第十話 さあ飲もう、すべて忘れよう・2
ニーナは何度か深呼吸を繰り返すとーー試すような眼差しで、苦笑いを見せてきた。
「あの、米沢さん……正直に申し上げましょう。ひょっとして、議論とか、外交とか、交渉の駆け引きって、実は不得意なのかと、お見受けしますけど?」
「さあ……その手のものに、元々興味はありません」
「ほら、やっぱり!」
ニーナは急に、自信ありげな笑顔を取り戻すと、上から目線に断言してくる。
「だって、米沢さんの嘘って、演技力は満点でも、論理的に、破綻してるもの!」
「……みなまで言わないでください。その自覚はオレにもあります」
「それはそれは、お気遣いどうも。でも私、どんな理由があっても、優しい嘘は許さない主義なの」
オレはあくまで、淡々と事実だけを伝えることにした。
「……ニーナさん、勘違いしないでください。オレも決して、安全なリビングデッドではありません。今はただ、リオのニイサンから命令を受け、不義理を働かないだけでーー」
「はい、ストップ、そこまで」
ニーナはメガネを押し上げると、何か納得したようにうなずいている。
「まあ、米沢さんが言いたいことは、おおむね、わかりました……」
「……」
「エイダンって実は、危険人物だけど、ラウルがいるから、大丈夫。そのラウルも危険人物だけど、エイダンが面倒見てくれるから、心配ない。……そんなの、すごく不安になっちゃうけど……これが一番、安全な均衡ってことですよね……?」
ニーナはふと、テラスの外を見回した。
「あーあ、帰りの運転、どうしよっかな!」
「ニューケンブリッジの検問のことですか?」
「そ。またラウルが車で暴れたりしたら、困っちゃうなって」
「なら、何も問題ありません。ラウルが人前で本性を晒すことは、この先しばらくないでしょう」
ヘレン型のリビングデッドは、死期が近づくと、ケリー型以上に凶暴化するものだ。たとえ擬態種でさえも、理性を失い、人間を襲うケダモノになりさがる。行き道で、ラウルが車内で暴れてしまったのは、彼の死期が近かったせいだ。
だがラウルは、今回の件で、死期が大きく遠退いた。だから帰り道は、問題なく人間に擬態できるだろう。
「そっか……じゃあ、本当にもう、何も引き留める理由、なくなっちゃった……あはは、米沢さんとは、やっぱりここで……お別れ、なんですね」
ニーナは街道を眺めながら、不安げにつぶやいた。
「……米沢さんの言葉、私、信じます……きっと私なら、この均衡、守れるって……」
オレはふと、自分の手元に目を落とし――申し訳なく感じた。
「……すいません。ニーナさんには、本当、色々なことを頼んでしまって……」
ただ、これだけは、どうしても伝えておきたい。
「ですが、エイダンもラウルも、気をつければ、人間に危害を加える恐れは、ないはずです。ですから、まだ人間社会に、居場所を見つけることがーー」
人間社会にーー居場所。
本来、あってはならない、自分の居場所。
危険ではあるけど、危害は与えないから、
人体に、有害でも、無害でもないから、
どうかーー追いださないでくれ。
オレは思わずーー白シャツの胸元に隠してある、ドッグタグを握り締めた。
あの二人は、まだ、人と共にいていいーーはずだ。
そう思いたがるのは、オレの、我欲なのか?
「米沢さん……あの……ゴメンなさい!」
ニーナは急に、深々と頭を下げてきた。
「米沢さんが……車の中で、エイダンに撃たれたとき……私、本当に空砲だって、信じちゃったでしょ。あのときは、まあ、検問の人を誤魔化さなきゃならなかったし……私、ああやって、人でなしなこと言っておいて、正解だったかもしれないですけど……」
ニーナは、恐る恐る、顔を上げた。
彼女は、照れくさそうに、オレの目を見ている。
「あのときの米沢さん……すごく、かっこよかったです! いつもみたいにクールなこと言って、あの状況を、スマートに流しちゃって……本当、思い出すだけで、ゾッとしちゃう……だって米沢さん、本当は何発も、お腹を撃たれてたのに……後ろで見てて、全然、そんな風に、見えなかったの……」
そのとき、ニーナの口元が――少し、綻んだ。
「米沢さんが、あれだけすごい大立ち回りを見せて、私の日常、守ってくれたの。だったら私だって、ちょっとくらい、格好つけさせて!」
「格好、つける……?」
「そ! もう、米沢さんったら……私のこと鈍い鈍いって、さんざん言ってくれましたけど……私から見たら、あなただって、よっぽど鈍いんですからね!」
そう言って彼女は、急にポシェットを手に取った。
革製の小さなポシェットには、すっかり色褪せた缶バッジが着けられている。「コーコフを忘れるな」の運動バッジだ。
「リビングデッドは、人類共通の敵……やっぱり、それって忘れちゃ駄目よ……」
ニーナはそう言うと、チラと目を上げた。
「でも……米沢さんみたいに、身を挺して私たちを助けてくれる、ステキな人もいる。それにラウルみたいに、家族同然の、大事なリビングデッドもいる。それでもベッケンバウアー女史みたいに、油断ならないリビングデッドだって……」
ニーナは思い入れ深そうに、色がすっかり褪せた缶バッジを取り外した。
その瞬間、顔のサイズに合わないんだろう黒縁メガネが、またズレた。
「あーあ! 私、けっこう本気で好きだったんですけど……これが『百年の恋も冷める』ってやつなのねっ!」
ニーナは顔を上げるなり、大きく腕を振り回した。
振り向くと、小さな物体が放物線を描き、用水路に飛び込んでいく。それは夕陽をキラリと反射して、水音を立て、水面を揺らした。
ーーぽちゃん。
ニーナが大事にしていた運動バッジは、シドロヴァの用水路へと、放り込まれたのだ。
「バイバイ、私の初恋! でも、私もそろそろ、現実を見なきゃダメみたい!」
ニーナは爽やかな笑い声を立てて、アッサリ決別しようと見せている。
ただ、そばで彼女の匂いを感じていると、こちらまで、かなりつらくなってくる。
オレは用水路を眺めたまま、何か慰めの言葉を探した。
探すと言っても、別に持ち合わせの知識から、言葉を探しているわけじゃない。
オレは所詮、生後一年ほどのミミックだ。オレが知らないことも、脳内に巣食っている寄生虫と寄生虫が、何十年という経験の中で学んできている。
「……かつてフランスの細菌学者、ルイ・パスツールは、こう言ったそうですよ。『グラス一杯のワインには、すべての書物よりも多くの哲学が詰まっている』と……」
オレは用水路を眺めたまま、さも自分で得た知識かのように、その話を始めた。
「グラス一杯のワインに含まれるのは、何も哲学だけじゃない。化学・物理学・生物学・地質学・工学・考古学・天文学……それでも、あらゆる人類の叡智を総動員させても、ほんの一杯のワインに含まれている小さな宇宙でさえ、いまだに解明しきれていない……」
オレはふと、ニーナを見て、苦笑いを示した。
「ただ、とある物理学者は、こう言った。『グラス一杯のワインは、何もそんなことを論じるためにあるんじゃない。ワインは、もっと特別な楽しみを、オレたちに与えるために用意されているんだ』と……」
ニーナは、貪欲に、真剣に耳を傾けてくれている。
ただ、オレとしては、彼女の脳髄を満足させるために、知識をひけらかしたいわけじゃない。
「……あなたがゲンジツから目を背けたいとき、どのような人類の叡智も、ただの報酬にすぎないでしょう。知識欲を満たし、脳髄を甘い快楽に浸らせる代償に、ゲンジツは悪化し、骨まで蝕まれていく。……だから結局、『人生で忘れてはならないこと』なんて、せいぜいひとつしかありませんよ……」
オレは、すっかり忘れ去られた水入りのグラスを、軽く掲げた。
「さあ飲もう、すべて忘れよう……リチャード・P・ファインマンの言葉です」
街道からは、気の早い夕食に洒落込む方々からの、乾杯の音頭が聞こえてきた。




