第八話 最大願望への執着・2
全身が、痙攣し、暴走し、激しくのたうち回っていく。
リオは怯えた声をあげ、オレの身体を押さえつけようとしてきた。だが、身体はそれを歯牙にもかけず、猛り狂い、暴れ回っている。
これが人間のすることじゃないと、わかっている。
これが人間の反応じゃないと、理解している。
それでもオレの肉体は、内部から、強烈な違和感に、蹂躙されていく。
違和感――違和感だ。知覚しきれない膨大な痛みが、違和感となって、爆発する。
体内に数十億といる細胞が「ここにいたくない」としきりに叫んでいる。その救いようのない違和感が、膨張し、増殖し、逃げ場を求め、暴れ回っている。その膨れ上がった違和感に耐えかねて、四肢が勝手に、悶絶する。
だが博士は、それだけじゃ止まらなかった。別の注射器を取り出しては、オレの肩に打ち込み、注射器を取り出しては、次々と注射していく。
「ネエサン! ニイサンに何してんの!」
「なぁにリオちゃん、心配にはおよばない。これは立派な治療さぁ」
ベッケンバウアーは、手持ちの注射器を淡々と打ち込みながらのたまった。
「いいかい、リオちゃん。『必要は発明の母』、それは科学的にも同じことが言える。リビングデッドが次なる進化を遂げるには、その個体を瀕死に追いやることが、何より最も理想的。図らずしも、米沢くんはその条件を満たしている……」
ベッケンバウアーは結局、手持ちの注射器を、すべて打ち込み終えたようだ。
「私はここに、驚くべき新説を提唱したい……ジェミニのことを、脳に寄生した寄生虫であると捉えるのは、大きな誤りであった。ジェミニの目的とはぁ、『地球の生命』そのものへの、寄生である! 『地球の生命』の基本設計を作り変え、人間の肉体を素体とした、別の生命体を完成させることである!」
博士は急に、天を見上げて絶叫した。
「アァ、だが恐れるなかれ! ジェミニはまことに慈しみ深く、自己犠牲の塊である……ならばこそ、私は気づいたのだぁ! ジェミニは、『地球の生命』が抱く夢もまた、叶えようとしているのだぁ!」
興奮して息切れをおこしている博士は、恍惚としたため息をついている。
「ハァ……はぁぁああああぁっ……この病原体は、なぁぜこうも美しい慈愛に満ちているのかぁ……にも関わらず、ジェミニは何ひとつ、見返りを求めない……すべての夢を叶えることが、彼らにとては本望だとでも言うのだろうかぁ……」
博士は低い声で笑うと、急に確信めいた口ぶりで、断言した。
「フフ……そして現在、最も進化が進んでいるリビングデッドとはぁ……私の知る限り、ナンシー型の変異種、ブラック・ロータスである」
黒血種――その言葉が出た瞬間、リオがハッと息を呑んだ。
「まさか、ネエサンが打ち込んだのって……ブラック・ロータスの血だったの!?」
「エェ、その通りぃ……ウフフ、なぁにせブラック・ロータスとはぁ、『地球の生命』が理想とする姿に、最も近い。地球上のすべての生命体が、一体どのような夢を抱いているかぁ……それは当然、リオちゃんも直感的に、思い浮かぶだろう?」
「え、えーっと……」
「そうさぁ、『魂の不滅、死の克服、永遠の命を持つ生命体への進化』そのものさぁ」
オレの身体は、勝手に暴れ回るうちに、床にうずくまる形に落ち着いた。
強烈な違和感が、腹からこみ上げてくる。オレは背中を震わせーー大量の血を吐いた。
だが、床に広がったのは、もはや赤い血潮じゃなかった。ゾッとするほど黒かった。
「ネエサン、これって……」
「フフっ、その通りぃ……『魂の交流』を通じ、進化の情報が継承されつつある。要するにぃ、米沢くんの肉体は、今まさに、急激に進化しつつあるのだよぉ……」
オレは何度も咳き込んだが、もうこれ以上、吐き出す血はなかった。
何かが、頭の中に、一斉に流れ込んでくる。理解が追いつくより先に、どんどん情報が入ってくる。一体これは、何なんだ?
そのとき、博士のバッシュが擦れる音が、キュッキュと鳴り響いた。
「ナァ、リオちゃん。少しこれをお借りするよぉ?」
「うん! いいよ! 何でも使ってネエサン!」
オレは、意識が朦朧として、顔を上げることさえできなかった。
「……え……? ネエサン、待って! 待って! ちょっと待ってええええええええ!」
リオが何か、鋭く叫んだ。
直後、床にうずくまっているオレのうなじに、清々しい痛みが走った。
トン、トン、コロリーー額や、後頭部、こめかみが床にぶつかって、耳の奥に、小気味のいい音が響く。その度に、天地がクルクルと回っている。
ああ、なぜかずいぶん楽になった。
本当に、つらかった。体内に数十億といる細胞のひとつひとつが、同時に激痛を叫ぶような、強烈な違和感だった。
それがすべて、一瞬のうちに、切り離された。
いや、待てよ――切り離された?
切り離されたって、何が切り離されたんだ?
トン――オレの額が、車内の壁にぶつかった。そのとたん、天地の回転が、止まった。
そういえば、オレは床にうずくまっていたはずなのに、視界はいつの間にか、車内の壁を見つめている。それに、さっき感じた、うなじの痛み――。
べちゃっーー背後から、何かが血溜まりに倒れこむ音が聞こえた。
「に、ニイサン……ニイサンッ!?」
リオがオレの背後で絶叫している。
「ニイサン! 待って! やだ! 置いてかないで! 米沢ニイサン、返事して! 返事してぇえええええええええっ!」
猛烈に嫌な予感がする。
いや、だが、それはさすがに……あり得ない。
「リオ……何が起きたんだ?」
オレはそう言って、立ち上がろうとした。腕を使い、身体を起こそうとした。
「オレは、こっちにいるじゃないか」
だが、おかしい。口は普通に動かせるのに、身体の使い方が、いつもと違う。ずいぶん――面倒くさい。
いや――なんでオレは、こんな面倒くさいことを、考えているんだ?
自分の身体の、色や形――そんなものは、誰も普段、まったく意識しないはずだ。
ズルルルーー汚い水音が鳴り、何やら身体の周りで液体が変形している。
オレは荷室の片隅で、膝立ちになった。
恐る恐る、振り向いてみた。
荷室の反対側には、博士がリオの斧を手にしたまま、壁に寄りかかっている。
そのかたわらには、黒い血糊を浴びたリオが、床に座り込んだまま――。
首なしとなったオレの手を、堅く握り締めていた。
「……えっ!?」
オレはギョッとして自分の姿を見た。
こっちにも、ちゃんと胴体がある。
ただーー服装が全然違っている。
黒のパーカーに白シャツ、ありふれた黒染めのジーンズ姿。それは、リオが初めてオレを見つけてくれた日と、同じ姿だった。
だがオレは、すでに新しい身体の使い方を理解していた。
試しに黒い血溜まりに触れてみると、みるみる血液を回収できる。
それは、ただただ――解放的で、快感だ。
自分の身体が増えていく。自分の力が漲ってくる。
「ハ……ハハッ……」
口角が自然と、釣り上がっていく。思わず、自分の両手を、しげしげと眺めてしまった。
「アハ……ハッ、ハハ……」
身体が軽い。息を吸うだけで気分がいい。
新しい肉体は、生きているだけで、夢見心地なくらいあたたかいじゃないか!
「アッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!」
知らなかった。知らなかった。知らなかった!
オレはずっと、あんなとんでもなく古くて不具合だらけでクソッたれた肉体を使っていたのか! あんな惨めな寒気がずっとずっと止むことなく続くもんだから、生きているのは寒いのが当たり前だとばかり思ったじゃないか!
どうしてオレは、生まれたときにあんひどい肉体をもらったからって、馬鹿みたいに大人しく中に収まったりしてたんだ? 今まで何も考えずに「寒い寒い」って我慢してたなんて、馬鹿馬鹿しくて笑えるじゃないか!
オレは顔を上げた。リオはなぜか、怯えた目をしている。
「リオ、リオ! すごいぞ、この身体! この身体は本当に最高だ!」
興奮するあまりリオの肩を強く強く揺すぶった。
この子にはどうしても伝えたいことがある。
「なあ、リオ、君もリビングデッドになった方がいい! その身体って本当に寒くて寒くて使いにくいじゃないか! あっははは、馬鹿だなあ! 君もそんなみじめな身体を使って我慢しているのがかっこいいなんて思い込んでいるんだったら、この際さっさと捨てて――」
そのとき、オレの脳内でーー米沢の人格が、振り向いた。
は? 何で米沢、そんなに怒っているんだ?
オレは何も、間違ったことは言ってないじゃないか!
――目ェ醒ましな。
「……目ェ醒ましな」
そのとき、頭の中の米沢と、目の前のリオの声が、重なって聞こえた。
直後、雷が落ちるような、清々しい頭痛が走った。
オレの目の前が、一瞬、真っ暗になった。重い振動が頭蓋骨を反響し、脳を揺すぶられ、しばらく、思考が、停止した。
オレはいつの間にか、荷室の片隅で尻もちをついていた。
「……リオ?」
どうやら頭にげんこつを食らったのか、顎に頭突きを食らったらしい。
だが、なぜそんなものを食らったのか、理由がわからない。
見上げると、オレの前にはリオが立ち塞がっていた。
彼はおもむろに、口を開いた。
「……オレの兄弟が言ったことだ。『科学者はあたまが悪くなきゃ駄目だ』って、寺田寅彦っていう、あたまの悪い科学者が言ったって。……米沢、これ何でだかわかるか?」
目の前で、黒い血で汚れた髪が、サラリと広がる。
薄刃門リオは、厳しい眼差しをオレに向けていた。か弱い女の子の擬態を、バッサリと脱ぎ捨てていた。
リオが自分のことを「オレ」と呼ぶのは、かなり久しぶりだ。
オレはミミックとして生まれたてだった頃、リオが「オレ」という言葉を使っていたのを聞いて、自分でも使うようにした。ところがリオは、か弱い女の子に擬態するときに邪魔になるからと言って、「僕」という言葉を使うようになった。
それもこれも、三人のニイサンが亡くなったことがきっかけだ。
リオは自分を護るために、男らしく生きる道を諦めた。そしてこの仕事で生き残るために、か弱い女の子に擬態しなければならなくなった。
だからだろうか。オレは久しぶりに――薄刃門リオに再会したと感じた。




