第八話 最大願望への執着・3
リオはオレの前にしゃがむと、静かに、厳しく、告げてきた。
「あたまのいい奴ってのは、車や列車持ちの、消息代理人だ。奴らは人と違って、街から街へ好きなだけ飛び回れる。だからよ、『自分だけは世界中のこと知ってる』って、いい気なもんさ。けど、足が速すぎて、わきにある肝心なもんを、あっけなく見落としてんだ……」
その話の意味はわかる。だが、なぜそんな話をされているのか、理由がわからない。
オレは一体、何を諭されているんだ?
それを汲み取られたのか、リオは軽くため息をつくとーーおもむろに横に手を伸ばした。
見ればそこには、オレが捨てた古い胴体がある。あれは別に、もういらないものだ。
ただ、胴体のそばには、血溜まりができている。リオは迷うことなく、血溜まりの中から、何か拾い上げた。
「……あっ!」
ゾッと血の気が引いた。
リオが拾い上げたのは、オレが米沢から借りた、大事なドッグタグだった。
どうしてオレは、あんな大事なものを失くしたままだと、自分ですぐ、気づかなかったんだ?
真っ黒に汚れたリオは、黒い血で汚れたドッグタグに目を落としている。
「あたまが悪けりゃ、オレたちと同じ、のろまな徒歩旅だ。あとからノコノコ遅れて来るから、目ぼしいものなんざ、とっくに先を越されてる。けどよ、そんなもん、連中にくれてやれ。奴らが見落としてんのは、テンデ比にならねえくらいの、値打ちモンばっかりだ……」
リオは皮肉っぽく、鼻で笑った。
「この仕事やってると、そんなことばっかりだ。『足が早い』っていい気になってる連中って……オレにしてみりゃ、気の毒で、可愛いもんさ」
リオが顔を上げた。その黒い瞳には、オレに向けた怒りと、深い同情が混じっている。
「米沢、オレたちは、車も列車も持たねえ消息代理人だ。だったら、他の連中が見落としたもんを、オレたちは絶対、見落としちゃならねえ。『義理堅く生きろ』って、ニイサンたちが口酸っぱくして説教すんのは、そのせいだ」
押し殺された怒りと、深い同情の眼差し――オレは初めて、リオに叱られていた。
「車や列車持ちなら、気づかずスッ飛ばしちまうもん……それに気づくのが、のろまなオレたちの仕事だ。あたまのいい連中なら、見て見ぬフリしそうなもん……それにかじりつくのが、あたまの悪いオレたちの商売だ。『義理人情なんて時代錯誤』って言われる時代だ。だからオレたちは、ありがてえことに、この仕事で飯を食っていけるんだ……」
その話に聞きいるうちに、あれだけ気分がよかった爽快感が、みるみる冷めていくのを感じる。
「米沢……お前、自分がさっき言った言葉、よくよーく思い出してみろ」
「……」
「お前のような立派な身体が、オレに必要だと思うか?」
それに気づかされて、頭が、真っ白になった。
恥ずかしくなり、顔が熱くなり、猛烈な後悔に変わっていく。
どうしてオレは、忘れていたんだ?
リオはいつだって、美味しい料理と、ふかふかのベッド、ラジオのトークが大好きだと、言っていたじゃないか。
お腹を満たす満足感。眠りで癒やされる心地よさ。一期一会の出会いと別れ――それは、人間にしか味わえない、「生きる」という楽しみだ。
だが、生き物として当たり前な「生きる」という楽しさは、
動く死体のオレには――ひとつも、わからない。
ああ、怖い。本当に、怖い。
オレは、ココロまでゾンビになり下がっていたのか?
しかもオレは、「リオもゾンビになるべきだ」なんて、
恐ろしいことを、本心から、願っていた。
そのとき、リオがふとーー口元をゆるめた。
「……そいつを思い出してくれりゃ、別にもう、怒ったりしねえよ」
そう言って彼は――腕を振り上げてきた。
「あははっ! そーんな怯えた顔すんなよニイサン!」
とっさに硬直しているとーー彼はオレの首に、ニイサンのドッグタグをかけてくれた。
「……え……?」
「だーってオレたち、兄弟じゃん! 両親や故郷は違っても、血を分けたも同然の、兄弟じゃん! 出来の悪いニイサン叱るのも、生意気なオトウトの役目ってこと!」
驚いて見上げると、リオはオレに向けてーー大きく笑っていた。
朱い唇には血潮が流れ、真夏日寄りの大きな笑みが灯っている。
「君は……どうし、て……」
「大丈夫だよ」
「……」
「大丈夫だよ」
その笑顔を見ていると、ふと、祐天寺にいる彼の横顔を思い出す。
ああ、本当に、君たち二人は、血は繋がっていなくても、変なところがそっくりだ。
本当に、本当に、危なっかしい。
どうして君たちは、平気な顔して「大丈夫だ」と――。
「ウフフフフっ……どうにも実験はぁ、失敗のようだねぇ……」
ベッケンバウアーはそう言って皮肉っぽく笑うと、荷室の片隅に座り込んだ。
それを聞いて、ハッとした。まさかあいつ、また馬鹿げた研究を始めていたのか?
リオがオレを殺そうと決心するには、どんなファクターを必要とするか――それが知りたいと、博士は話していた。なら、恐らく、これもその実験のひとつだったのか?
オレが黒血種になれば、必ずうかれて、身も心もゾンビに成り下がる。そんな奴になれば、もはやリオも、オレのことをニイサンとは思わなくなるんじゃないか――あいつは、そんなことを実験したんだろう。
恐ろしいことに、ベッケンバウアー博士の狂気の実験は――成功するところだった。
「……ネエサン! またニイサンを助けてくれて、本当、ありがと!」
「フフっ、リオちゃんったらぁ、実に矛盾したことを言うねぇ。マァ、この方法では成功しないとの結果が得られたのだぁ。これで私の研究も、一歩前進したと呼べるだろうかぁ……」
オレはこの事態を目にして、冷静に、決断した。
「やっぱり、あいつは早々に……駆除しないと駄目だ……」
そのとき目の前にいるリオが、ハッと振り向いた。
「ま、待ってよニイサン! ネエサンがハチャメチャなことしちゃったのは、た、確かに事実だけど……でも! ネエサンを手にかけるのは、まだ……」
そんなことを言われても困る。
思わず眉をひそめて、首を横に振った。
「違う、リオ。駆除すべき害虫は、もっと別にいるだろう」
だが、なぜかリオはーー目をパチクリさせている。
「じゃ……ラウルのこと?」
「全然違う」
「なら、誰なのさ! 他にミミックなんて、誰もいないじゃん!」
ミミック? どうやらリオは、オレが「駆除」と言う意味を、少し誤解している。
「オレが駆除すべき害虫は……エイダンだ」
「えっ?」
荷室の反対側に座りこんでいるエイダンはといえば、オレたちに背を向けたままだ。ラウルの手を握り、うなだれている。
オレは、リオのニイサンとして、恥ずかしくない生き方を歩みたい。そう願うからには、あたまのいい連中なら早々に見限ることを、オレは絶対に見限ってはならない。
たとえ誰もが「手遅れだ」と諦める害虫が相手でもーー損を覚悟で手を尽くし、助けなければならない。
「エイダン・トカレフ……あなたには、少しお話を伺いたい」
「ある文筆家は、正当にもこう述べている。
本当に大切なのは、正しい道にあることだけである。そうすれば、ほかのすべてのものは、おのずから与えられる、と。」
――カール・ヒルティ




