第七話 寄生虫の特効薬・3
荷室の片隅で、白衣の女性がーーゆらりと腰を上げた。
オレは博士の態度に、違和感を覚えた。
妙だーーいつもと雰囲気が違う。
だが、リハーサルはとっくに始まっている。
後部座席にいるリオは、慌てて懐から手帳を出した。あたかもそこに脚本があるかのように、大々的に広げている。
ただ、台詞の読みあげが始まった瞬間ーー後ろで聞いていて、頭を抱えたくなった。
リオにとっては、これが声優初挑戦。可愛い大根役者の三文芝居が始まってしまった。
「えーっと、ニイサン、ビッグニュースがあるの! この人、研究者の、ベッケンバウアー博士! 博士が、開発した……治療薬? で、ラウル、治せるかも、しれなくて……」
それを聞きつけ、白衣の女性がーー高らかに笑った。
「ククッ……ハハハハハ! 『治るかもしれない?』いやはや、極めて正確性に欠けるねえ。『かもしれない』ではなく、『治る』のだよお……」
白衣の下に、あでやかな真紅のドレスを着込んだ女性だ。彼女は車内で身を屈めたまま、赤黒のバッシュを鳴らしつつ、オレたちに歩み寄ってくる。
「フフフ……私が治療法を知らないはずがなかろう? 何せリビングデッドとは、私の愛し子そのものであり……最も世に広く知れた、私の最も偉大な研究成果なのだからねえ……」
右腕のない彼女は、左腕で頭の包帯を解き、素顔を少しずつ、明かしていく。
オレが床に組み敷いているラウルは、その素顔を見上げてーーハッと顔をしかめた。
「……テメエ……ペドロフに住み着いてた、クソ研究者じゃねえか! 何でここに!?」
ラウルはあの顔に見覚えがあるのか?
なるほど。どうやらペドロフという街を滅ぼしたのは、ナンシー型のミミックだったようだ。
ただ、博士が紫髪をかきあげたとき――顔の右側が、大きく爛れているのが見えた。
……違う。あれはいつもの、あいつじゃない。いつもリオのそばにいる、ナンシー・ベッケンバウアーの人格じゃない。
オレの知る限り、顔にあれだけ大きな火傷を負った人物といえば――。
「初めまして、ナタリア・ベッケンバウアーだあ。この旅人たちに同行すると共に……ささやかながら、研究者として活動している。……よろしく」
白衣の女性は薄ら笑いを浮かべ、ラウルに初対面の握手を求めだした。
オレは絶句した。よりにもよって、あいつの表に、ナタリアの人格が出てきた。しかもこの即興劇の舞台上に、いけしゃあしゃあと、本人役の本人として出演してきた!
仰向けに寝ているラウルは、手を差しだされるなり、恨みがましく彼女を睨み上げた。
「テメエ……チグハグなこと言ってんじゃねえよ! お前のせいで俺は――」
「握手は嫌いかねえ? ……変わった子だあ……」
真紅色の革手袋をはめた左手は、再び、白衣のポケットに収まった。
ナタリアはラウルの前で膝をつくと、しげしげと観察を始めている。
「君の願いは何だい? 君が今、心に抱く、最も尊く、大切な願いとはあ?」
ラウルは舌打ちすると、すっかり口を閉ざした。
そんな大事なことを軽々しく訊かれても、断固として明かしたくないんだろう。
だが、今この場は、現実じゃないことになっている。あくまでここは芝居の舞台上だ。
ラウルには気の毒だが、オレはこっそり手話を始め、「これは芝居なんだから、何か言ってくれ」と伝えた。
ラウルは舌打ちすると、奥歯を噛みしめーー渋々ながら打ち明けてくれた。
「俺は……どうにかして、早く、死にてえんだ……もう、誰だっていい! さっさと俺を殺せ! もう、時間がねえ。俺は自分が、わからなくなっちまう。だったらーー」
「嗚呼、それは気の毒だねえ、実に気の毒だあ。だが君い、困るよお。君はひとつ、根本から、私に嘘をついているのだろう?」
ナタリアはうんざりした顔して、ため息を聞かせ、ラウルに軽蔑の目を向けている。
「君もヘレンから教わっているはずさあ。君が知らないはずがなかろう? 何せ君は、私の手を借りなくとも、もうすぐ、あと数週間で……命が、尽きる……」
「な、何言って……」
「ウフフ、君は本心から願ってなどいない。『さっさと死にたい』『早く殺してくれ』……それはあくまで、君の建前に過ぎない……」
「ち、ちがっ……」
「さあ、私に明かしたまえ……君の本当に願い求めていることを……君が焦がれてやまない、願いとやらを……」
ナタリアはしたり顔で、何かをそそのかしている。
「別に、俺……本気で、死にてえって……」
だが、床に寝そべっていたラウルが――ハッと息を呑んだ。
「ちっ……違う! ヘレン、やめろ!」
恰幅のいい青年が、脳に巣食う小さな寄生虫を相手に、必死に懇願を始めていた。
「やめろ! やめろって言ってんだヘレン! 今のは願ってねえ! 俺の願いなんかじゃねえ! 頼む、さっきの頼みは聞くんじゃ――」
「フフフフフっ、君は理解が早くて助かるねえ」
「違う! 違う違う違う! 俺は考えてねえ! 何も考えたりしてねえ!」
「いいえ、君はようやく気づいたのだあ……そして君は本心から、それを願い求めている……『求めよ、さらば与えられん』、この言葉通りの自然現象が、今から君に、起こるだろう……」
ナタリアは急に顔を上げた。
観客席にいる検問官に向け、偉そうに解説を始めている。
「いいかねえ? 私の研究プロジェクトでは、リビングデッドに巣食う病原体を『ジェミニ』と呼んでいる。ジェミニを受け入れた者は、自らの願いへ強烈に執着するようになり、その執着は、永遠に終わらなくなる。この現象を、私たちは最大願望への執着と呼んでいる……」
ナタリアは白衣のポケットから左手を出すと、うっとりと目を細め、観客席を示した。
「これがどれほど素晴らしい症状か、君たちもよくよく、理解できるだろう? そうさあ、ジェミニを受け入れた者は、どのような試練に直面しようと、必ずや悲願は、遂げられる。フフフ……まさしくジェミニとは、『すべての願いを叶える寄生虫』に他ならない……」
ナタリアは天井を仰ぎ見ると、神の栄光を賛美するように、朗々と語った。
「だが嘆かわしいかな! ラウルくんの最大願望への執着は、叶わぬ夢を願ったがために、ある種の膠着状態に陥っていた。だが、案ずるなかれ……彼もようやく、気づいたのだあ。そうさあ、彼の願いは、もはやキセキを頼るより他にない……」
「い、意味がわかんねえ、意味がわかんねえよ!」
ラウルが急に怒鳴り声をあげ、暴れだした。
「そいつのどこが、俺の治療になるって言うんだ!」
オレはラウルの馬鹿力で押し退けられーー車内に背中を打ちつけた。
ーードスンッ!
だがラウルは、起き上がろうとした瞬間ーーナタリアにジイっと目をのぞき込まれた。
「なあに、リビングデッドの治療法とは、極めてシンプルさあ……」
蛇が蛙を睨みこむように、ナタリアは視線だけで、ジリジリとラウルを押し込んでいく。
「誘惑から逃れる唯一の方法、それは誘惑に屈すること……誘惑を受け入れ、本能を満たし、その浅ましい願いを叶えるのだ。それ以外に、君の病を癒やす道は、残されていない……」
ラウルは、その目に見入られるうちに、その言葉に聞き入るうちに、恐る恐る、後ずさりを始めた。
だが、すぐに後部座席に行き当たった。それ以上、逃げ場はない。
「な、何だよ、それ……そんなもん、何の解決にもならねえだろ!」
「そうさあ、その通りい。これぞまさに理想的な治療法! 君がどれほどこのキセキを待ちわびたことか、私もよくよく、共感できるよお……」
ナタリアは、ガバリと身を起こした。
「病める者は癒やされ、すべての願いが成就し、人類が分断を乗り越え、ひとつとなるのだあ! ハアァアア……人間という動物が長年患っていた根源的な疾患があ、すべて、そう、すべて! 解決する! これぞまさに、キセキの特効薬である!」
片手で白衣を広げると、内側には、ビッシリと試験管が並んでいた。
彼女はそのうちの一本を取り出し、歯で試験管の栓を抜いた。
オレは、ナタリアが何を試みようとしているか、察した。
恐らくラウルも、この治療を受け入れれば、何が起きるか、察している。
「さあ少年、強く強く願うといい。その願いは大切だあ。君の願いは永遠になる。科学的な根拠のある話さあ。願いの強さはこの治療において、何より重要なファクターだあ。だからせいぜい、君も強く祈るといい。そうでなくては私が困るのだから……」
ラウルが見上げる先で、試験管が傾いていく。
このままでは、あのおぞましい色の液体が、ラウルの口に、滴り落ちる。
だが彼は、口を閉ざそうとは、しなかった。ただ、涙一筋、流した。
「オイ……これで、俺の夢は……叶うん、だな……?」
「ええ、叶うともお……ただし君があ、その願いを心から願い求め、神が聞き遂げられるほど強い願いであるならばあ……必ず叶う。これはそういう思考実験なのだあ……」
ナタリアの口ぶりは、甘い香りがする大罪へと誘惑するように、ラウルの思考を、とある方向に誘導している。
「さあ少年……私に聞かせておくれえ? 君の願いは、何だい?」
それでも、ルドルフ・カラシニコフという平凡な名前の青年は、
ありふれた夢を――切に願った。
「俺は、まだ……死にたく、ねえ……」




