第八話 最大願望への執着・1
――あなたの、おねがい、なに?
リオの話だと、人間の脳内には、自分しかいないらしい。
だがオレはリビングデッドだ。当然、頭の中には、数百億の人格がいる。
オレがヘレンの『おともだち』だったころ、脳内にいたのは、まだ数百万人だった。
ところがナンシーの『仲間』にもなってからは、数百億人に膨れ上がった。
だからきっと、あの人格はすべて、これまで『ジェミニ』が保存してきた、感染者の魂なんだろう。
ただし、数百億の人格はーー全員、オレに背を向けている。
脳内でどれだけ話しかけても、誰も返事をしてくれない。
いくら助けを求めても、誰も知恵を貸してくれない。
それでもオレの脳内には、何人か例外がいる。
優しいヘレンと、
賢いナンシー、
あと――。
***
「な……米沢」
オレは頭の中で、彼に話しかけてみた。
オレの名前も米沢だが、あの人格も、名前は米沢だ。何せオレの名前は、彼から借りた代物だ。
米沢が見ている心象風景に、オレも目を向けてみた。
彼の故郷、祐天寺の街並みが見える。
ぼんやりと明るく、雨が降っている。
駅前のロータリーの先には、寂れた商店街が続いている。駅前の雑居ビルには、点々と、コンビニの廃墟が見受けられる。
それ以外に目を引くものは……特にない。
本当にここは、華の大江戸、東京なのか? しかも郊外の街じゃないらしい。
それにしては、華がない。とても都心の街とは思えない。無個性そのものとしか言いようがない。
そんな中ーー相変わらず米沢は、何も言わない。
彼はただ、祐天寺駅で雨宿りしながら、故郷の街並みを眺めている。
「なあ、何で君はここにいるのに……君は、リオに会おうとしないんだ?」
そう訊くと、彼は少し肩をすくめただけだった。
短い黒髪の、二十歳過ぎ。茶色いジャケットにジーンズ姿。
彼は相変わらず、顔をこちらに向けてくれない。
「な、おかしいだろう。ナタリア・ベッケンバウアーを見ろよ。ナタリアは、ネエサンの人格を押しのけて、表に出ることがあるじゃないか。だったら君も、オレの人格を押しのければ、リオに直接会えるはずだ」
彼はといえば、少し首をひねり、面倒くさそうに頭をかいているだけだ。
「なあ、どうしてオレが、ずっと君から、遺品を借りているんだ……リオのニイサンの役目は、本来、君が持つべきものじゃないか!」
彼はただ、ぼんやりと明るい雨空を見上げいる。
「君も内心、オレを見て、あきれてるはずだ……オレが、リオのニイサンだなんて……」
つい肩を落として、ため息をつきたくなった。
彼と自分を比べるとーー自分が情けないと感じることばかりだ。
「オレは君みたいに……リオのためになる説教はできない。消息代理人として、手本を見せることもできない。せいぜい三食料理を作って、荷物を多めに持って、財布の管理や計算を任されて……これじゃあ、ニイサンっていうより……鞄持ちじゃないか……」
彼は何も反応しなかった。彼が眺めている祐天寺では、しとしとと小雨が続いている。
そのおだやかな無反応は、見ているとだんだん頭にくる。
「オレは、ただのミミックだ。リオに教えられることなんて……人の印象に残りにくい話し方。初対面で信頼を騙し取る方法。『優しい人だ』と思い込ませて、あとあと寝首をかくための、ありとあらゆる嘘の使い分け。そんなことを教えたって……」
これだけ愚痴をこぼしても、彼は振り向かないどころか、何も反応しなかった。
「米沢、オレはこの役目を……もう、君に返しても、いいはずだ」
彼はようやく反応を示した。ハッキリと首を横に振った。
「だが……どうして……」
しとしとと、小雨が降る音だけが聞こえる。
「オレは、君たちを……三人とも……」
彼は何も反応しなかった。
「だったら! オレが預かったら駄目じゃないか! 盗っ人にこれを貸すなんて、義理にもとるとは思わないのか!?」
思いつく限り挑発をぶつけてみたが、彼の背中は動かなかった。
彼は振り向きもせず、片手で指を結び、手話で告げてきた。
――だったらよ、なんでお前、俺の役目なんざ欲しがったんだ?
ギクリと、心臓が凍る思いがした。
「……そんなの……」
ゾワゾワと、不安が、寒気が、足先から登ってくる。
「あの子を、手放せないからに……決まってるだろう……」
そのとき、米沢はほんの少し横顔を見せてくれた。
その横顔は、少し笑っているように見える。
――同感だ。
――だからお前に、こいつを貸しておきてえんだ。
リオの本当のニイサンは、慣れた手つきで指を結び、手話で告げてくる。
――リオと共に、義理堅く生きろ。
――その約束を守れるんだったら、俺がお前に貸してやるよ。
それは、あのとき彼がくれた、唯一の命令だった。
その命令を守る限り、彼は遺品を貸してくれると、気前よく言ってくれた。
ただ、どうしてそんな無責任なことを言いだせるのかーーまるでわからない。
祐天寺の駅前では、今日も小雨が続いている。彼は駅前の柱にもたれかかり、ぼんやりと明るい雨空を眺めている。
彼の故郷、祐天寺の街並みは、良くも悪くも、特徴らしい特徴は何もない。
***
「止まって、止まって! なんでこんな、血が全然、止まんないの!」
車内には、リオの悲鳴じみた涙声が響いている。
ああ、なんだか、それを見ていると嬉しくなる。
リオがボロボロと泣いてくれた。貴重な包帯をありったけ使ってくれた。命が尽きないように、必死に手を尽くしてくれた。
リオはオレの腹部を圧迫して、「止まれ、止まれ! もう血が出ちゃ駄目だ!」と叫んでいる。
ただ、オレはその手を取って、ゆるく首を横に振った。
「リオ……もう、いい……」
すまない。こんなに頑張ってくれたけど……すべて、無意味なんだ。
何せオレは、ミミックだ。人間と違って、オレの身体は生命維持よりも、人間に擬態する方に血液が集中する仕組みになっている。
人間らしい肌の血色。人間らしい瞳の潤い。それを保つことは命よりも重い。
本当にオレは、人のココロに嘘を植えつけるくらいしか、得意なことがないな。
オレたちを乗せた車は、あっという間にニューケンブリッジの街中を突破した。
車は街の外へ出て、また旧時代の国道に入ったようだ。
そういえば、あいつは無事なのか? 心配になって、車内に目を凝らしてみた。
荷室の反対側では、エイダンがオレたちに背を向けたまま座り込み、ラウルの手を握って固まっている。
オレのそばで手を尽くしているリオの後ろには、白衣の女性が壁に寄りかかっていた。
「米沢くん……なぜ私を助けたのです?」
そのとき、車内が振動した。
うねりの強い髪が揺れ、彼女の顔の右側が見えた。火傷の痕は、すっかり消えている。
それを見てホッとした。リオのネエサンが、ちゃんと帰ってきた。
「……よかっ、た……お前……無事だった、か……」
「質問に答えなさい。なぜ私の命を助けたのです? なぜ自らの命を助けなかったのです? あなたが私を助けなければ、あなたは同時に、二つの目的を達成できたはず……」
オレはふと天井を見上げて、笑ってしまった。
身体にうまく力が入らない。どうにか腕を持ち上げ、首元からチェーンを引っ張った。
血まみれになったシャツの下からは、米沢から借りた、ドッグタグが出てきた。
「な……ネエ、サン……頼みが、あるんだ……」
オレは白衣の女性に視線を向けた。
だが、目が霞んで、よく見えない。
「これ……米沢から、借り、た……大事、な……遺品、だ……お前、も……名前が、ない、と……不便、だろう?」
オレの薄目からーー涙が、流れた。
「オレが、借りた、名、は……『米沢牛』……きっと……この名前が……お前のことも、護って……」
だんだん腕から力が抜ける。
米沢のドッグタグが、滑り落ちていく。
ああ、よかった。ようやくこれを手放すことがーー。
――あなたの、おねがい、なに?
そのとき、頭の中に、優しいコエが響いた。
それは、今――何よりも、聞きたくないコエだ。
「……や、めろ……ヘレ、ン……」
――ねえ、あなたの、おねがい、なに?
恐怖を感じて、恐る恐る、頭を抱えた。
それ以上聞こえると、また自分の願いを、思い出してしまう。
「もう、いい……オレ、は……」
嫌だ。
「これ、を……かえ、し、に……」
返したくない。
「ま、だ……」
諦めたくない。
ーーねえ、あたしたち『おともだち』でしょ?
――あなたの、おねがい、なに?
「は……はは……ははは、は……!」
オレは馬鹿馬鹿しくて笑ってしまった。
ヘレンは本当に、優しいヒトだ。そんな残酷なことを、いまさら思い出させるなんて!
気づけばオレは、またドッグタグを握り締めていた。
最初から、これはオレに、ふさわしくないと、わかっていたはずなのに、
あの願いが、寄生虫のようにねちっこく脳に絡みつき、
またオレのアタマに、寄生してくる。
どうせ、これがオレの本性だ。
あの子に借りたものを、オレはまだ、何ひとつ返したくない。
オレはまだ、あの子からすべて、騙し取ったままでいたい。
誰か、誰でもいいから、誰かがあの子を護ってやればいいのに、
誰もあの子を護らないのが、悪いんじゃないか!
だからオレは、みじめにも、いまだにこんなことを、願っているんだ。
リオと共に、義理堅く生きたい。
それがオレの――「最大願望への執着」だ。
「いいですか、いいですか? それを放棄することは、他でもなく……私が許しません」
リオのネエサンはオレの枕元に立つと――コクリと、首をかしげた。
「ウフフ……ではぁ、せいぜい強く祈りたまえ。そうでなくては私が困るのだからぁ」
見上げた先に、実験動物を見下すようなしたり顔が見えて、鳥肌が立った。
この一瞬でネエサンは、ナンシー・ベッケンバウアーの人格に切り替わったんだ。
「な、にを……」
だが、止める暇はなかった。
ベッケンバウアーは白衣の懐から注射器を取り出すと、おもむろに振りかぶり、オレの肩に突き刺した。
「……ぁっ……?」
得体の知れない何かを注射されーー反射的に、大きく目を見開いた。
オレは、しゃくり上げるように、短く、息を吸い、震えた。
「あ……ガッ……!」
次第に、息の間隔が、短くなり、
反射的に、肉体が、仰け反り、
オレは、恐る恐る、天を、仰ぎ見て――。
瞬間――何かプツンと切れたように、白目を剥き、長く長く、絶叫した。




