第四話 三つ目の願い、四つ目の頭・4
街の中には、数メートル先も見えない、真っ白な吹雪が続いている。
オレたちは松葉杖の教官に急かされるまま、街の門前に連れ出された。
門前には、すでに街人たちが野次馬になって集まっていた。
どうにか人をかきわけ、人垣を乗り越えると、そこには四頭の馬に引かれて大型のソリが到着していた。業務用の大掛かりなソリを使って、青いビニールシートにくるまれた巨大な何かが運び込まれていた。
松葉杖の教官はビニールシートの前に立つと、胸で十字を切り、重い口を開いた。
「なあ、すまんが、お嬢ちゃん……あんた、消息代理人じゃろう? そのぅ、マルコフの代わりに……先に顔を、拝んでくれんかのう……」
リオは力強くうなずくと、率先してビニールシートの中を見ようとしている。
ただ、この匂いがするリビングデッドは――。
「リオ……君は見ない方がいい」
オレはリオを押し留めて、自分の後ろに下げた。
リオがいる角度からは見えないよう、注意してビニールシートを少しだけめくってみた。すると横から、ベッケンバウアーがのぞきこんできた。
「アァ、間違いないねぇ。先日、この街に到達した個体かぁ……」
確かに博士の言う通りだ。おととい銃声が聞こえたときと、同じ匂いがする。
ただ、このリビングデッドの肉体は……ずいぶん寄生虫の手で、弄り回されている。
遺体には、顔がいくつも縦に並んでいる。その中のひとつは、確かにオレと面影が似ているのかもしれない。
短く真っ直ぐな黒髪と、東洋系の顔立ち……あれが、ゾーヤさんが長年焦がれてきた、ロジオン・マルコフという人物なんだろう。
恐らくこのリビングデッドは、「故郷に帰りたい」と夢見て、はるばる歩き寄ってきたんだ。それが先日、この街に到達したのか。
オレのとなりでは、松葉杖の教官が青い顔して、両手を合わせている。
彼に向けて、小声で問いかけてみた。
「先日、ゾーヤさんは夜間の警備中、フェンスの外を、ひとりで巡回していたんですね。それで、吹雪で視界が悪い中……リビングデッドの声に、おびき寄せられて……」
教官は、黙って何度もうなずいている。
それにしても……ひどい。
賢いナンシーが、思いつきでやったんだろう。身体中のパーツというパーツが、改造され、組み換えられ、歪められ、ツギハギだらけ……まるで積み木のおもちゃで遊ぶような感覚で、生き物の身体をねじ曲げたんだ。
オレはビニールシートを下げて、遺体をすっかり覆い隠した。
その瞬間、狙いをすましたかのようにーーリオがオレの横をすり抜け、ビニールシートをめくった。
「リオッ! これは見るなって――」
慌てて肩を掴んで、引き離そうとした。
それでもリオは――シートに隠されたゲンジツを、静かに直視している。
「……ごめんね、ゾーヤさん。まだ、あの手紙を読む勇気が……出なかったん、だね」
ギリリと、シートをキツく握り締める音が鳴った。
ただ、リオは目を伏せるとーー両手から手袋を外し、しばらく、黙祷を捧げた。
オレたちにとって、手袋を外すのは、土下座するよりも重い意味がある。
何せリビングデッドが蔓延る世界に向けて、無防備に素肌を晒すんだから。
リオは、黙祷を終えるとーー手袋をはめ直して、白ひげの老人に向き直った。
「マルコフさん、この際、はっきりお伝えします……絶対、ご遺体の顔は見ないでください。僕は絶対……マルコフさんに、後悔してほしく、ないです」
だがマルコフさんは、険しく眉を寄せると、首を横に振った。
「……覚悟はしておる」
「駄目だよ」
「どんな形でも構わん」
「駄目だよ」
「ゾーヤは……今はもう、ワシの娘も同然じゃ」
「駄目だよ」
吹雪が乱れーーリオの真っ白な髪が、真っ白に広がっていく。
「駄目だよ」
だがマルコフさんは、勇ましく歩み出て、ビニールシートに近づこうとしている。
リオはそれを見るなり、背中のリュックから斧を引き抜いた。
ただ、その横顔には、重いためらいと、息が詰まるほどの苦渋に満ちていた。だからだろうか、あの子は意を決したように――目を閉じた。
リオは軽やかに斧を振りかぶると、
ビニールシートのど真ん中に――切先を、叩き込んだ。
――グチャァアアアアッ!
野次馬から、一斉に悲鳴があがった。
シートが裂け、頭蓋骨が砕け、顔がひとつ潰れる音が鳴り響いた。
この場にいる誰もが、その冒涜的な破壊が起きる瞬間を目撃した。
ゾーヤ・エフレモヴァの死に顔は、遺族の目の前で――叩き潰された。
リオは斧を引き抜くと、血を払い落とし、再びリュックに取り付けた。
街人たちの阿鼻叫喚が鳴り響く中、罵詈雑言を一身に受けながら、リオは同じことをマルコフさんに言った。
「駄目だよ」
マルコフさんは、本当に肝が座った方なんだろう。彼はまったく動揺しなかった。それどころか、リオを責めようともしなかった。
ただ、重く、苦しげな声で、真剣に告げた。
「……この街から、出て行ってくれ。馬を貸す話は、無しだ」
リオはうなずくと、オレとベッケンバウアーを見上げてきた。
「ニイサン、ネエサン……行こう」
オレたちは、黙ってうなずくしかない。
リオはこのまま、トッカーテルンの街を立ち去ろうとしている。
それを見て、松葉杖の教官は、何か行動しようと焦っていた。
ただーーマルコフさんが動いた。教官の肩を叩いて、何やら声をかけている。
同じようにマルコフさんは、街人ひとりひとりの肩を叩いている。リオを引き留めようとしている街人たちに、声をかけてまわっていた。
***
その街との関わりは、それっきり終わった。
それ以外のことは、何も起きなかった。
***
雪原には、春の湿っぽい吹雪が続いている。
まるで底なし沼でも歩いているようだ。幸先の悪い、厳しい旅路が始まった。
それでも、この街に歩いて来たように、この街からは歩いて出て行くしかない。
小高い丘を登りつめたとき、ふと一息入れて、振り向いてみた。
吹雪の向こうに、時々、トッカーテルンの街並みが見える。
「……ごめんね、ニイサン、ネエサン……」
オレの後ろで、リオがぽつりと小声でこぼした。
「あの街に、あと少し早く着いてたら……もし一日でも早く、あの手紙、ゾーヤさんに届けてたら……絶対、こんなことに……」
リオは悔しげに拳を握りしめているが――オレはあの子とは、真逆のことを考えていた。
「リオ、気にしなくていい。ゾーヤさんのことは、気の毒に思うべきかもしれないけど……オレは同じリビングデッドとして、『おめでとう』って言ってやりたい気分だ」
「へ? おめでとう、って……だ、誰に?」
「ま、そりゃ……あのリビングデッドだな」
リオは、理解できないと言いたげに、目を丸くしている。
そのとき博士が、リオをサクサクと追い越し、オレのとなりにきた。
「フフ、私も正直、ロジオン・マルコフ氏のことが羨ましい限りさぁ」
「ベッケンバウアー、もう彼らとの『魂の交流』は終わったのか?」
「エェ、それはもう、とっくに」
「……相変わらず、研究のことだけは仕事が早いな」
となると、オレはひとつ、博士に訊きたいことがある。
「な、やっぱりあの日、風上から猛烈な多幸感の匂いがしたのって……」
「エェ、安心したまえ。あの瞬間、彼は寄生虫の手によって、悲願を叶えていたよぉ」
「そうか……」
オレは思わず、彼の幸せを祝福して――微笑んでしまった。
「なら、よかった」
恐らくあの巨大なリビングデッドは、無事に三つとも、夢を叶えたんだ。
ただし、賢い寄生虫の手で叶えられたものだから、あんな形になってしまったんだろう。
ひとつ目の夢で、あのおぞましい肉体に改造された。
ふたつ目の夢で、故郷に帰り着くなり、殺された。
それでも三つ目の夢だけは――。
ただ、オレがそんなことを考えていると――リオは信じられないと言いたげな顔して、オレたちを見比べていた。
「リオちゃん……今の話はぁ、聞かなかったことにしておくれぇ」
ベッケンバウアーはそう言い残すと、白衣をひるがえしてサクサクと丘を下っていく。オレもリオに背を向け、丘を下りながら、淡々と言い繕った。
「リオ……平気だ。君は何も間違ってない。あの遺体は、恐らく人間が見れば、トラウマになったはずだ。生前、身近な人だったほど、ショックを受けたんじゃないかな。だから君の判断は、間違ってなかった……」
ゴウッ――吹雪が荒れ狂い、雪をかき乱していく。
「オレたちリビングデッドに、知能はない。知能がないから、人間を襲う。それでいいじゃないか。別にその認識で、誰も困らないんだ……」
そう、誰も困らない。
人間も、リビングデッドも、その誤解が解けないところで、誰も困っていないんだ。
それでもリビングデッドであれば、誰もが知っている。この感染症は、オレたち意志薄弱な一般人の夢を、すべて、必ず、叶えてくれる。
当然、その代償は重い。
命より、重い。
ただの「思い煩い」だった淡い夢が――「重い患い」に変わるんだから。
そして夢と自分の立場は、逆転する。オレたちが夢を叶えるんじゃない。夢がオレたちを、操るようになる。
それこそゾンビは、夢を叶えること以外には、何も、何ひとつ、目を向けられない。かなりシビアで、厳密な意味で、オレたちは自分の夢にしか、興味がない。
だが、それで夢が叶った感染者は、ごく一握りだ。
今も世界を見渡せば、数十億のゾンビが徘徊しているんだ。
要するに、叶わぬ夢が、その数だけ、彷徨っている。
夢を持ち、夢敗れ、それでも夢を叶えようと、まったく同じ失敗を繰り返す。絶望に行き当たり、引き返そうにもどこへも行けず、途方に暮れて、喘いでいる。
にも関わらず、「もう諦めたい」との泣き言さえ許されない。今日もまた、同じ失敗を繰り返すため、夢に操られ、蠢きだす――それがリビングデッドの正体だ。
その無様な有様が、人間から見ると不可解に映るのも当然だ。オレたちが、泣きながら夢を追い求める嘆きだって、ただのうめき声にしか聞こえないんだろう。
それでも、オレもまたリビングデッドだ。あのリビングデッドが叶えた三つ目の夢に、だいたい予想はついている。
恐らく彼らは、故郷に帰る夢を果たしたあの日、いよいよ三つ目の夢を叶えるため、声を使って人をおびき寄せていた。しばらくすると、フェンスの外を巡回していたゾーヤが、ロジオンの声を聞きつけたんだ。
ゾーヤにとっては、長年焦がれ、帰りを待っていた懐かしい声だ。オレのときと同じように、彼女は夢中になって駆け出してしまったんだろう。
――ロジオン……? ロジオン! 帰ってきたのね!
だから彼女は――吹雪の向こうにゾンビがいると、すぐに気づけなかった。
慌ててアサルト・ライフルを撃ちまくったが、すでに手遅れだった。
彼らは、三つ目の願いを叶えるべく、すでに走りだしていた。
ロジオンはゾーヤを抱きしめ、泣き叫ぶ恋人を貪り喰い――不変の愛を貫いた。
――ゾーヤ、お前の言う通り、俺が馬鹿だった。
――もう二度と、お前を離さねえ。
だからオレは、ロジオンにおめでとうと言ってやりたい。
運び込まれた遺体には――四つ目の頭が繋がっていた。
「愛とは、互いに見つめ合うことではない。
ふたりが同じ方向を見つめることである。」
――サン・テグジュペリ