第二話 恋も殺しも誠実に・2
いい子だ。そのままオレの声を受け入れてくれ。
「リオ、いまごろあの子は、空の上にいる。天国でお母さんと再会できたはずだ。きっと空の上から、君に『ありがとう』って言ってるさ……」
それはただのゲンソウだ。だが、この子の目を塞ぎ、ココロを操るには――オレの声を聞かせる必要がある。
リオは地面に座り込んだまま、ゆっくりと夜空を見上げた。
澄み切った夜空には――満天の星が輝いている。
その反応を見るに、どうやらオレの声は、無事にココロに寄生を始めている。
「リオ……あの子は君と違って、リビングデッドだった。君に出会うまで、この世でずっと苦しんでいたはずだ。それでも君のおかげで、ようやくお母さんと――」
リオは何も言わなかった。オレの声を拒まなかった。
ただただ星空を見上げ、呆然としている。
「ニイサン……あの子、おかあ、さん、に……会えた……かな」
「会えたに決まってる」
「天国、に……行けた……か、な……」
「君を助ける善い行いをした子だ。いまごろ天国にいる」
この子は素直に耳を傾けている。
ならば、もう少しで届くはずだ。オレの声がココロに届けば――。
オレの命令に従う、操り人形にできる。
「リオ、あの子は君の命を助けてくれた。なのに君は……自分の命を、粗末にするのか?」
オレの問いかけに、リオはゆるゆると首を横に振った。
「じゃあ……行こう」
試しに立ち上がらせようとしてみたが――かすかに、抵抗する力が残っていた。
「リオ……」
オレは無理に立ち上がらせるのを諦め、そのまま強く抱き寄せた。
この子のココロを操るため――ささやかながら命令を告げた。
「■■■」
その瞬間ーーリオの身体からくったりと力が抜け、完全に身を委ねてくれた。
どうやらオレの声は、無事にココロに届いたようだ。
腕の中を見ると、この子はゲンジツに抗う気力を失ったのか、糸が切れた操り人形のように脱力している。
ふと顔を上げれば、路地の向こうにはリビングデッドの群衆が押し寄せていた。
何千、何万という腐乱死体が目を醒ました。無数のうめき声が、近づいている。
オレは背中からザックを降ろし、急いでリオを背負った。
荷物は自分の腕に持つ形で、あのフェンスを乗り越えよう。たかが二メートルほどの高さだ。リビングデッドのオレなら、多少無理をするだけで、問題なく突破できる。
一方ベッケンバウアーは、リオの手から少年の遺体を引き受け、ゆっくりと地面に横たえた。博士は片手で器用にドッグタグを回収し、血液のサンプルを収集している。
彼女もまたリビングデッドだ。腕一本になったとはいえ、自力でフェンスをよじ登れるだろう。
ただ、フェンスを登っている途中――背後で、何かつぶやく声が聞こえた。
「……駄目だよ」
その声は、オレを非難しているように聞こえた。
「駄目だよ」
寒気を感じて振り向くと――黒い瞳と、目が合った。
「駄目だよ」
リオはオレを見て、駄目だと言った。こちらの心を見透かすような暗い瞳が、容赦なくオレを凝視している。
「駄目だよ。駄目だよ。駄目だよ。駄目だよ。駄目だよ。駄目だよ。駄目だよ。駄目だよ。駄目だよ。駄目だよ。駄目だよ。駄目だよ。駄目だよ。駄目だよ。駄目だよ。駄目だよ。駄目だよ。駄目だよ。駄目だよ。駄目だよ。駄目だよ。駄目だよ。駄目だよ」
その目を見ていると、胸に不安の種が膨らんでいく。
何を否定されたのか、何を禁じられたのか、当然、心当たりがある。
確かにオレは、この子に嘘をついた。嘘だとわかっていながら、その場しのぎのゲンソウを使った。
だからこの子は、強く、執拗に、繰り返し、頭から、オレのゲンソウを否定している。
「ねえ米沢ニイサン……『どうして嘘がバレたんだ?』って目してるね……」
それを聞いて、恐ろしくなって、前に向き直った。
「駄目だよ。フェンス登るのが忙しいフリしても駄目だよ。いくら澄ました顔したって駄目だよ。相手は子どもだしバレないって思っちゃ駄目だよ。僕を助けるためだからって……自分に言い訳しちゃ、駄目だよ……」
リオはただ、とつとつと嘘を見破っては、痛いところを突いてくる。
この子のことは、何を考えているのか、わかりやすい子だと思っていた。
だが、逆にこの子にとってもーーオレが何を考えているか、わかりやすいのか?
それこそ目を合わせるだけで、オレの思惑が手に取るように、わかるのだとしたらーー。
そのとき、オレとベッケンバウアーはフェンスを乗り越え、市街地を脱出した。
針葉樹の木々が鬱蒼と生い茂った、山岳地帯に入った。
「……わかった……本当のことを、君に話していいんだな?」
オレは雪道を駆け上がりながら、少しリオを背負い直した。
するとこの子は、心細げにしがみついてきた。オレはそれをオーケーの合図だと受け取った。
「正直に話そう……あの子は天国にも地獄にも逝くことはできない。それは別に、種類の問題じゃない。極楽、辺獄、彼岸、輪廻転生……呼び方は何だっていい。人間だったら死んだあと、あの世や来世があるのかもしれないけど……リビングデッドに、あの世はない。それだけは、間違いない」
背中にいるリオは、少し寂しげに、オレの肩に頬擦りしてきた。
「ねえ、米沢ニイサン……どうしてそんな不思議なこと言い切れんの?」
「君もリビングデッドになればわかる」
「じゃ、難しいね。僕には一生、わかんないかも」
「ん……君だけは、そうであってくれ」
背中にかすかにぬくもりを感じる。
オレはつい、その温度を、名残惜しく噛み締めた。
この子が兄弟を手にかけるのは、これが最初でもなければ、最後でもない。オレもネエサンも、いつかリオの手で、命を絶つ。
リビングデッドは所詮、寄生虫の奴隷だ。いずれオレは正気を失い、寄生虫に操られるまま、人間を手当たり次第に襲いだす。
オレはこの子をリビングデッドにしたくはない。それでも正気を失えば、自分が何をするかわからない。
だからその日が来れば、今日と同じようにーー。
背筋に悪寒が走るのを感じて、リオをまた、背負い直した。
まだこのぬくもりを手放したくない。もう少しだけ、この子と共にいたい。
リオはいつも、この手の悩みを「恋」と呼んでいる。だとしたら、オレは一年前のあの日から、この子に叶わぬ恋をしている。
オレは人間に生まれてくることができなかった。そんな命に生まれたオレが悪い。それをわかっていながらも、この恋を捨てきれないでいる自分が悪い。
だからせめて、この子の手でーーこの恋を終わらせてほしい。
オレたちはそのまま、山の奥深くへと、姿をくらませた。
「恋愛と殺人においてのみ、人は今でも誠実である。」
――フリードリヒ・デュレンマット