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「彬よ、おるか?」
左近衛府の彬の仕事場に、長兄の高見と次兄の遙和が突然やって来た。
「兄上……。お二人揃って如何されましたか?」
いつもは殆ど顔を見せない兄たちの来訪に驚きはしたが、快く二人に円座を勧めた。
「なあ彬。これから遙和と蛍を見に行くのだが、お前も一緒にどうだ?少し歩くのだが、昨日、源友幸様と楽合わせをしていたときに穴場があるって教えて下さったのだ。行くか?」
源友幸とは龍笛の名手であり、とても風雅を愛する貴族だ。
蛍見物の穴場を知っていたとしてもおかしくはないほど自然を大切にしている人だ。
「行きたいですっ。お供させてください!あ、妻の唯を連れていっても良いでしょうか?」
「俺たちと一緒に?」
「お前の大切な唯姫様のお顔を、何かの拍子に見てしまうかもしれんぞ」
「先にお前が下見しておいて後日改めてお連れして驚かせる、という手の方が喜ばれるのではないかと私は思うのだがなあ」
「そうそう。二人きりで出かけるのも雰囲気が出るぞ?」
「ああ!その通りですね。兄上たちの言う通りです」
唯姫の顔が万一にでも見られでもしたら、きっと彼女は気分を悪くしてしまうかもしれない、そう思った彬は唯姫の同行は素直に諦めた。
「小太!文の用意を」
「はい、彬様」
「仕事が終わったら会いに行くことにしていたけど……」
彬付きの共の小太郎に唯姫への文を書いて持たせると微笑みを浮かべた。
「頼むぞ、小太。唯に届けてくれ」
「はい。大丈夫ですよ、彬様。唯様はお心の広い方ですから、きっと二人きりでの蛍見物を楽しみにお待ちして下さると思います。それでは僕はお文を届けに行って参ります。失礼します」
「ああ、よろしく」
小太郎はぺこりと頭を下げて早速、内大臣家へと文を届けに部屋を出て行った。
「じゃあ俺たちは彬の仕事が終わるまで雅楽寮にいるから」
「はい、分かりました。すぐに終わらせます!」
「急がなくて良い」
兄たちは機嫌よく左近衛府を出ていく。
彬は急いで仕事を済ませて、二人の兄が待つ雅楽寮に向かった。
雅楽寮に着いたのはあれから一刻を過ぎていた。
通常であれば待つことが嫌いな兄たちなのだが何故か今夜は機嫌もよく彬を待ち、急いで駆けつけて息を切らす彬を笑顔で迎え入れた。
「お待たせしてしまいました!」
「おお、彬もう仕事がおわったのか」
「はい。たいへんお待たせしてしまって申し訳ございません」
「いやいや。まだ半刻はかかると思っておったのだがな。さすが彬だ。俺たちはお前のような出来た弟を持って誇らしいよ。なあ遙和」
「そうだよ。さ、蛍見物だ。早く行こう」
「ははは、遙和よ。急がなくても蛍は逃げたりはしない」
「兄者、俺はな蛍を肴に早く酒が飲みたいんだ!」
もう酒が入っている瓶子を抱えている。
「おお、素敵ですね!私も酒が飲めたら良かったんだけど……」
「下戸のくせに生意気なことを」
ガハガハと笑いながら御所から出て秘密の穴場へと歩く長兄の後ろを彬はついていく。
外に出ると辺りはもうすっかり暗くなっていた。
「兄上、場所はどの辺りですか?」
「ああ、都の外だ。それ以上は秘密だ。行ってのお楽しみ」
ニヤリと遙和が不吉な笑みを浮かべたように見えた。
松明の灯りを持っているからといっても明るく何でも見えるとはいえない、ただ手元や足元を照らすだけの灯りだ。
彬が見えた遙和の不気味な笑みは気のせいだと思うのは仕方ない。
「遙和……。そろそろ」
「ああ。そうだな……」
二人の兄の小声でのやり取りに、彬は到着したと思ったが、まだ都の端までも進んでいない。
「もう着いたのですか?」
首を傾げて不思議に感じた。
「まだ都を出てもいないのに。この辺りで蛍が沢山見られるのですか?」
「ふっ……。まだ分からぬとは」
次兄が彬の背後に回り込んで肩を抱く。
「……フフフ」
急にうすら寒い空気が長兄から漂い始めて首だけくるりと彬に向けられた顔は酷く歪んだ。
醜い笑顔で。
遙和に抱かれていた肩を固定されたまま、くるんと半回転させられ、更に腕を捕まれて逃げられないように拘束された。
兄たちの様子の変化に彬は戸惑う。
「何、何ですか?」
一瞬で太刀を抜く音。
背後から何かが彬にぶつかった。
身体に違和感が走る。
「わ……っ!」
ぶつかってきたのは長兄の高見……。
しかし、彬には何が起きているのか分かっていない。
「蛍とはお前のことだっ」
「え……」
そう言って遙和は拘束していた手を緩めた。
「蛍のようにさっさと死ね!」
そして体当たりしてきた高見が離れて、それと一緒に彬の身体に刺さったモノをずるりと引き抜く。
身体に刀が刺さっていた事に気付いたが。
「ぐっ……!」
ボタボタと零れ落ち、激痛に襲われた。
「兄上……?」
内大臣家が用意してくれた大事にしている衣装なのにどんどん流血で染まっていく。
痛みのあまり堪えきれずに膝が崩れる。
「お前には肩身の狭い思いをしている俺たちの気持ちは分からないんだろうな。内大臣様の姫君を妻にして、どんどん出世していくお前に嫉妬以外の感情はなかった。それがいつに間にか殺意に変わったとしても何の不思議もあるまい」
「内大臣様が後見に就いて、父上は今まで以上にお前を大事にして、俺たちにはいつもお前を見習えと説教ばかりだ。ずっと劣等感を抱えていたのを、お前は知っていたか?」
兄たちは冷たく見下して言い放つ。
「昨夜も父上は俺たちを呼びつけてこう言った。彬に子が産まれた、男の子だ!と。お前たちにも早く子が授かれば良いのにとも言っていた。そしてまた同じことを言うのだ。彬は出来が良いのにお前たちは何故出世できないのかと!」
長兄は彬の正面に回り太刀で袈裟懸けに大きく切りつけた。
「がっ!」
続けて次兄が背後から短刀で突き刺す。
「うぐっ……!」
すぐに引き抜きまた刺す。何度も同じ場所を……。
「……っ!…っ!がはっ」
口から溢れる血を吐出し、彬は前のめりに倒れ込んだ。
動かなくなった弟を見て、二人は酷く醜く歪んだ顔で笑った。