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「…ちゃん、……にいちゃん?」
心配そうな声に呼ばれて匠は目を開けた。
ぼやけた視界から戻ってくると妹の顔が見えた。
自分がどこにいるのか判らない。
「…ここは?」
「髄求堂?三重塔の近くの建物」
匠が横たわっているのは髄求堂の縁側だ。
周りに数人集まっているのに驚いた。
「観光に来ていた皆さんが急に倒れたお兄ちゃんを運んでくれた」
「あ、…そうや。三重塔に雷が落ちて……生きてる?」
思い出しながら匠はゆっくりと起き上がるが、舞たちは怪訝な顔で匠を見つめる。
「かみなり?」
「雷なんか落ちてないよ?」
「こんなに良い天気で?」
大学生だろうか、男女数人のグループが不思議な顔をして匠を見た。
「落雷したら大変じゃん?あたしたちだって無事でいられないって」
「え?……でも確かに俺は」
「あなたきゅうにたおれまシタ。わたしたちおどろきまシタネ」
「夢でも見てたんじゃありません?」
「……どういうことや?」
舞に話を聞いてみる。
「わたしに聞かれても。チケット売り場に走って行く途中でバッタリ倒れたんやで?びっくりしたわ。それよりも、大丈夫?どこかぶつけてない?痛い所はない?気分が悪いとかは?熱中症?じゃないよなあ」
舞にしては珍しく優しい声で匠を気遣ってくれている。
「大丈夫や。夢見てたんかもしれん…?なんかすっごいリアルな……」
「雷の夢…」
「ちゃう。夢なんやけど、それが夢やなくて」
「何それ?お兄ちゃんの日本語が分からん」
「すまん。俺もわからん…」
「もうっ!皆さん大変ご迷惑をお掛けしました、すいませんでした。もう大丈夫みたいです。ありがとうございました」
舞はニッコリ笑顔で丁寧に頭を下げて、倒れて動かない匠を介抱できそうな髄求堂まで運んでくれた観光客に礼を言う。
観光客も大丈夫だと言う舞と匠のやり取りを聞いて解散していった。
「お兄ちゃんはもうここで待っててええから。ゆっくり休んでて。一人でお寺に行ってくるわ」
「でも」
「大丈夫!」
そう言い残して舞はチケット売り場に行ってしまった。
匠は空を見上げてみた。
坂道を登っていた時の黒い雲は、雨が降る様子ではない。
雷も鳴りそうにない。
でも雷は確かに三重塔に、自分の目の前に落ちたのだ。
なのに、他の人たちは知らないと言う。
あの眩しい光と轟音を知らない…。
見上げると匠の目にはまだ曇り空が広がっていた。
だが、周りの人は良い天気だと言っている。
「皆、この空が良い天気に見えるんか?俺の目がおかしいんか?どこに青空が見えるんやろ」
確かに、匠以外の人には真夏の青空が広がっているのだ。
所々に白い小さな雲が平和に吞気に浮かんでいる。
だが、匠だけ違う景色が見えているらしい。
「彬様はいつになったら狩衣姿でこちらに来ていただけるのかしら?」
清宗の娘の唯姫はつまらなそうに彬に聞いた。
狩衣とはこの時代の普段着のことだ。
唯姫の夫となって二年にもなるというのに、妻の元を訪れるときはいつも直衣姿で常に畏まっていた。
それが唯姫にとって面白くないのだ。
「妻を訪ねるのに、何故?」
「いや、…もし、ばったり清宗様にお会いしても良いようなきちんとした衣装をと考えていたら、こうなってしまうのですよ」
「ほらまた上司の娘だと思って話してる!彬様は彬様のご両親ともそのような話し方をしているの?違うでしょ?」
彬に詰め寄ってくる唯姫は、とても愛くるしい。
姫特有の上目遣いでの物言いは、誰であっても甘えさせたくなるような、さすが都で評判の美しさ。
「申し訳ございませ……申し訳ない。内大臣家の姫と私では、身分のつり合いがとれぬと思ってしまって。私の妻となって、後悔していまいかといつも…気になっている」
「後悔などしてないわ!こんなに素敵な殿方がわたくしの夫となってくださったことに感謝しているの」
ニコリと笑って彬を見い詰める唯姫の瞳に噓はない。
「そう…か。そう言ってくれるとは思っていなかった」
「お父様も心配しているの。いつになったら実家と同じようにくつろいでくれるのかと」
「清宗様が?!」
「ええ。だから、狩衣姿を早く見せてくださいね」
「……分かりました」
「あら、また口調が戻りましたね…」
「ああっ!すまない!」
「もう、許します。…フフフ」
笑ってくれた姫は野に咲くユリの花のように可憐だった。
「次に会えるのはいつになるのかしら…」
「明日は宿直だから明後日かな……」
彬は自分の予定を思い出す。
「あら、ご実家にはお戻りにならないのですか?」
唯姫付きの女房の小蔦が、彬に酒を勧めながら尋ねてきた。
「家に用事はなかったと思う。着替えたら直ぐに戻る」
「まあ素敵!姫様は随分と彬様に思われていらっしゃいますね!小蔦も彬様のような殿方に出会いとうございます!」
「小蔦!はしたないですよ」
「申し訳ございません、姫様!でも、お二人を拝見しているととても羨ましいです」
「ははは」