第一話 都市伝説の体験談
街の外で亡くなったのも事実で、街の中でご存命なのも事実だ。
何も不思議なことじゃない。どこも矛盾していない。
なぜなら、この世界には――。
しんしんと降り注ぐ雪は、いつの間にか、暗く冷たい雨に変わっていた。
地面はぬかるんだ土に変わり、茶緑色の旅路が続いている。
まだ日没前の時間だが、森の中はすっかり暗い。
リオが手にしている燃料式ランプだけが、足元を照らす唯一の頼みだ。
ただ、細道を曲がった先にーーぽつねんと、トンネルが現れた。
オレはつい、眉をひそめて訊きたくなった。
「な、リオ。この先の街って……本当にまだ、人が住んでいるのか?」
「え? なーに言ってんの米沢ニイサン! ほら見て! 看板に『ようこそイヴァノフへ! この先300メートル、街の入り口』って書かれてるじゃん!」
リオはレインコートのフードを押し上げると、自信たっぷりに指さした。
「や……それにしたって、このトンネル……」
ぴちょんーートンネルの奥から、雨垂れの音が響いた。
その水音は、どこまでも深くーー深くーー反響していく。
「……中に入っても、大丈夫なのか……?」
イヴァノフという街は、険しい山間に作られた、天然の要塞に護られた街らしい。このトンネルをくぐらなければ、街の中には入れないそうだ。
ただ、このトンネルの壁……かなり昔に作られたのか、だいぶ亀裂が入っている。軽く押しただけでも、簡単に崩落しそうだ。
なのにリオは、カラカラ笑うと、「平気、平気!」と言いだした。
「米沢ニイサンったら、まーた心配性が発動しちゃってー。ほら! トンネルの向こうに、明かりが見えるよ? きっと街の門は、すぐそこなんだよ!」
確かにリオの言う通り、一応、トンネルの向こうには、ロウソクの火よりも小さな灯りが、かすかに揺れている。
ただ……猛烈に嫌な予感がする。
「リオ……万が一ってことがある。リビングデッドが奇行を繰り返して、人をおびき寄せるために、明かりを灯しているのかもしれない。あの街はとっくに――」
「はいはーい、ニイサンの言う通り、重々気をつけまーす。じゃ、僕は入街審査を受けてくるね? ちょっと荷物、預かってて!」
リオはそう言うと、有無を言わせぬ明るい笑顔で、リュックを押しつけてきた。
彼が駆け出したとたん、スニーカーの靴音が、狭いトンネルの中を反響して、みるみる遠のいていく。
「……オレが心配性なんじゃない。君が盲目すぎるんだ……」
そんな不毛なことを独り言ちながら、オレもあとを追って、トンネルに踏み込んだ。
ランプはリオが持って行ってしまった。トンネルの中は、完全な暗闇だ。
オレは仕方なく胸ポケットに手を入れた。油がもったいないが、ライターに火を灯し、出口を目指して真っ直ぐ歩こう。
カツーン、コツンーー自分の靴音と、となりのベッケンバウアーの靴音が、ズレたテンポで反響している。
壁に触れてみると、どうやら、よくあるコンクリート製のトンネルらしい。
オレのとなりで、ベッケンバウアーもまたトンネルの壁をしげしげと観察している。
「フム、なるほどねぇ……この街のリビングデッド対策は、このトンネルが基盤となっているのだろう。万一のときは、このトンネルさえ封鎖してしまえばぁ、リビングデッドは街へ侵入できない……そういう都市構想なのだぁ」
確かに、ほとんどのリビングデッドは、這う・歩く程度のことしかできない。世界に蔓延る99%以上の個体は、このトンネルをくぐらなければ街に入れないのは事実だ。だからリビングデッド対策は、これで十分だと考えたんだろう。
ただ……ここの街人は、少しは疑問に思わなかったのか?
トンネルの奥に引きこもるだけで安全に暮らせるんだったら、そもそも誰も苦労しない。
なぜならこの世界には――。
すると、トンネルの向こうからスニーカーの靴音が反響して、リオが戻ってきた。
「ん……おかえり。ずいぶん早かったじゃないか」
オレはライターをしまい、笑顔で出迎えた。
だが、なぜかリオは、戸惑った顔してうつむいている。
「……ニイサン、ネエサン。実は、良いニュースと悪いニュースがあるの……どっちから聞きたい?」
何だ? 珍しく慎重だな。普段ならめったに見せない、真面目な顔をしている。
それなら、こっちも真剣に話を聞いておこう。
「じゃ……先に悪いニュースから話してくれ。向こうで何があったんだ?」
リオは青いレインコートのポケットから、一枚のドッグタグを取り出した。
「僕の手元には、『ルドルフ・カラシニコフ』さんの消息があるけど……『それは何かの間違いだ』って、言われちゃったんだ……」
それを聞いてーー眉をひそめずにはいられなかった。
「や、何かの間違いって……リオ、本当にそう言われたのか?」
普通に考えれば、それは絶対、あり得ない。
ドッグタグには、これを届けるべき街の名が刻まれているんだ。誤配送が起きるはずがない。
ーーぴちょん……。
ああ、そうか。
少し頭を冷やせば、すぐに話のタネが読めてきた。
これはタネさえわかってしまえば、かなり拍子抜けな話だな。
「じゃあリオ、良いニュースの方も、ぜひ聞かせてもらおうじゃないか」
一応、リオの顔を立てるためにも、あえて訊いておいた。
ただし良いニュースの中身は、わざわざ聞くまでもない。
そもそもリオの手には、消息の証拠品、ドッグタグがあるんだ。だから間違いなく、間違いがあるとすれば、オレたちの方じゃない。「何かの間違いだ」と言いだした、街の側に問題がある。
恐らく何か手違いがあって、「ルドルフ・カラシニコフ」さんの住人登録が、街に残っていなかったんだろう。だから「この街の出身に、そんな人はいない。何かの間違いだ」と、早合点されたに違いない。
ただしこの手の話には、お決まりのオチがある。
街に記録が残っていなくても、この街にはまだ、遺族が残されている。
良いニュースの中身とは、まさにそれだ。オレたちはこれから特別に、その遺族に会う機会をもらえるんだろう。そこで消息を届ければ、話は丸くおさまる。めでたしめでたしというオチがつく。ただそれだけの話だ。
だが、リオはなぜかーー相変わらず、真面目な目をしている。
「『ルドルフ・カラシニコフ』さんは、まだご存命だった。今も街に、いるんだって」
その声は、
不気味なほどはっきりと、
トンネルの中を、こだましていった。
ぴちょんーー雨垂れが鳴り、狭いトンネルを響いていく。
「まだ……生きていた……?」
口に出して言葉にすると、胸に、えもいわれぬ不快感がこみあげてくる。
確かに、それが事実なら、「予想外の良いニュースだ」「生きていたとは何よりだ」と喜ぶべきかもしれないが……そんな不気味なことが、起きるはずがない。
リオの手には、「ルドルフ・カラシニコフ」さんのドッグタグがあるんだ。それは消息の証拠として、つまり死亡届として、リオが回収した代物だ。
だったら過去に一度、「ルドルフ・カラシニコフ」さんは、遺体か遺品が発見されている。それだけは絶対、間違いない。
死んだ人の消息ばかりは、自分で届けるわけにはいかない。だからオレたちが、依頼人を代理して、故郷に消息を届けに来たというのに……「その方はまだ生きている。今も街に暮らしている」と言われるなんて――。
直後、トンネルの向こうで、金属が軋む音が鳴り響いた。
街を隔てていた鋼鉄製の門が、錆びついた音を立てて、開いていく。
ーーギイィィイイイイイ……。
入街の許可が降りたらしい。
街はオレたちを、消息代理人として歓迎している。
オレたちはあの錆びついた門の中に、足を踏み入れるしかない。
***
トンネルを抜けて街に入ると、暗闇のどこかで犬が吠えていた。
街の表通りには、冷たい雨が続いている。
まるで木でできた、ミニチュアセットの中に入ったみたいだ。左右を見れば、木組みでできたログハウスが個性豊かに並んでいる。見回していると、少し緊張がほぐれてくる。
どの家に目を向けても、壁も、屋根も、窓辺に飾られた手芸品さえも、木で作られた家ばかり。作り手の苦労がしのばれる、可愛らしい街並みだ。
そんな表通りを眺めていると、木の匂いにまぎれて――懐かしい匂いを感じた。
「……っ!?」
オレは驚いて顔を上げた。
マフラーを大きく下げると、確かに、あの匂いがする。
それはオレにとって、涙が出るほど嬉しい知らせだ。
だが、今はーー。
「リオ……気をつけてくれ」
そう声をかけると、先へ進もうとしていたリオは、キョトンとした顔で振り向いた。
「どしたの?」
オレはリオに、包み隠さず忠告した。
「近くに……リビングデッドの匂いがする。この街の中にいるはずだ」
「え? ニイサン、それってどんな奴?」
オレはレインコートを頭から脱ぎ、あたりの匂いをよく確かめた。
雨のせいで、距離や方向はよくわからない。
それでもこの匂いは、オレが一番よく知っている。
「……オレの『おともだち』だ……」
なるほど。これは本当に、タネさえわかってしまえば拍子抜けな話だった。
「な、リオ……そもそも、君が持ってきた良いニュースも、悪いニュースも、大した話じゃなかったんだ」
――僕の手元には、『ルドルフ・カラシニコフ』さんの消息があるけど……。
「君がドッグタグを手に入れたんだ。その方は、とっくに亡くなっている」
――『ルドルフ・カラシニコフ』さんは、まだご存命だった。
――今も街に、いるんだって。
「街の人がそう証言したんだ。その方は、今もこの街に暮らしている」
リオはそれを聞いて、「はあ?」と露骨に首をひねった。
「ニイサン……何言ってんの? 街の外で亡くなったのも事実で、街の中でご存命なのも事実って……」
「そのどこが不思議なんだ?」
「だって、結局、どっちが事実なの?」
「どっちも事実だ」
リオは釈然としないと言いたげに、生意気な怒り顔で反発してきた。
「そんなはず――」
「君が一番よく知ってるじゃないか。君の目の前にいるのは……誰なんだ?」
冷静に指摘すると、リオは何か思い出したのか、すうっと青ざめた顔になった。
「……え?」
人間が、恐る恐る、こちらを見比べている。
オレはチラと振り向いて、ベッケンバウアーを横目に見た。
ピンクのレインコートを羽織っているネエサンは、困り顔で肩をすくめている。
オレもつい苦笑いしてしまった。
忘れっぽいオトウトのために、大事なことを思い出してもらおう。
「いいか、君のニイサンも、ネエサンも……生きた人間そっくりに動く死体だ」
ザァアアッーー冷たい雨が、ボリュームを上げるように、雨脚が強くなっていく。
目の前で立ちすくんでいるリオは、顔から血の気が引いて動けないようだ。
オレはニイサンとして、この子の肩に手を置いて、なるべく優しく諭してあげた。
「リオ、よく考えた方がいい。そのご存命の方って……本当にまだ生きているのか?」
オレたち三人の背後で、鋼鉄製の門が、すさまじい音をたて、堅く閉ざされた。
「この朽ちるべきものが、朽ちないものを着、
この死ぬべきものが、死なないものを着るとき、
聖書に書かれた言葉が成就する。」
――コリントの手紙