第十話 さあ飲もう、すべて忘れよう・1
そろそろ陽が傾いてきたな。青空から差す陽光は、弱くなっていくようだ。
オレは宿の階段を下って、一階まで降りてきた。
そのとき、ちょうどフロントで、エイダンの妹、ニーナとはち合わせた。
「あ、米沢さん! これからお散歩ですか? 実はこれ、ちょっと重くて持ち上がらなくて……すいません、部屋に運ぶの、手伝ってくれませんか?」
照れ笑いを見せてきたのは、長い青髪をサイドで結いまとめた、黒縁メガネの女の子だ。ニーナは荷台を使って、買い出しの戦利品を運んでいる最中だった。
だが、今部屋に戻れば、あの二人が大事な話をしているだろう最中に、邪魔に入ってしまう。
ニーナは部屋から遠ざけておこう。ついでに色々と、伝えたいこともある。
「あの、少しお話ししたいことがありまして……今からお時間を頂けませんか?」
「え? も、もちろん、構いませんけど……あの、この荷物、部屋に運んだあとでいいですか?」
「いえ、なるべくリオが帰ってくる前に、あなたに伝えたいことが……」
オレはニーナの目を見て、嘘をついた。
その瞬間、なぜかニーナの頬がーーポッと紅潮した。
***
宿のフロントには、小洒落たカフェが併設されていた。
受付で大荷物を預けたあと、店員に案内されるまま外のテラス席につくと、オレはメニューを見るまでもなく、不躾ながら水を頼んだ。彼女はハーブティとサンドイッチ、それから――と、メニュー表を広げたまま、あれこれ決めかねている。
「す、すすすすいません! 私も、すぐ決めますから、そのっ……」
「いえ……お気になさらず……」
ふと空を見上げると――先ほどまで、ぐずついた天気だったが、幸い、雲は速やかに立ち去ったようだ。
ほどよく乾いた春風が、頬に触れ、おだやかに去っていく。シドロヴァの街に沈んでいく夕陽が拝める、なかなかの特等席――それが、オレたちの案内されたテラス席だった。
「そ、そそそそれで……米沢さんが、わ、わわ私に伝えたい、お話って……?」
注文が終わるなり、ニーナは自分の青髪の毛先を気にしては、キョロキョロと視線を泳がせ、落ち着かない様子だ。
やはり、ゾンビと二人きりになるのは、生きた心地がしないんだろう。
手短に、本題に入った方がよさそうだ。
「ニーナさん。あなたは以前、ラウルの両親は狩猟中の事故で、リビングデッドに噛まれたと聞いたんじゃないですか? そして、その場でエイダンが介錯した……そうですよね?」
「え? あ、まあ……そうですね」
ニーナは少し目を伏せると、「あれは本当に、残念な事故でした」と、ありきたりな言葉で追悼した。
「ですが実際は――順序が逆です」
ニーナは一瞬――まばたきもせず、硬直した。
「……え!? ぎゃ、逆って!?」
「そのままの意味です」
「そ、そのままの意味って、あ、あの、どこが、どう逆なのかなーって……あ、はは、だって、じゅ、順序が逆って……つ、まり……」
順序が、真逆。
リビングデッドに噛まれたから、殺されたんじゃない。
殺されたから、リビングデッドに噛まれた。
だが、それでは、その順序では――。
「む……矛盾してるわ!」
ニーナはメガネを押し上げると――懸命に、エイダンの弁護側に回った。
「仮に、もし仮に、そんな事件があったとしたら……どうして今まで、発覚しなかったって言うんですか!?」
「いえ……何もおかしくありませんよ。今どき狩猟中の事故で感染することなんて、珍しくもないじゃないですか。誰も疑ったりしませんよ」
「で、でも……こんな穴だらけな犯行、考えられないわ! だって! え、エイダンには、アリバイもないし、殺人現場には、ラウルっていう立派な目撃者もいたはずよ!? それなのに目撃者は、じ、自分の両親を殺されておきながら……ずーっと今まで、だ、黙ってたって言うんですか!?」
「はい」
「『はい』って……」
ニーナは弱りきったように目を泳がせると、「あり得ない、エイダンに限って、そんな……」とつぶやきながら、ゆるゆると頭を振っている。
人間は、自分にとって都合のいい現実だけを、ゲンジツとして、受け入れる。
荒唐無稽。
支離滅裂。
信じがたい現実は――信じない。
信じられない現実は――存在しないことにする。
だから多くの人間は、知りもしないし、知ろうともしない。
だが現実は、人間が思っている以上に――真逆で矛盾にできている。
「ニーナさん、思い出してください。思い込みを捨ててください。旅人のオレでさえ、気づいてることですよ。当然、彼の家族であるあなたが、これに気づいてないはずがない……」
オレは、ニーナの目を覗き込み――低く、強く、告げた。
「……お忘れになったとは言わせませんよ。彼はこの数日だけで――そう、ほんの数日で――すでに三度、人を殺しかけたじゃないですか」
鏡を突きつけるように、ただただ淡々と、告げていく。
彼女が直視することを避けていたゲンジツを――その全貌を――その惨状を。
「オレとリオが初めて、トカレフ家を訪問したとき――オレとラウルが、二度目の検問をごまかしきれなくなったとき――ニューケンブリッジの検問で、ラウルが仮死状態に陥ったとき――エイダンは、ためらうことなく、人目をはばかることなく、殺したい人間を、殺そうとした……違いますか?」
だから――何も不思議なことはない。何も矛盾していない。
「エイダンが、発作的に殺人に走ることなんて、大して珍しくもない……そうですよね?」
するとニーナは、青い顔したまま、かすかに唇を、「ちがう」と動かした。
ただし、彼女が示した抵抗は――それが最後だった。
「ニーナさん……ラウルの両親が亡くなったあの事件、実際は、エイダンが山中で二人を殺害したあと、遺体にリビングデッドが噛みついた。それが正しい順序です」
オレの言葉に、ニーナは苦々しくーーうなずいた。
「あれは発作的な犯行だったようです。証拠を残さないよう工夫したり、目撃者を排除することまでは、気が回らなかったんでしょう」
ニーナは唇を噛むと、痛みをこらえるような沈んだ面持ちで、うなずいた。
それがニーナの自慢の兄――エイダン・トカレフの本性だと、彼女はようやく、受け入れたようだ。
そのときテーブルの横から、「お待たせしました、ハーブティです」と、店員から声をかけられた。だが、ニーナはそれに、気づいていないようだった。
だいぶ表情が堅くなってしまった。少し安心させた方がいいな。
オレは軽く笑顔を見せ、ニーナのカップに、ハーブティを注いだ。
「ま、少し飲んで、落ち着いてください。せっかくのお茶が、冷めてしまいます」
「……すいません……」
ニーナがカップに口をつけ、重苦しいため息をついたのが見えた。だが、こうして温かい飲み物を口にさせておけば、そのうち緊張もほぐれていくだろう。
「ニーナさん……エイダンの行動は不可解に見えるでしょうけど――根っこの部分は、意外とシンプルですよ。彼はただ、ラウルを失う危機に直面すると、危険な行動に走るんです。だから、そういう状況を作らなければいい。ただそれだけの話だったんです」
「ラウルを、失いたくない……」
その瞬間ーーニーナは、目を見開いた。
「……ラウルを……失いたく、ない……?」
閃きは雷の如くとは、このことを言うんだろう。
彼女は突然、「我、発見せり!」と叫ぶなり、ブルリと肩を震わせ、何度もうなずき始めた。
「なるほど! なるほど、そこだったのねエイダン! そういえばエイダン、ラウル以外に、友達、ひとりもいないじゃない!」
ニーナは散々納得して興奮していたがーーみるみるうちに脱力した。
点と点が、線でつながった。
パズルのピースが、最後まではまった。
恐らく、彼女の中で、疑問として頭の中にモヤモヤと残っていたものが、一気に解消されたんだろう。何度も何度も、納得した様子でうなずいている。うなずいてはいるもののーー。
「……しょうもない……」
私みたいに色々友達つくればいいのにと言って、ニーナはハーブティを飲み干した。
ものはついでだ。
彼女がリラックスしつつあるこのタイミングで、ラウルの取り扱いについても、伝えておこう。
「ああ、それと……このあと、あなた方はイヴァノフに帰るでしょうけど……これまで通り、ラウルは社会的に隔離してください」
そう伝えるなり――ニーナは異議ありと言いたげに、勢いよくカップを置いた。
「よ、米沢さん!?」
「ニーナさん、ラウルはあくまで、リビングデッドです。しかも、人を騙すことに長けた種類です。諸事情あって、エイダンだけは襲えないでしょうけど……決して安全ではありません。当然、人を襲います」
ラウルは最大願望への執着という形で、「俺はまだ死にたくない。もう少しエイダンの力になりたい」と願った。
最大願望への執着には、絶大な拘束力がある。彼はもう、自分の願いに反することは、いかなることも実行できない身だ。だからラウルは、エイダンをリビングデッドにできないと見て、間違いない。
ただ、それ以外の人間にとっては――当たり前だが、極めて危険な存在だ。
「で、でも、米沢さん……それって、あんまりじゃ……」
彼女は、ラウルにそんな仕打ちを働くことに、断固として反対のようだ。
まあ、それもそうか。
彼女はまだ、ラウルが危険だとは、とても思えないんだろう。何せラウルは、まだ人間を襲ったことがないんだから。
だとしたら。
いくらゲンジツを訴えても、この人間を操れないのだとしたら――。
「ふっ……ふふふっ……」
この人間のココロに、
ラウルに対するトラウマを、寄生させるしかない。
「ニーナさん、そう言うからには……どうにもまだ、気づいてないんですね?」
「へっ!?」
「あなたのそういう鈍感なところ、オレ、けっこう好きですよ……」
意地悪く微笑んでみせ、周りの客に聞かれないよう、声を落とした。
「あなたなら、きっと気になるんじゃないですか? 『なぜリビングデッドは、ここまで徹底的に、世界を破壊することができたのか』と……」
そう暗に示すとーー聡明なニーナは、すぐにオレの言わんとすることを察してくれた。
「あれ? 確かにそれって、ちょっと不思議っていうか……あ、あり得ないわ」
難しい顔をしたニーナが、黒縁メガネを押し上げる。
「だって、この寄生虫って……確かに感染力は強いけど、絶対、空気感染しないもの。だったら、接触したあとは十分消毒するだけで、伝染るリスクは、ゼロに等しいわ。同じような感染ルートの寄生虫って、他にもいたはずよ」
演説するかのように、力強く拳を握りしめている。
「でも、その手の疫病は、感染ルートさえ特定しちゃえば、決して私たちの敵じゃないわ。人類が一致団結して、水際対策を徹底すれば、いつか必ず、蔓延は阻止できる。そうやって人類は、色々、乗り越えてきたはずなのに……」
「だからこそ、安全であるべき街に忍び込むため、オレのような変異種が現れたんですよ……」
「……え?」
その瞬間、ニーナがオレを見る目が――変わった。
それを見て、つい、笑ってしまった。
その反応は、ミミックにとって、一番の褒め言葉だ。
「へえ、そういう顔するからには……オレのことを『信頼できる人間だ』と、思い込んでいたんですか?」
オレはそっとーーニーナの手を握った。
「ひっ……!」
「その気持ち……オレはすごく、嬉しいです」
彼女の手は、恐怖からか、死体のように冷たくなっていく。まるで『おともだち』と触れ合っているようで、安心する温度だ。
オレは、人間の擬態を、やめた。
首から力が抜けーーカクンと、頭が、傾く。
「ふふ……オレたち、両想い、です、ね。オレも、あなたの、ような、人間……大好き、です」
ニーナは青い顔して、慌てて手を振りほどこうと、もがき始めた。
だが、騒ぎを起こされると面倒だ。
オレはニーナの唇に、人差し指を添え、「シー」と言って、沈黙を強要した。
「オレの気持ちに気づかなかった、あなたが悪いんですよ……ずーっと、あなたのことを、狙っていたというのに……」
シュルッーーオレは、指先の血液を操り、細い糸に変形させ、ニーナの身体に巻きつけた。
「よっ、米沢さん!?」
「……可愛いですね、いまさら驚くなんて。でも声が大きいですよ。ほら、となりの方が……ふふっ、こっちを見てるじゃないですか」
となりの席に座っている老婆は、オレと目が合うなりーー気恥ずかしそうに、目を逸らした。
のどかな春風がそよいでいる、夕暮れのテラス席だ。
オレたちは、どこからどう見ても、カフェでお茶を楽しんでいる蜜月の男女にしか、見えないはずだ。
一方ニーナは、真っ青な顔して、自分の手足を見回して、パニックになりかかっている。
「ひ、卑怯よ……こ、これじゃ、私、い、いいいいくら大騒ぎしたって……ただの、虚言癖のある、女にしか、み、見えないじゃない!」
「そうですね……」
糸は、細ければ細いほど、視認性が悪くなる。これだけあからさまに、ニーナの両手足を、椅子とテーブルに拘束し、身動きを封じているがーー誰もその拘束具に気づくことは、ないだろう。
「これがオレの本性ですよ。このままあなたと二人きりになって、人目を避けた場所で……欲望のままに、あなたを襲いたい……ふふっ、ミミックなんて、見てくれが違うだけで、中身はどれも一緒ですよ……」
となりの席の老婆は、またチラッとオレを見て、気まずそうに目を逸らした。
「ラウルだって、あなたに興味がないように見せているだけで……結局、オレと同類だ。彼も内心、あなたのことをーー」
シュルッーーオレは血液をすべて回収し、ニーナの拘束を解いた。
その瞬間、ニーナは逃げるように、オレの手を振りほどき、心細げにポシェットの革紐を握りしめ、震え固まった。
「なっ……何が言いたいの……こんなことして、私に何を!?」
「さあ? その賢い頭脳で、当ててみてくださいよ……」
さて、これで十分、ミミックに対する恐怖心を植えつけることができただろう。
オレはこの人間から、信頼をすべて、失ったはずだ。
それでいい。
それこそが、目的だ。
何せ、ニーナが今後、もし気まぐれであれ、何であれ、
ラウルの言葉に耳を貸し、ココロを操られればーー
街がひとつ、壊滅する。
それだけは、間違いない。
「あなたの街が、この先も無事であることを……祈っています」




