第二話 恋も殺しも誠実に・1
オレは「オトウト」の能力を見て――恐怖を覚えた。
「……だ、ほーが……んだ、ほうが……」
ブラック・ロータスは、リオの背におぶさったまま、伸びやかに両手を振っている。その手からは、黒い血が、鞭のようにしなっていく。
市街地の路上には、リビングデッドの通常種が、隙間なく敷き詰められていた。
それが「オトウト」の手で、ことごとく殲滅されていく。
一振りすれば、リビングデッドが数十体、真っ二つに裂かれる。
二振りすれば、数十メートル先まで、道が切り開かれる。
オレはただ、オトウトが切り開いてくれた道を追いかけるだけでよかった。
注意すべきことといえば、せいぜいオトウトの前へ出ようとしないことくらいだ。一歩でも追い越せば、オレの身体は、いとも簡単に細切れにされるに違いない。……とんでもなく頼もしいオトウトだな。
すると、オトウトを背負って走っていたリオが、嬉しそうに声をあげた。
「あった! ニイサン、ネエサン、ゴールが見えたよ!」
オレもリオに追いついて、曲がり角の先を見てみた。
確かに、数百メートル先で、市街地が途切れている。
あのフェンスを乗り越えれば、山岳地帯の入り口だ。
空を見上げれば、ちょうど日没の時間だ。ただ、快晴の空には薄明かりが残っている。リビングデッドは日光を嫌って、まだ動きださないはずだ。通常種は、太陽に焼かれることを極端に怖がる。
空の薄明かりは数分で消えてしまうだろうが、それでもフェンスまで走っていくには、十分な時間があるだろう。
ただ、先陣を走らなければならないリオがーー急にペースを落として「ちょっと休憩ー」と泣き言を始めた。危険地帯の出口が見えて、少し気がゆるんだらしい。
「だ、ほーが?」
リオが背負っているブラック・ロータスが、挑発的に問いかけている。
「ち、ちちち違うよ、全然ギブアップじゃないし! ただ、ちょっと休憩したいだけ!」
「だ、ほーが! シシシシっ!」
からかうように、コロコロと笑い転げている。
「わーっ! 『ニイサンのくせに、へなちょこ』って言ったでしょ!? ち、違うもん! 僕だって、本気、だせば……!」
そのとき、リオの膝が――カクンと折れた。
オレはとっさに、倒れかかった二人を支え、見かねて苦言を呈した。
「リオ、無茶するな。オトウトができて、はしゃぎたい気持ちもわかるけど……」
するとブラック・ロータスは、リオの背中から、軽やかに飛び降りた。
「ありゃ? もういいの? ここはニイサンの僕に、ぜーんぶ任せてよ!」
リオは自信満々に胸を張っているが、ブラック・ロータスは何も答えなかった。
ポケットから両手いっぱいにドッグタグを取り出し、リオに差し出している。
リオはそれを見て、白い眉をキッと釣り上げた。
「駄目だよ! 今そんな話をしてる場合じゃないんだ! ほら、早くあのフェンス乗り越えて、安全なエリアに行こう?」
「ほーが……」
そのとき、ブラック・ロータスの頭を覆っている花弁がーー揺らめいた。
黒い血がぬらぬらとうごめくと、流体は顔に集まり、喉の奥に飲み込まれ、次第に素顔が晒されていく。
現れた素顔は、ミイラのように乾ききった少年の顔だ。そろそろ十五になるリオよりも、少し幼く見える。
ただ、肉は硬く、茶色く変色しきっている。生前どんな顔立ちだったのか、あまり想像はつかない。
リオはオトウトの素顔を見て、はっとした顔になった。
「君、すっごい美形じゃん……そういえば君の名前、まだ聞いてなかったね。ねえ、教えてよ!」
「……ほ……が……」
少年は、自信なさげにうなだれている。
「あははっ、平気平気! 心配しなくたって、君のドッグタグにちゃんと――」
そう言ってリオは、オトウトの首にかかっているチェーンに手をのばした。
その瞬間、少年の両手から、ドッグタグがーーザラザラとこぼれ落ちた。
「……ん? どしたの?」
リオは目をパチクリさせている。
「ボ、ク……リビング、デッド、に、なって……いき、る……くらい……な、ら……」
少年はおずおずとリオの手を握ると、自分の首に、かけさせている。
「……死ん、だ、ほう、が……マ、シ……」
リオはその微笑みを見て――目を見開いた。
「……な……何言ってんの!? リビングデッドになったって、ちーっとも気にしなくていいじゃん! だって、僕のニイサンとネエサンだって、ああ見えてリビングデッドだし……消息代理人の仕事に、なーんにも支障なんて……」
だがリビングデッドの少年は、微笑んだまま、同じ言葉を繰り返している。いくらリオが説得しても、壊れたレコードのように、同じ言葉を繰り返していた。
「……まさか……君、そのために……?」
リオはそう言うとーーみるみるしぼんでいくように肩を落とした。まるで両想いだと思い込んでいた恋に破れたような、ひどい落ち込みようだ。
そのとき、オレのとなりで、ベッケンバウアーが口を開いた。
「フゥ……リオちゃんも、ようやく勘違いに気づいたのだねぇ」
「気づいたって……何が?」
そう聞き返すと、博士は軽蔑した視線をよこしてきた。
「おやぁ、それは君もよく知っているはずさぁ。君が知らないはずがなかろう?」
そう言われても、何も思い当たるものはない。
「ハァ、君ねぇ……そもそも消息代理人は、同業者殺しが激しい業界ではないかぁ。多くの業者は、わざわざ自力でドッグタグを集めるよりも、同業者を殺害し、横取りする方が、はるかに楽な商売であると考えている。一般人がそれを知らずに、ドッグタグを拾おうものなら……ねぇ?」
オレはそれを聞いて――ハッとした。
確かに、それは常識だ。
消息代理人にドッグタグをチラつかせるのは――自殺行為だ。
そうか、だからあのリビングデッドは、ドッグタグを集めていたのか。
これだけドッグタグを集めれば、消息代理人に出会ったとき、きっと自分を殺してくれるとーーそう信じて、リオを助けたんだ。
「……おね……がい……おね、がい……ほーが……ほーが……」
ブラック・ロータスの少年は、はにかんだ笑顔で、リオにせがみ続けている。
長い長い、沈黙が流れた。
リオは、戸惑いながらもうなずくと――少年の首に、手をかけた。
「……昔ね……僕、ニイサンたち……こ、殺しためらっちゃったんだ……あのとき、ぼ、僕のせいで……死ぬの、すごく……苦しかったと、思う……」
その手は、かすかに、震えている。
「だ……だから……! 今度こそ……僕……く、苦しませないで……!」
少年はそれを聞いてーーリオの頭を、少し撫でている。
大丈夫だよ、君ならできるよと言いたげに、小さなオトウトが、微笑んでいる。
「ほ、がっ――」
声が、止まった。
リオが腕に力をこめ、オトウトの首を、絞めあげている。
少年は、天を見上げ――はくはくと、口を動かしだした。
おかあさんに、あいたい。
おうちに、かえりたい。
おねがい。
ボク、しんだ、ほうが、マシ。
少年は笑っていた。声もなく、笑いながら、口を動かしている。
リオはその言葉を読み取ったのかーー腕の力を、ゆるめてしまった。
「違う……違う! ねえ、待って!」
リオは手を離すと――オトウトの頭を、キツく抱きしめた。
危ない、と思った。
リオが、ではない。
あの少年がーー。
「お願い、お願いだから、考え直して……死んだ方がマシなんて言わないで! 会いに行ってみようよ、君のお母さんに、君のおうちに! だって、きっと僕、そのために――」
クシャっ――枯れ枝を折るような、あっけない破砕音が聞こえた。
「……え……?」
リオは驚いて、腕の中を見ている。
真っ白なワンピースは――真っ黒な血で、汚れている。
「……ま……待っ……て……」
リオの腕の中から、黒々した物体がドロリと崩れ、地面にこぼれた。
ベチャッ――オトウトの頭から落ちたのは、脳の塊だった。
崩れた脳の割れ目からは、丸々と太った、寄生虫が露出している。
それを見てリオは、息が止まるほど、混乱している。
リオは、自分が何をしたのか、わかっているはずだ。頭部はリビングデッドにとって、唯一にして無二の弱点だ。リビングデッドはたとえ手足をもがれようと、首だけになろうと、脳に巣食う寄生虫が潰されない限り、決して死ぬことはない。
だが、それを理解するまいと、あの子は頑なに笑っている。腕の中の現実を直視しながら、それでもゲンジツを受け入れまいと、必死に頭を振って、笑っている。
「ちっ……違う……ま、まだ、生きてる……よ、ね? だ、だって、まだ、君の身体……あったかいし……そ、それに――」
リオはすがるようにオトウトの身体を抱き締めた。
だが、オトウトの身体はーーまだ痙攣しているものの――ひくり、ひくりと、少しずつ命が尽きていくのが、はっきりと目に見える。
「ね、ねえ……ねえ! 違う、違うよね!? 違うって言って! 違うって!」
いつしかオトウトは、動かなくなり――だらりとリオにもたれかかった。
その瞬間、リオは、恐る恐る足元に目を落とし――。
半狂乱になって、こぼれた脳を、かき集めた。
泣きながら、叫びながら、自分が潰してしまったオトウトに詫び続け、
地面に這いつくばり、脳を両手に集め、オトウトの頭に押し戻している。
それでも押し込む力が強すぎて、柔らかい脳は一層ひどく形が潰れ、頭蓋骨から飛び出し――地面に崩れ落ち、汚い水音を立てて広がった。
あの子はそれを見て絶叫し、また地面に這いつくばって、かき集めようとしている。
オレはとても見ていられなくなり、黙ってリオに歩み寄った。
するとベッケンバウアーも、オレと共に、リオに歩み寄っていく。
オレはリオの肩を叩き、なるべく優しく、なぐさめの言葉をかけた。
「リオ……きっとあの子は苦しまずに亡くなった。君のおかげで、苦しむことなく……」
「でもっ! でも、ニイサンっ!」
リオはまだ諦めきれないのか、泣きながら落ちた脳をかき集めている。
ならば――この子を操ってでも、ゲンジツから引き離さなければならない。
「なあ……リオ」
オレには、人のココロを操るくらいしか、能力がない。
「怖がることはない」
この子にゲンソウを植えつけてでも、ゲンジツを乗り越えてもらわなければ。
「■■■」
そう告げた瞬間、リオの動きが――鈍くなった。