第九話 致死毒の用法・用量・4
耳鳴りが痛いほどの、静寂が続く。
鼓膜が破れたのかと、錯覚しそうになるほど、
耳に痛い、静けさが続いている。
「……は、はは……米沢……何、を……?」
オレはその問いかけを無視して、頬に手を添えた。
「ラウル、お疲れ様でした。この身体は、君に返しますよ」
ズルリ――そのまま仮面を脱ぐように、米沢の擬態を脱ぎ捨てた。
「……え……?」
エイダンは、血の気の引いた顔をして――こちらを見つめている。
彼の目の前に現れたのは、頬にソバカス、高い鼻。癖毛な栗毛の、平凡な顔。
「ち、違う、違う! そんな……あ、あり得ない!」
エイダンは逃げ惑うように、致死毒を受け入れまいと叫びだした。
「だっ、だってラウルは! まだこっちで、し、心臓も止まってーー」
エイダンが振り向くと、ベッドには、ラウルそっくりに見える栗毛の男が、青白い顔のまま、寝そべっている。
その男は――急に目を開いた。
「……おかげさまで、オレの身体には、もう心臓はありません。仮死状態のラウルに擬態するなんて、造作もないことですよ」
ベッドで寝ていた男は、米沢の声でしゃべりだした。
淡々と身体を起こし、頬に手を添えると、血を使った擬態を、ズルリと脱いだ。
癖毛な栗毛の下からは――真っ直ぐな黒髪が現れた。
「……え……? な、何が、どうなって……? 米沢が、二人いて……米沢の下に、ラウルが、いて……?」
エイダンは、ベッドにいる男と、ここにいる男を交互に見比べては、とんでもない悪夢でも見ているような顔をして、ひどくうろたえている。
ひとまずオレは、ラウルを覆っていた血液を一箇所に集め、肩の上を借りて、文鳥と呼ばれる小鳥にでも擬態しておこう。
「エイダン……あなたが先ほどから、ずっと『米沢』だと思い込んで話しかけていた相手は、確かにオレです。ただし、その中には、薄皮一枚を隔てて、ずっとラウル本人もいた。……ただそれだけのことですよ」
オレはさっさとラウルの肩から飛び立ち、本体と合流することにした。
――ぐじゅ……。
***
汚い水音が鳴ると、別行動に出ていた血液は、本体に吸収できた。
オレはベッドに座り込んだまま、事態を静観することにした。
だが、米沢に擬態させていたラウルは、床に目を落としたまま、苦しげに口を結んでいる。
それでもため息をつくと、意を決して、小声で、ぶっきらぼうに、打ち明けた。
「……すまねえ、エイダン。お前にこんな、騙し討ちみてえなことすんの……俺だって、すげえ嫌だったんだ。けど、俺……リビングデッドになっちまって……仕方なく、あいつの言いなりに……なるしか……」
まさか以前、ラウルから命令権限を手に入れたことが、こんな形で役立つとは思わなかった。
リビングデッドは、所詮、寄生虫の奴隷だ。命令権限を持つ者には、何があろうと、逆らえない。
ラウルは、オレの命令を――断れない。
自由になったラウルは、フウと息をつくと、覚悟を決めたのか、顔を上げた。
「なあ……エイダン」
怯えた顔したエイダンが、肩を震わせ、一歩、後ずさった。
「おい、逃げんな。……俺がお前に、何かひでえことするはず、ねえだろ」
ラウルはズケズケと歩み寄り、エイダンの肩を、しっかりと捕まえた。
「なあ、これっきり……もうこの手のこと、やめにしようぜ?」
ただし、エイダンはブツブツと何か言っている。「違う、違う、あれはラウルじゃない。きっと偽者なんだ」そんな解毒薬を口にしては、致死毒を受け入れまいとしている。
「なあ、頼むから、わかってくれよエイダン……俺はどう頑張ったって、お前のこと、全部わかってやることは、できねえんだ。……んなの、当たり前だろ? 俺とお前は、全然違う人間なんだからよ」
「ち、違う……ラウルは、き、きっと、そんなこと……」
エイダンは目に涙をため、恐る恐る耳をふさごうとしている。
それに対してラウルは――コツンと、自分の額で、エイダンの額を、小突いた。
「なあ、エイダン……覚えてるか? 俺たちが学校に通ってたころ、クラスで『木造校舎を点検しよう係』って奴を作ったの。あれって大層、聞こえのいいお役目だったけどよ……ひでえ話だ。結局、あの係をまともにこなしたのって、お前だけじゃねえか」
ラウルはグッと押し殺した声で、深い怒りを吐き出している。
「縁の下の力持ち。主役の引き立て役。永遠にスポットライトの当たらねえ、雑用みたいな役回り……その手の面倒ができると、他の連中っていけしゃあしゃあと、猫撫で声で、お前に押しつけに来るだろ? けど、どれだけお前が世話を焼いてやっても……すぐ忘れちまう。あいつら、お前が面倒を引き受けるのが当たり前だって、勘違いしてるぜ」
そのとき、ラウルは額を離し、力強くエイダンの肩を持った。
「なのにお前……文句ひとつ言わねえよな! しかもよ、自分のことだけでも手一杯だろうに、他の奴らが困ってると、絶対見捨てねえし。俺、お前のそういうところに……何度も、助けられたんだ……けどよ、エイダン……」
ラウルは冗談めかした笑顔を見せると、エイダンの肩を、拳で気さくに小突いた。
「そんなんじゃお前……ロクに長生きできねえぜ?」
それに対してエイダンは、ラウルを見上げ、ぽつりと涙をこぼしている。
「両親の看護も頑張る。自動車調律師の仕事も頑張る。誰からどんな面倒を押しつけられても断らねえ。困ってる奴を見つけたら見捨てねえ。何が何でも自分で背負い込んで、お前ひとりで頑張っちまう。本当、お前、ムチャクチャなことするよな! そんなお前を放ったらかして、俺もオチオチ死んでらんねえよ!」
ただラウルは、ふと真剣な目に変わった。
静かな声で、真っ直ぐ、打ち明けている。
「『俺はまだ死にたくねえ。もう少し、お前の力になってやりてえ』……何度諦めようとしたって、結局俺は、お前のことだけは……何となく気がかりでならなかったんだ……」
ありふれた言葉。何気ないメッセージ。無毒無害な、平凡な夢だ。
だが、ラウルの夢は、エイダンにとっては――致命的な致死毒だった。
「……あ……」
エイダンは、ようやく、何かに気づいたようだ。恐る恐る、頭を抱えている。
「……あ……ああっ……」
視線が、ガクガクと、痙攣するように、震えだす。
呼吸が、明らかに、短く、加速する。
「……ぼ、く……が……」
かひゅっ――異常な呼吸音が、鳴った。
「あ、ああっ、ああああっ、ご、ごめんなさい、ごめんなさい……ぼ、ぼく、き、君の、両親、を、こ、こ、殺したんだ! きみを、あんな、く、暗い、地下室に、閉じこめて……それに、きみ、に、ぼくが、ぼく、が……! ぼくが、あ、あアっ……アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
エイダンは突然、壊れたように命乞いするようにラウルに謝りだした。
彼は怯えるあまりパニックに陥り、ボロボロと涙を流しながら後ずさっていく。目の前にいる平凡な親友を、この世で一番深く恐れ始めた。
彼はようやく、気づいたようだ。親友の両親を殺害したことを。その意味を。
彼はようやく、気づいたようだ。親友を半年近く監禁したことを。その意味を。
彼はようやく、気づいたようだ。親友を失いたくないあまりに、親友に対してそんなことをすれば、その結果、当然の結果、至極真っ当な結果、唯一の親友を永遠に失うことを。
だからこそ、今まで決してそのゲンジツだけは直視できなかったんだろう。
それでも彼は、見てしてしまった。自分の致死毒を。その意味を。その全貌を。




