレは、そのために生みだされた変異種だ。
ココロを殺し、操り人形に作り変え、人間社会を支配することくらいしか、得意がない。
オレに与えられた能力なんて――たかだか、人のココロを操る程度だ。
「……ははは……あっははははははははははははははは!」
「な、何だ、貴様。何がおかしい!」
「ふふっ……いえ、こんなこと、わざわざお二人に指摘するのも妙な話ですけど……ふふふ……ふふふふふふふふっ……」
人間にとって不愉快な周波数で笑い声をたっぷり聞かせると、あの二人の感情の匂いは、少しずつ変化していく。
何を笑われているのか、わからないんだろう。なぜ不快な思いを強いられているのか、理解できないんだろう。
そうだ、それこそが狙いだ。
この声を聞かせれば、人間の思考は、少しずつ混乱をきたしていく。
オレは頃合いを見て――忍び笑いをやめた。
「あの……お二人は……見てわかりませんか?」
「な、何を言って――」
「見てわかりませんか?」
オレは笑顔を作ったまま、歩み寄り――女性兵士の目を、じいっと覗き込んだ。
「見てわかりませんか?」
ゆっくりと、毒をよく浸透させるため、丁寧に言い聞かせた。
低く、脳を揺らす声を使っただけで――彼女は、眼球の動きが、ブレた。
「わ……からない……」
あっけないものだ。我慢せずに能力を使えば、こんなにも簡単に、人間の抵抗力は、判断力は、弱っていく。
さあ、ジワジワといたぶろう。オレの声で、脳を揺さぶり続ければ――。
「駄目だよ」
そのとき、オレの後ろに隠れていたリオが、前に踏み出した。
「いや……君は出ないでくれ。ここはオレが……」
「お願い、米沢ニイサン。ここは僕に任せて」
リオが日本語で話しかけてきた。向こうに話を聞かれたくないとき、この子が決まってすることだ。
だが、ここは断固として反対すべきだ。
「また君はそうやって……頼むから、君はもう少し周りを見てくれ!」
オレもまた、日本語で苦言を呈した。
だが、あまりコソコソと、内緒話を続けるべきじゃない。あと少しで人間を仕留め切れるというのに、向こうの判断力が、回復してしまう。
「リオ、君だって見ればわかるだろう。あの二人は、もう正攻法じゃ、絶対に説得できない。君くらいの年ごろなら『正直に言えば何でもわかってもらえる』って勘違いして――」
「けど殺しちゃ駄目だよ」
有無を言わせぬ鋭さで、バッサリと言い当てられた。
「……リオ……何言って――」
「ねえ、米沢ニイサン、もう少しお勉強しよっか。僕たち、何もやましいことしてないのに、やましいこと始めちゃ駄目だよ」
「それは、当然……」
「わかってるけど、わかってないでしょ」
それには……正直、返す言葉もない。
「ニイサン、この商売、信頼がすべてだよ。初対面の相手だけど、僕たちはちゃんと信頼できる人なんだって、すぐわかってもらわなきゃ……相手に嘘つかなくてもそれくらい出来なきゃ、駄目だよ」
そのとき雪原に、止まっていた風が、動きだした。
真っ白な髪が、風に乗り、無音で広がる。
「危なっかしいし、まだ米沢ニイサンには……見習いの仕事を任せるのは、早かったかもね」
リオはオレを見上げると――笑った。
この子は笑うとき、目を閉じる癖がある。
「大丈夫だよ」