第七話 寄生虫の特効薬・5
一瞬、全身に、さざ波のような鳥肌が駆け巡った。
針のむしろを着せられたような、チクチクと痛む、鳥肌の波。それが津波のように、押し寄せてくる。
遅れて、オレの身体が、ドクリと、大きく痙攣した。
「……カ、はっ……!」
腹部に三発、銃弾を食らった。
肉体制御に集中し、身体の痙攣を、食い止めなければ。
だが、思考が――。
暴力的な。壊滅的な。脳神経が焼き切れるような。痛覚が。一斉に、脳内を。引っ掻き。思考が、途切れ――。
駄目だ。意識しろ。集中しろ。
痛みを感じるのは、オレの仕事じゃない。激痛に驚いていいのは、今じゃない。
今なすべきことを思い出せ。オレの役目は――。
「あれれ〜? さっきの銃声ってえ〜……ホンモノお〜?」
レイラという超長身な検問官が、甘ったるい声で疑惑をつぶやいた。
「もしも〜し? ……あらら〜。銀髪の子〜、気絶しちゃってるう〜」
リオが失神したのか? 検問官はそれを見て、何か確信を得てしまったようだ。
「……ふ〜ん? だったら〜、やっぱーー」
「こっ……小道具よォ!」
突然、助手席にいるニーナが、悲鳴じみた震え声で叫んだ。
「むう〜? 小道具う〜?」
「ば、馬鹿なこと言わないで、小道具に決まってるでしょ! そこらへんに落ちてる薬莢に、手作りの火薬玉を詰め込めば、実銃を使った空砲なんて、か、簡単に作れるわ!」
「へえ〜、そうなんですかあ〜?」
「そ、そうよ! あんた、こんな簡単なことも、し、ししし知らないの!? 私の、街じゃ、一から十まで数えられない子供だって、この手のイタズラ、は、やり方、を、し、知ってるのよォ!」
だが、ニーナの弁明は、どうにもチグハグだ。
口先ではそれらしいことを言ってのけたが、声の震えが、動揺ぶりが、すべての反応が、如実に真実を物語ってしまっている。
早く、オレがどうにか、誤魔化さなければ。
それでも、内臓はミキサーにかけられたように、グチャグチャに損傷し、痛覚が金切り声をあげてのたうち回るような激痛が、ピークに達したまま、いつまでもいつまでも、終わらない。
「……ッ、は……グッ……」
だが、リビングデッドは気絶しない。死んで楽になることも許されない。
人間ならば、確実に気絶するはずの痛みだろうと。
人間ならば、耐え切れずショック死するはずの激痛だろうと。
リビングデッドのオレは、意識を失うことさえ、許されない。
オレはそもそも、人体に有害でもなければ、無害でもない。
何せオレは、最古参にして、最弱の変異種と呼ばれる――擬態種だ。
「……ニーナ、これ、いつもと鳴り方が違うけど……平気だ、いつもの空砲だ」
「え……?」
身体の痙攣を抑え、なるべくスムーズに、肩をほんの少しすくめてみせた。
足元に目を落とせば、すでに大きな血だまりができている。
だがニーナも、検問官も、オレの背後にいる。激しい出血は、見られていない。
ならばオレが、無事な人間に擬態すればーーまだ、どうにかなる。
くだらない。本当に、オレの能力なんて、くだらないものだ。
オレの能力なんてーーせいぜい人のココロを操る程度なんだから。
「あのな……誰だよ、いつもより火薬を、多めに詰めた奴……オレも実弾かと思って……見ろよ、せっかくいい流れだったのに、稽古が止まっただろう……」
オレは肩の力を抜き、余裕ありげに構えてみせ、平気そうな人間に擬態した。
あの発砲音は、すべて勘違いだったと思い込ませるために。
人が撃たれたと騒ぐなんて、間抜けな誤解だと印象づけるために。
「まったく……本番近いからって、こんなはしゃいだことするな……確かに火薬代は、オレが持つって言った。言ったけど……あれは、いい稽古するために、必要だと思ったからだ。稽古の邪魔するクラッカー作れって意味じゃない……」
すると助手席から、ニーナがホーっと安堵のため息をついたのが聞こえた。
「そ、そう? あ、はは……あはははははは! な、なーんだ、ご、ゴメンなさい、私、も、つい、勘違いしちゃって!」
「ニーナ、頼むから……泣くのはよしてくれ。別にどこも、痛いわけないだろう。そろそろ稽古の続き、始めてもいいか……?」
「や、やだ、ごごごゴメンなさい! 私ったら、皆んなのリハーサル、一番邪魔してるの……私じゃない!」
ニーナはしばらく、鼻をすすっては「ゴメンなさい、ゴメンなさい」と言って、安心しきった様子で笑っていた。
オレは顔を上げ、即興劇の共演相手、エイダン・トカレフを見定めた。
さて、リハーサルを続けよう。
残る検問官にも、ゲンソウをねじ込み、オレの支配下に置かなければ。
オレは「米沢」役の落ち着いた声に戻りーー淡々と告げた。
「……よせエイダン。あの方は恩人だ。治療が成功すれば、ラウルは助かるんだ」
「わかった殺すね」
エイダンは魂の抜けた人形のように空虚な笑顔で、拳銃に指をかけている。
オレはとっさに銃口を掴みーー奥へ押し込んだ。
ショートリコイル方式は、これが弱点だ。エイダンは何度も引金を引いているが、ロックにつっかえる音が鳴っている。
「……しょうもない、しょうもない、しょうもない! さっさと手を放してくれ!」
エイダンは急に怒鳴り散らすと、遮二無二になって暴れだした。
オレが銃口を押し込んだだけでロックがかかったならば、手を振りほどけば、ロックは簡単に外れると、わかっているようだ。
エイダンの馬鹿力に振り回される形で、オレは車の壁、天井、窓ガラスに頭をぶつけた。そのたびに傷口が開き、新鮮な激痛が目を醒まし、痛覚が金切り声で叫び散らしながら、脳内を引っ掻き回してくる。
だが、この拳銃の主導権を、握らせるわけにはいかない。あと一発でも銃弾が飛べば、この即興劇のど真ん中に、修復不可能なレベルで、大穴が空くに違いない。
これは舞台だ。すべて芝居だ。全部フィクションだ。現実に関わるものなんて、ここには一切、存在してはならない。
だからこそ、オレに求められているのは――被弾してなお怯むことなく、重傷を負ってなお立ち向かい、暴走しているエイダンを取り押さえようとする、人間離れした人間を演じることだけだ。
互いに揉み合ううちに、オレの返り血が、拳銃にべったりとかかった。
今しかない。オレが渾身の力で腕をねじり上げると、血でぬめっている銃は、ズルリとすり抜け、エイダンから取り上げることができた。
あとは、あとすべきことは――マガジンを抜き、装填された弾を排除すれば、この場は完全に、オレがコントロールできる。
だが、リハーサルも続けなければ。拳銃からマガジンを抜き取りながら、何か芝居っぽいセリフを叫んでおこう。
「エイダン、目を醒ませ! ラウルの恩人を殺す気か!?」
「そうだよ」
エイダンはおもむろに、オレの上着に掴みかかると――。
「あはは、ありがとう、米沢――ラウルの代わりに、君が、死んでくれるんだね?」
虚ろな笑顔と目が合った瞬間――オレのかかとに、コツンと、小さな力を、感じた。
一瞬、何が起きたか、わからなかった。
浮遊感――オレの背中が、重力に吸い込まれ、床に引きずり込まれる。エイダンに、足を引っ掛けられたんだと――知った。
しまった。
と、思っても、もう遅い。
そういえばーーそうか。
これはフィクションじゃない。リハーサルじゃない。オレたちは役者じゃないから、エイダンの言葉は芝居じゃない。どうしてそんな、当たり前なことを、すっかり忘れていたんだ。
オレは今――現実にいる。
「…………………あっ」
オレの背中が、床に打ちつけられ――衝撃を感じた瞬間――エイダンの膝が、深く、腹に――めり込んできた。
「がッ………………………………………………………!」
長い、長い、耳鳴りが。
永く、永く、反響し――。
エイダン。の。膝、が、グチャグチャ。に、潰された。内臓。に、容赦な。く。
痛覚が。頭が。割、れ。息が。でき、な。
だが。
オレ、は。まだ。人間に、擬態。しな。け、れば。
するとエイダンは、おもむろに胸ぐらを掴んできた。
「ぼくたちが死のうと、生きようと、世界はお構いなく回るだろうさ。でもラウルだけは、ぼくは絶対に嫌なんだ! あいつの苦しみは、ぼくの苦しみだ! あいつの流す血は、ぼくの流す血だ! あれだけ死にたくないって願ったラウルを殺したんだ。ぼくはラウルの親友として、一番の大親友として、そいつを殺さなきゃ駄目なんだ!」
そんなことを、好き勝手に叫び散らしているのを見た瞬間ーー。
「……………………は?」
頭の中がーー真っ赤に充血していくのを、感じた。
いつもいつも、この人間は、平気な顔して、何を言ってるんだ?
駄目だ。絶対に駄目だ。この人間だけは、そんなことを言ったら駄目だろう。
裏切り者が何を言う。自分を棚に上げて何を言う。
そんな綺麗事を言っていいのは、外面も内面も綺麗な人間だけだ。
言葉と、心と、行動ーーそのすべてに筋が通った真っ白な人間しか、それを語る資格はないはずだ。
「エイダン……ラウルのためだなんて、聞こえのいいことを言うな……」
何がラウルのためだ。何が親友のためだ。
外面だけを整えても、オレの目の前には、我慢ならないほどあからさまな矛盾が、ありありと露呈している。
「こんなこと、わざわざ口に出して、指摘するのも馬鹿らしい……ラウルの命令は何だ、言ってみろッ!」
気づけば、怒りが突沸して、本心を叫んでしまった。
「……こんなこと、君を見れば、誰でも気づく。気づいてないのは、君だけだ。君は親友のため、親友のためなんて言っておきながら……その親友を、あと何回裏切れば、君は気が済むんだ!」
オレが本音をぶつけると、エイダンは笑顔を凍らせ、何も言い返さなかった。
「……ラウルは『死にたくない』と言った。ナタリアはその命令を叶えてやれる、数少ない人間だ。彼女はすでに、手を尽くした……あとは祈るしかない。祈ることしか、オレたちにできることは、ないはずだ!」
オレは逆に、エイダンの胸ぐらを掴んだ。
「だったら今……君がしてることは何だッ! 言ってみろッ!」
エイダンは、しばらく何か、言い返そうとしていた。
だが、なぜか長くため息をついて――黙り込んだ。
そのとき車外で、エンジン音が近づくのが聞こえた。
次の車が、検問の列に並んだようだ。
検問官のレイラは、急に興味を失ったのか、
「そろそろ行っていいわよ〜。君たちのお芝居はあ〜、もう十分、わかった〜」
と言うなり車を離れ、検問所のバーを上げてくれた。
エイダンが着ている青いシャツは、オレの血をべったりと浴びている。
助手席にいたニーナが、とっさに運転を代わってくれた。
***
車が動きだしたようだ。荷室に寝そべっていると、背中にエンジンの振動を感じる。
オレはそれを確認してーー脱力した。
どこからともなく、米沢、米沢と呼ぶ声がする。
あの子の匂いを近くに感じる。
「な、リオ……けんもん、は……?」
そう訊いた瞬間ーー小さなぬくもりが、オレの頭にしがみついてきた。
ああ、そうか。もう、即興劇は終わったのか。
だとしたら、オレもそろそろ「米沢」役を降りるときが、来たようだ。
「リオ……」
あたたかい。米沢、米沢と、オレの名前を呼んでもらっている。
この子が貸してくれた、大事な名前。死神に言い訳が立つ、縁起のいい名前。
ただ、せっかくこの子が、この名前を貸してくれたのにーー。
「もう、君のニイサン、を……演じられ、なく、て……すまない……」
「人間は中途半端な死体として生まれてきて、一生かかって完全な死体になる。」
――寺山修司




