前編
小さく痩せっぽちな息子に、あのランドルはあまりにも大きく見えた。
小学3年生になり、時々一丁前の口をきくようになったとはいえ、親の目から見ればまだまだお子様だ。巨大な黒い塊を背負いながら歩く息子の姿は、岩を運ぶシーシュポスの絵画を連想させ、少しばかり胸の疼きを覚えた。
息子の通う小学校から、最近越してきたばかりのこのアパートまでの道程は、大人の足でも目眩がしそうな程に長い。
7月、気温は毎日30℃を超える。
息子が往復する通学路は、日陰になるような構造物は殆どない。そのため頭の上から降り注ぐ殺人的な太陽光線と、アスファルトの照り返しによって、半袖からのぞく二の腕がこんがりとローストされてしまいそうなほどに暑い。
それは、そんな夏のある日の夕食時だった。
妻の作ったローストビーフをタレに浸しながら、息子はこんな事を言った。
「僕、やっと友達が出来たんだ」
息子は少々引っ込み思案なところがあり、2年生までは特定の友人がいなかった。嫌われたりハブられたりしている訳ではないのだが、これと言って仲のいい友人がいるわけでもないらしい。
学校の事を話す時に、クラスメイトの事を常に『みんな』としか呼称しない息子の様子から、私は薄々ながらそれを察していた。
そんな息子が、少し恥ずかしそうな顔で、箸の先に挟めた肉を見つめながら、友達が出来たことを告げた。
私はそんな息子がいじらしく「そっか、良かったな」と、柔らかな髪をぐしゃぐしゃと撫でた。
息子はくすぐったそうに笑った。
話を聞くと、その友達は「コータくん」という子らしい。息子がこのアパートに引っ越してきて下校ルートが変わった事で、帰り道で顔を合わせるようになった。そこでゲームの話で意気投合し、隠しアイテムや裏ワザの話で盛り上がったようだ。
大人になってから、私はまっさらな状態で『友達』を作る方法を忘れていた気がする。大人になってからの友達関係は、自分の立場やシチュエーションや利害が掛け合わさって、半ば必然的に生まれるものだった。
しかし子供同士の友情は、おそらくそんな打算的なものではない。お互いが一緒にいて楽しければ、それはもう『友達』なのだ。
良く言えば老練、悪く言えばずる賢くなってしまった自分の感性に寂しさを覚え、純粋な子供同士の関係に羨ましさを感じながらも、私は息子の成長を喜んだ。
◯
蝉の声がアブラゼミからヒグラシに変わる。
車を降りると、夕立を喚起する湿っぽい風の匂いを感じた。しかし昼間に熱を蓄えたアスファルトは、その発散先を自らが接する空気へと求める。生ぬるい風と灼熱の空気が合わさる地上1.5メートルの空間は、2つの異なる世界によって歪み蠢いている。
どこか懐かしくもあり、どこか不自然でもある、そんなごくごくありふれた夏の夕暮れだった。
久しぶりに定時で仕事を切り上げた私は、息子と一緒に夕食を食べた。
息子は目に見えて上機嫌で、件の『コータくん』との会話の一部始終を面白おかしく話してくれた。最近は二人でゲーム実況者の真似事をして遊んでいて、息子が実況者、コータくんがその動画を編集する役割らしい。あどけない2人の戯れに自然と私の頬も緩む。
グラスにビールを注ごうとすると、息子は私の右手から缶を取り上げ、並々と注いでくれた。泡だらけで真っ白なビールになってしまったが、心なしか優しい味がした。
「僕、友達ができてよかった」そう言って息子は何度も頷く「だって、すごく楽しいもん。帰り道がいつも待ち遠しい」
「お父さんも嬉しいよ」私は息子の髪を撫でる。
「お友達と遊ぶのはいいけど」困ったような溜め息をつきながら妻が言う「お家に遊びに行くときは、ちゃんとお母さんに言ってからにしてね。コータくんのお家にご迷惑かけるんだから、まずご挨拶に行かないと」
「挨拶って、大袈裟だな」
「これくらい普通の礼儀なんだけど」
楽観的な私の発言に、妻は肩をすくめた。
「うん、わかった」そんな2人のやり取りを眺めながら、息子は力強く頷いた。
◯
1階のベランダに巣を張ったオニグモが、巣にかかったヒグラシを糸で絡めていた。ヒグラシは身体を震わせ巣から逃れようとしているが、徐々に自由を奪われ、白い糸の塊へと変わっていく。
世界には奪うものと、奪われるものが存在する。
奪われるものはその世界の摂理から逃れようと、力なく羽を羽ばたかせようとするが、その糸を断ち切ることなど出来はしない。
息子には奪われるものにはならないで欲しいと切に願う。
もちろん奪うものになるの事も、出来るならば避けてほしい。息子には闘争とは無縁の優しい日差しの下で、足元の花を摘むような日々を送ってほしい。
しかし、もしその花に纏わり付いた毒グモが、柔らかな指先に牙を突き立てるのならーーその時は迷いなく、そのクモを握り潰して欲しい。
やがてヒグラシは全く動かなくなった。
彼は奪われるものとして、奪うものへ身と魂を捧げたのだ。
その日、息子は泣いていた。
訳を尋ねるがしゃくりあげるだけで何も答えてくれない。
困り果てて妻を見ると、彼女は息子から聞き出した断片的な情報の寄せ集めではあると断った上で、事の経緯を話してくれた。
どうやら息子はコータくんと喧嘩したらしい。
理由は良くわからないが、息子が言うには家で遊ぼうというコータくんの誘いを断ったことから、喧嘩になったようだった。
7月も半に差し掛かり、気温は上限なく上がり続けている。確かに、この蒸し上がりそうな空気の下でおしゃべるりを続けるのは、子供の身にも苦しくて当然だ。クーラーの効いた部屋で、麦茶でも飲みながらゲームに興じたいという気持ちは、私にも理解できる。
「僕が、ダメって言っちゃったから、コータくんが怒っちゃった‥‥」
やっと冷静さを取り戻した息子が、ティッシュで鼻水を拭きながら、ぽつりぽつりと後悔の言葉を紡ぎ出した。
「お前は悪くない。お母さんの言いつけを守っただけなんだから。ただ、コータくんも寂しかったのかもしれないね。明日会ったら、仲直りしようって、そう言ってあげるんだよ」
「うん、うん」息子は最初は弱々しく、しかし次は大きく強く、2回頷いた。
「次の日曜、お父さんとお母さんが挨拶に行くってのはどうだい? もうすぐ夏休みだし、お母さんがお休みの日だったら、お家に連れてきてもいいって事にしようか。もちろん、コータくんのお家の人がOKだったらだけどね」
「うん!」息子の目が輝く。
「だから、それまでもうちょっとの辛抱だ。明日も暑いようだから、おしゃべりもそこそこにして、早く帰ってくるんだよ」
さっきまで泣いていた息子だったが、気づけば満面の笑みに変わっていた。コータくんとゲームで遊ぶ夏休みを想像して、心が弾んでいるのだろう。
私はそんな息子の肩を叩き、垂れかかった鼻水をティッシュで拭った。
その日の風呂で、息子の二の腕に赤黒い痣が出来ている事に気付いた。息子に尋ねると、体育の時間にボールがぶつかったと言い、ぎこちなく笑った。
その痣の意味する事を、この時の私は何も知らなかった。
中編に続きます。