エピローグ「使い道のない兄弟」
「明日のことは心配するな。
今日どんな災難が降りかかるか、わからないのだから。」
――ユダヤのことわざ
オレたちは今日、ラジオ局のお膝元「シドロヴァ」という街を出発する。
ただ、朝からあいにくの曇り空に見舞われた。
オレは光に当たらないと体力を回復できない。この天気には、強い不安を感じる。
それでも、次の街に消息を届けるため、長い長い徒歩旅へと出なければ。今日一日、体力が持ってくれることを祈るしかない。
「ねえネエサン、見て見て! 動く車に乗せてもらっちゃったから、旅路がどーんとショートカットできちゃったよ! 大躍進!」
地図担当のリオは、オレの先を歩きながら上機嫌だった。
オレたちの旅路は、しばらく旧時代の国道を道なりに進んだ。
だが、先を歩いているリオが、急に振り返って訊いてきた。
「米沢ニイサン、市街地が見えてきたよ。あそこ、リビングデッドが大勢いそうかな?」
「……ん……?」
無意識のうちに、オレは景色も見ずに、うつむいて歩いていた。
顔を上げれば、確かにそろそろ市街地が近い。
基本的に市街地は、リビングデッドが過密している危険なエリアだ。ただし、場合によっては数がまばらなこともある。
鼻がいいオレなら、その密集具合を遠くから把握できる。なのにオレは、擬態を維持することに集中しすぎて、そこまで意識が回っていなかった。
「あ、ごめん、そうだな……リビングデッドの、数、は……」
マフラーを下げ、顔を上げ、大気の匂いをよく確かめてみた。
ただ、匂いと擬態、両方に集中すると、目眩を感じる。
体力が、もう……。
そのとき、春風がそよいだ。
「……あっ!」
ささやかな微風に煽られて、背負っていた荷物のバランスが狂った。
体勢を立て直そうにも、ザックを背負い切れない。オレの首が、落ち――。
「に、ニイサン!?」
バシャッ――水風船が割れるような音が鳴り、アスファルトに黒い血がブチ撒かれた。
オレはすぐさま擬態に集中した。流出した黒い血を集め直し、頭を持ち上げ、また人間らしく見える色と形を形成させた。
「米沢ニイサン! ちょっと、平気?」
オレの背後に、リオが心配そうな声を上げて駆け寄ってくる。
「……平気、だ……オレは、まだ……うご、ける……」
今はとにかく「普段通り」の擬態に集中しなければ。
ひどい目眩がする。体力が底を尽きかけている。太陽が出ていないだけで、こんなに厳しくなるとは思わなかった。
だが、顔を上げたとき、恐ろしいものが見えた。
オレが借りた大事なドッグタグが、アスファルトに転がっている。
早くあれに、手を伸ばさないと。
「……っ……!」
それでも、手を伸ばすと、血の重さに耐えきれない。指先からドロドロと形が崩れていく。
背後にリオが立っている。オレがリオを待たせている。早く、立ち上がらないと。
「ニイサンって、本当……僕を頼るのが■■■■だよねっ!」
「……え?」
ろくに聞き返す暇もなかった。
気づけばオレは――リオに抱き上げられていた。
「り、リオ!?」
「あははっ! お姫様抱っこって奴!」
リオは、一八〇センチ近いオレを抱き上げたまま、颯爽と旅路を進もうとしている。
今のオレの身体は、頭と二リットル程度の血液しかないから、全体重を合わせても数キロほどだ。とはいえ、リオの荷物になるなんて、死んでも御免だ!
「や、本当にオレは平気だ! まだ自分で……」
「駄目だよ」
見上げると、リオはか弱い女の子の擬態を、少しだけ脱いでいた。
彼は春風を心地よく浴びている。進むべき道を見定め、清々しく笑っていた。
「駄目だよ! ね? ネエサン!」
リオは気前よくそう言っては、背後にいるベッケンバウアーに、ウインクを投げた。
オレはリオの肩越しに振り向いた。
驚いたことに、ベッケンバウアーが率先して、オレが転がしたザックやショルダーホルスターを引き受けている。
「……ベッケンバウアー、お前がオレに手を貸すなんて、明日は世界でも滅びるのか?」
「なぁに、私は君に感謝しているよ、米沢くん。君が君自身を殺害する動機を得るためには、どのようなファクターを必要とするか……それが是非とも知りたくなった。私が全身全霊で取り組む価値のある、崇高な研究テーマだとは思わないかねぇ?」
棒付きキャンディを口にしているベッケンバウアーは、コクリと、小首をかしげて笑った。
彼女の顔の右側が見えたとき、火傷の痕はなかった。今は間違いなく、「ナンシー・ベッケンバウアー」の人格だ。
ただ、彼女はふと口からキャンディを外した。
オレを真っ直ぐ見つめ、厳しく語った。
「……いいですか、いいですか? あなたはまったく自覚してくれませんけれども、あなたはこの子にとって、極めて危険な存在です。この子に危害を加える前に、あなたの危険性を証明し、あなたを必ずや、排除します。それが私の、責任でもあります……」
オレはリオに抱えられたまま、彼女の研究熱心なところを、初めて恐ろしく感じた。
「参ったな……リオのネエサンの研究テーマって、そういう意味だったのか……」
オレは力なく曇天を見上げて、ため息をついた。
そのゲンジツは、当然、自分が一番よくわかっている。だがオレは、リオを危険から護る役目を、米沢から預かっている。
オレがこの役目を果たせるうちは、必ず遂行しなければならない。途中で放棄することは、甚大な命令違反にあたる。
ただ、いつまでもゲンジツから目を背けてばかりもいられない。
オレはいつか、リオにとって危険な存在になる。
そう言うネエサンの裏にも、ナタリアの人格が潜んでいる。
早くリオのためにも、オレとネエサンを、駆除しなければ――。
***
その日、旅路はゆっくりと進んだ。
予定の半分も歩いていないが、もう夕暮れだ。今日も日没がこようとしている。
さて、旅人のオレたちが夜を越すためには、これから安全地帯を用意しなければならない。
オレはマフラーを下げて、周囲の匂いをよく確かめた。
間違いない。この近くには、ナンシー型の通常種しかいない。つまり、ありふれたゾンビしか出現しない地域だ。
夜になれば人の気配を察知して、ゾロゾロと通常種が押し寄せてくるかもしれない。ただしこのエリアは、そもそも個体数がまばらだ。這う・歩く程度のことしかできないゾンビが、数十体ほど集まってくるだけだろう。事前に丈夫なバリケードを用意して、安全地帯に引きこもっていれば、夜をしのぐのは難しいことじゃない。
その日はリオの一存で、小ぶりな民家の廃墟を寝床にすることが決まった。
幽霊屋敷のように、埃と蜘蛛の巣だらけの民家だ。この家は放棄されてから、十年以上は経っているんだろう。
「よーし、完璧! ニイサン、ネエサン、バリケードの設置、終わったよ!」
階段下から、皿が次々と割れる音と共に、自慢げな声が聞こえてきた。
恐らくリオは、何も考えずに食器棚を倒して、階段前を封鎖したようだ。貴重な骨董品を数多く犠牲にすることで、今晩の安全地帯は完成した。
その一方、ベッケンバウアーは、珍しく二階でリオの役に立つことをしていた。廃墟に残されているものを物色して、有用なものを見つけ出す、廃墟探索を続けている。
あいつ、普段はあんなことをしないくせに、オレへの当てつけかと邪推したくなる。
「フフ……そういえば米沢くん、あのとき君は、リオちゃんに何と言っていたかなぁ……アァ、そうだ! 『リオ、君もリビングデッドになった方がいい! 人間の身体って、本当に居心地が悪いし、使いにくいじゃないか!』」
「やめろ、やめてくれ……それ以上ゲンジツを見せつけられると、死にたくなる……」
オレは二階で、埃だらけの廊下に座り込んだまま、苦虫を噛み潰す気分で顔を伏せた。
「いやはや、よかったねぇ、米沢くん。君は太陽が沈まぬ限りは、大変おめでたい気分でいられる肉体を得たのだぁ。夜の間、君が使い物にならないなどと、実にささいな問題さぁ、アッハハハハ!」
ベッケンバウアーはそう言って、好きなだけ高笑いしている。その片手間に、リオが喜びそうな品をせっせと発掘し続けている。
護身用の拳銃と弾丸。キッチンに眠っていた食用油。防水機能を備えた災害用ラジオ。その上、質のいい腕時計まで見つけてきた。
驚いたことに、腕時計は光にあてたとたん、針が動きだした。太陽光で充電できるタイプだから、今でも時計として使える。
あいつ、ビギナーズラックとは言っても、とんでもない豪運だ。初めての廃墟探索でこうもアッサリ見つけてくるなんて、ズルすぎないか?
ただ、悔しいが、あいつの言う通りだ。オレが清々しい気分で活動できるのは、あくまで太陽が出ているときだけだ。
何せオレの身体は、エネルギーを体内に蓄えることがほとんどできなくなった。光に当たっていないと、爆速で息切れが起きる。昼に体力をフル充電しても、太陽が沈めば、活動限界は十五分といったところかもしれない。
――チャリっ……。
オレは廊下の隅に座り込んで、ドッグタグを握り締めていた。
油断すると身体が崩れて、チェーンが首をすり抜けそうだ。何かの拍子にこれを失くしそうな気がして、恐ろしかった。
「ニイサン、焚き火ができたよ! ここじゃ寒いし、向こうで火に当たろっか!」
リオが得意げに声をあげ、廊下を駆け寄ってくる。床に積もった埃が、真っ白に舞い上がっていく。
オレの身体は、また軽々と、リオの手に抱き上げられた。
「ごめ、リオ……使い道のないニイサンで、本当、ごめん……」
何かリオの役に立ちたい。何をすべきかわかっている。だが、今のオレには、何ひとつ使い道がなかった。人間に擬態しているだけの、ただの邪魔者だ。
だが、リオの反応は、オレが恐れていたものとは――真逆だった。
「平気、平気! 米沢ニイサン、少し僕の腕の中で、休んでなって!」
彼はオレに、好き勝手に頬ずりしてきた。その瞬間、リオからは、嬉しそうな匂いを感じた。
「……ねえ、ニイサン。僕、ちょっとは、えらくなったかな? ニイサンに頼ってばっかりじゃなくて、ニイサンに頼られても平気なくらい、成長してきたかな?」
彼はそう言って、顔を上げた。
なぜか心細げに、オレの目を見ている。
「まだまだ頼りないかもしれないけど、もうちょい僕のこと頼ってよ、米沢ニイサン!」
オレは、なぜか涙が出そうになりながら、リオの言葉にうなずいた。
「……わかった……君の命令に、従う……」
こんな調子じゃ、明日も旅路は遅々として進まないだろう。ラジオの天気予報では、明日もスッキリしない天気が続くそうだ。
これには頭を抱えたくなる。今日も明日も、オレがリオの足を引っ張るとの予報がでてしまった。
ただ、オレの頭の中にいる米沢牛は――珍しい反応を示していた。
オレの頭の中には、いつだって、リオの本当のニイサンがいる。オレに背を向けている彼は、肩を震わせて笑っていた。「お前、ニイサンのくせに、オトウトにおんぶに抱っこかよ」とでも言いたげだ。
ただ、オレは米沢牛に言ってやりたいことがある。オトウトの足を引っ張るのも、出来の悪いニイサンの仕事だ。それは君が一番よく知っているくせに。
何せオレたちは、消息代理人だ。旅路が停滞するなら、それはそれで商売になる。脇道に目をやる余裕ができて、ひょんなことから、長年見過ごされてきた消息を見つけるものだ。
車や列車持ちの連中は、オレたちが苦労して歩く横を、いとも簡単に追い越していく。ただ、彼らは足が速いだけに、大事なものを見落としていく。彼らが見落としたものを拾って歩き、義理堅く自分の手で届けに行くのが、のろまなオレたちにできる仕事。依頼人を代理して、故郷に消息を届けることから、オレたちは消息代理人と呼ばれている。
だから消息代理人という旅人は――真逆で矛盾にできている。
窓の外には、無数のうめき声が集まってきた。オレたちがいる廃墟の二階では、キッチンのシンクでパチパチと焚き火が燃え盛り、明るくあたりを照らしている。
オレはふと、となりを見た。焚き火のそばには、世間知らずな女の子にしか見えない、小さな大先輩が座っている。リオは欲張って、干し肉を大きめに切っていた。案の定、なかなか肉が噛み切れず、悪戦苦闘の真っ最中だ。
振り向けば、窓辺にはネエサンが座っている。今日は珍しく聖書を手にしていない。彼女は遠巻きにリオの背中を見守っては、嬉しそうに目を細めていた。
この消息代理人の群れには、今はもう、リオしか人間は残されていない。
リオひとりだけとなった人間社会に、正体がバレた擬態種が二匹、
今もなお、寄生している。
「ニイサン、やだやだ! 今、ラジオのトークが、ちょうどいいところなの!」
その日の夜、リオは無事に、十五歳の誕生日を迎えた。
―第一章・完―




