後編
また今年の最高気温が更新された。
染み込んだ汗がエアコンで乾く、それが何度も繰り返され、インナーの首元に層のような汗の跡が出来た。
社用車のドリンクホルダーに置かれたミネラルウォーターは、ほんの数十分車を離れただけで、たちまちぬるま湯へと変わる。
背中の汗がベタつく。早くシャワーを浴びたかった。
オニグモに囚われたヒグラシは、乾いた枯れ枝のようになって風に揺れていた。そこに昨日までの命の熱量はなく、激しく燃える太陽の下で、そこだけ小さな影が落ちているように見えた。
玄関で靴を脱いでいると、慌てた様子の妻が駆け寄ってきた。
「あの子、まだ帰ってきてないの」
「え、もう18時過ぎてるのに‥‥」
普段であればとっくに家に帰って、宿題を済ませている時間だった。
7月ともなると18時とはいえまだ日が高く、学校帰りに公園や友達の家で遊んでから帰る子供も多いと聞く。ちょっと遊びに熱中し過ぎただけと言えばそれまでだが、几帳面な息子が何の連絡もしないままこの時間まで遊び歩く事は考え難かった。
「学校には連絡した? もしかしたら何か学校でトラブルがあったのかも」
「ううん、まだ。学校関係で何かあれば通知が届くはずなんだけど」
「電話してみるよ」
「うん、お願い‥‥」妻はそう言って額に手を当てた。その顔は血の気が引いたように白く、くすんだ色の唇をしきりに噛んでいた。
電話は数コールでつながった。クラスと息子の名前を伝えると、担任の先生が電話をかわってくれた。
「息子がまだ帰らないんですが、学校で何かありましたか?」努めて冷静に説明すると、担任の先生は14時には下校したはずだと言った。
「息子は遊び歩いて帰るような子じゃないんです」自分の声が震えているのがわかる。動揺を隠そうにも、声が勝手に不安を吐露させる。
「それはわかっています。すごく真面目な子ですから」
「じゃあーー」最悪の事態が脳裏を過った。しかしそれを考えてしまえば、無理やり取り繕っている自分の平常心の仮面は、いとも容易く砕け散るだろう。
そこで私は思い出した。
息子が毎日のように遊んでいるという『コータくん』。息子はその子の家に遊びに行っているのではないか?
希望の切れ端を摘み、慎重に手繰り寄せる。
勝手に友達の家に遊びに行くなんて褒められたことではないが、今はそんな息子の不良行為が唯一の希望だった。
帰ってきたらこっぴどく叱って、そして叱った後には、強く抱きしめてあげようと思った。
「そうです。コータくんって子の家にいるかもしれない」
「コータくん?」
「はい。その子の家の連絡先を教えてもらってもいいですか?」
「えっと、何コータくんですか?」
「それはわからないんですけど‥‥多分、息子の下校ルート付近に住んでいる子だと思うんです」
「‥‥ちょっと待って下さいね」そう言って担任の先生は電話を保留にした。
緊張感の希薄なメロディを聴きながら、私はこの待ち時間の意味に胸をざわつかせていた。
コータくんは息子のクラスメイトだと思っていた。その名前を出せば、すぐに話が通じるものだと思っていた。しかしこの待ち時間は、そんな私の希望を薄い刃で少しずつ削ぎ落としていく。
間抜けなメロディが私の心をイラつかせた。
数分間の後、再び電話に出た担任の先生は、困ったように言った。
「あの、この学校に『コータ』という名前の生徒はいないようなのですが‥‥」
◯
オニグモに囚われたヒグラシは、忽然とその姿を消していた。
まるで初めからそこにいなかったかの如く、まるで夏のアスファルトの上でゆらめく陽炎のように、夜になると跡形もなく消え去っていた。
あれから、息子は行方不明のままだ。
警察の懸命な捜索も虚しく、息子もまた私たちの前から、忽然と姿を消してしまった。
事件と事故、両方の可能性が示唆されたものの、私はもう一つの可能性を頭から切り離すことが出来なかった。
息子が初めて出来た友達の『コータくん』。
寂しがり屋の彼が、息子を自分の家へと招き入れてしまったのではないだろうか。
そんな彼の住処の扉は、もしかしたらこの世ならざる場所へと続いていたのかもしれない。
それはともすると、現実の不透明さによって誰の事もーー自分の事さえ責める事が出来ない私の心が矛先を向けた、夏の陽炎のように朧げな幻想だ。
薄汚れた扉の向こう、黒く開いた異界の口へ嬉々として駆けていく息子の姿が、私の頭から離れなかった。
◯
息子が消えてから2年ほどが経った。
私達夫婦はあの頃住んでいたアパートを離れ、別の土地で死んだような生活を続けていた。
二人で住む小さなワンルームは、ゴミと埃と、息子の欠片を仕舞い込んだ段ボールで溢れかえっていた。
今日も命を干からびさせるような暑さが、この寂れた田舎町を覆っている。
生きるために、そして妻を生かすために新しく始めた仕事は、自分より年下の主任に罵声を浴びせられるような環境ではあった。しかし感情のどこかが、いやもしかしたら感情の全てが破壊されてしまった私にとって、それは大した苦痛ではなかった。
私達夫婦はそれ以上の苦しみを知っている。
仕事から帰ると、妻はいつものように布団に臥せていた。心が壊れてしまった妻の髪をそっと撫でると、あの日の息子の柔らかな髪が思い出された。悲しみがはっきりとした質量もをって、私の口から溢れ出しそうになる。
よろめきながら床に座り込むと、床に転がっていたウイスキーの瓶を掴んで、無理やり喉に流し込んだ。
あの日から全く酔うことは出来なくなってしまったが、時折り胃から吐き出されそうになる悲しみを流し込むには丁度良かった。
テレビをつける。
どこか懐かしい街並みが映し出される。
2年前に住んでいたあの街だった。
夕方のニュース番組は、あの街で起きていたとある誘拐事件の容疑者が逮捕されたと速報で報じていた。小学生の男の子を複数人、陵辱し絞殺した罪人の顔が、画面の端に映し出された。
凹凸の少ない、青白い顔をした、若い男。
その男は、数年前からゲームで男児を誘い込むと、性的暴行を行ったのち首を締め、近くの山に遺棄していた。
殺害された男児は、わかっているだけで4人。
その男は、長宮康太という名だったーー
私はウイスキーの瓶を床に置いたまま、呆然とそのニュースを眺めていた。
虚な視線を窓の外に移すと、カーテンの隙間から赤い西陽が差し込んでいた。その徐々に黒ずんでいく光を背にしながら、一匹のオニグモが、窓の外に巣を張ろうとしていた。
なぜあの時、私はあのオニグモを握り潰さなかったのだろうか。
通学路が変わって急に出来た友達。
息子を無理やり家に招き入れとうとする行動。
二の腕に出来た赤黒い痣。
そんな、私の中の『違和感』というオニグモを、あの時握り潰していれば、きっと息子は今でも私の隣で笑っていただろう。
私は立ち上がり、窓を開けると、オニグモを摘み、握りつぶした。
固い牙と爪が掌の皮膚に食い込み、その後に粘性のある体液が指の隙間から滲み出た。
その行動に後悔とか、贖罪とか、そんなありきたりな理由を当て嵌めようとしてみたが、違った。
これは単なる、憎しみや怒りをぶつける相手を見誤った、短絡的な破壊衝動でしかなかった。