第一話 黒蓮は雪より出でて雪に染まらず・3
しばらくすると、ベッケンバウアーが遅れてノコノコと追いついてきた。
「おやぁ? リオちゃんも恐ろしいことを始めたねぇ」
「頼む、ベッケンバウアー。こればっかりは、お前の知恵を貸してくれ」
「フフッ……断る」
「断るなよ、まだ話してもいないんだ……」
すると博士は鼻で笑い、畳みかけるように冷たい言葉を浴びせてきた。
「君の話はどうでもいい。心底どうでもいい。そぉんなことよりもぉ……気になるのは、あの変異種の型だぁ。さっさと君の嗅覚で確かめたまえ。報告せよ。私は待たされるのが嫌いである……」
博士にそう急かされ、オレは渋々マフラーを下げた。
独特の刺激臭がする。
だとしたら、間違いない。
「あいつ、ナンシー型だ」
「ホゥ、興味深い……」
いや……何が興味深いだ。博士も同じナンシー型のくせに。
「あのなベッケンバウアー……だいたいお前、あいつと同じ『仲間』なら――」
「お・だ・ま・りィッ!」
ガツンッーー博士はブーティのヒールで、オレのスニーカーを踏み躙ってきた。
あっ、靴紐がほどけた。
「いいかい、米沢くん……私は本物の『ナンシー・ベッケンバウアー博士』である。いい加減、私をリビングデッドだと言い張るのは辞めたまえ……いいねぇ?」
博士は高慢極まりない態度でオレを睨みながら、威圧的に命令してきた。
つくづく思う。これだからナンシー型の擬態種は面倒くさい。どいつもこいつも、自分こそが本物の「ナンシー・ベッケンバウアー博士」だと言い張るんだから。
だが、彼女はオレの命令権限を持っている。渋々ながら、うなずくしかない。
「はいはい、その命令に従う……従うから、さっさと足をどけてくれ」
オレは適当に博士の脚をあしらい、スニーカーの靴紐を結び直した。
顔を上げると、リオがブラック・ロータスを背負おうと、あれこれ悩んでいる。
何せ、ボロボロに風化したリビングデッドだ。一体、何年、何十年、ここで吹きさらしになっていた個体かわからない。
「なあ、ベッケンバウアー、お前も知恵を出してくれ。オレは絶対、あいつを連れて行こうって考えには反対だ」
「マァ、無理もない。何せあの個体は――」
「あいつを連れて行くって言われても……一体どうやって、街に入れって言うんだ」
するとベッケンバウアーは、急に驚き顔でオレを見た。
「米沢くん、冷静に考えたまえ……果たして今は、そんなことを心配している場合かねぇ?」
なぜか博士は、愕然として硬直している。
「……なんだ? オレ、何か変なことでも言ったか?」
「ハァ、やはり君はぁ、正気ではない……」
博士が「やれやれ」と大げさに頭を振ると、ゆるくウェーブしている紫髪が、顔の右側を隠すようにかかった。
「米沢くん……何も疑問に思わなかったのかねぇ? リビングデッドが人間を前にして、攻撃を中断したのだぁ……私もこうしたケースは初めて見る。なぜあのような不可解な現象が起きたものか……現段階では、何も推測しようがない」
彼女は前髪をかき上げると――うっとりと目を細めた。
「アァっ、リオちゃんったらぁ……そのような相手を、すでに完璧に信頼している。これ以上ないほど不気味な予感のする、得体の知れない平和ではないかぁ。一刻も早く、あの変異種がどのような願望を抱いているか、私も解明を急がなければ……」
なんだ――そんなことか。
やっぱりこいつとは、相容れないな。
この期におよんでゾンビ研究のことで頭が一杯だとは、恐れ入る。
「お前な……少しはリオの身を案ずるってことを覚えたらどうだ、薄情者」
「フフフ、米沢くんの目は節穴かぁい? 私はリオちゃんのことを……そう、心から! この上なく! 愛……愛っ、愛ッ! あぁぁあ〜いしているではないかぁああ〜っ!」
しまった。変に刺激してしまった。わらに火種でも与えたようにみるみる燃え上がり、熱情が爆発しているようだ。
「アァッ! 私の愛し子っ! 私のリオちゃん! なぁ〜ぜ愛さずにいられようかぁあああああっ! はぁぁああああっ……リオちゃあああああんっ! 私はっ! 君をっ! あぁぁああぁぁあああああいしているよぉおおおおおっ!」
片腕だけの博士は、紫髪をかき乱しながら、天を仰いで絶叫している。
その熱烈なプロポーズに対して、リオは忙しそうに、
「ありがとネエサン! 僕も大好きだよーっ!」
と、手短に返していた。
リオは今、ブラック・ロータスをどう背負うべきか、悪戦苦闘している最中だ。
オレは対岸の火事でも眺めるような冷めた気分で、ため息をついた。
「……はいはい。どうせ研究用のモルモットを可愛がるのと、同じ理屈なんだろう?」
「フククククッ……一体それの何がいけない。我が愛し子を、研究対象を、より深く、密に、知りたいと願う親心はぁ……アァ、何者にも止めようがない……そうさぁ、研究は続けなければ……ハァ、私の愛し子……研究を……実験を……真相の、究明を……」
ベッケンバウアーは白衣のポケットに手を入れると、喉の奥で低く笑いながら、よろよろと二人に歩み寄っていく。
ポケットから、あいつが棒付きキャンディを取り出したのが見えた。
どうやら博士は、本腰を入れてゾンビ研究を始めるようだ。彼女はブラック・ロータスの肩を叩き、何か囁いている。
「ときにぃ……君の願いは何だい? 君が今、心に抱く、最も尊い願いとはぁ?」
そう問われたブラック・ロータスは、重く、思い詰めた声で、何かつぶやいた。
「……んだ、ほうが……」
「……」
「リビング、デッド、に、な、って……きる……くら……な、ら……」