第1楽章 5節目
千夏が帰った後、優子は冷蔵庫の中のトリュフを一つまみ、取り出して食べる。
甘さの中で、かけられた抹茶パウダーの苦味が、口の中に広がった。
優子自身はハジメくんと同様にノーマルなチョコの方が好きではあるが、美味しく出来たのではないだろうか。
(それにしても、嫉妬コントロールねぇ)
千夏が甘い話の他に、まぁ甘い話ではあるのだが、優子に質問したことがあった。
「ゆっこは、昔イッチーくんと恋人同士だったわけじゃない?」
「うん、そうだね」
「じゃあさ、やっぱり、嫉妬とかした? その、イッチーくんモテてただろうし」
「そうだねぇ、嫉妬か…………うん、嫉妬はあまりなかったかな? いっくんが今のいっくんになったのは、結構後の方からだし、違和感、みたいなものはあったけれど」
「違和感?」
「うん、違和感……ごめんね、私もあまり、うまく言葉にできるわけじゃないんだけどね、あるべきところに、そうあったはずのものが、形が変わったっていうか」
中学生にしても、高校生にしても、成長なんて当たり前にする。
夏休みを明けただけでも、顔立ちだって、体格だって、変わる。
中身はあまり変わっていないけれど、いっくんのそれは劇的だった。優子は、その変化の速度についていけなかったのだ。優子といっくんの関係は変わらないままに。
だから、あまり、嫉妬という言葉では表せないものだと、そう思う。
しかし、昔から見ているという点では変わらない家族にすら伝わらないのだ、高校で初めていっくんを見た千夏たちにはもっと伝わらないことだろう。
そう思った優子だが、それでもなんとかしっくりくる言葉を挙げるとすると、違和感になるかな、と説明した。
「違和感、かぁ。難しいなぁ…………ごめんね、うまく共感っていうか、理解できなくて」
「ううん、私もうまく言えてない自覚あるから大丈夫だよ、気にしないで。とはいえ、全然相談の回答にはならないね…………まぁ、正直、二人は問題ないと思うけどなぁ」
少し申し訳無さそうな千夏に、そう笑って優子は言って、そして付け加えるように感想もいう。
本当に、少しくらいの嫉妬で、ハジメくんが何かなるようには見えないし、千夏の嫉妬なんて可愛いものだと思っていた。
「………………そうかな。変に嫉妬ばっかり、してないかな」
なのに、そんな風に不安げに言う千夏が、完全に恋する女の子で。
「絶対大丈夫よ、恋する女の子、しかも美少女なんてこの世で最強なんだから」
これに勝てる女子はそうはいないと、改めて優子は根拠とも言えない確信を持って太鼓判を押したのだった。
◇◆
「姉ちゃん、もう友達帰ったの? ……お、めっちゃ甘い匂い。チョコ? 食べて良い?」
「いいけど、手洗ってからにしなさいよ…………って、いっくん?」
ガチャガチャと音を立てながら、ドアを開けて入ってきた弟に続いて、そっと入ってきた幼馴染に、優子は意外に思って声をあげる。
仲は悪くないとは言え、恋人ではなくなってからは家に来ることもそうはない。
正確に言うと、親同士は仲が良く、ちょっとした料理のやりとりやお土産の交換はするため、運搬員としてどちらも来たり行ったりもするものの、玄関で終わるため部屋の中に来ることがないのだが。
「……これ、下に届けるはずのうちの野菜なんだけどさ」
そう言って、なかなか重たそうな野菜がたくさん入ったダンボールを見せた。そのまま、よいしょ、とキッチンの近くの所定の場所に置く。
「伝票も一緒に入ってるよっておじさん達にも言っておいて」
「うん、わかった。でも店にじゃなくてこっちになの?」
いっくんの家は、八百屋をしている。
このスーパーからコンビニからでどこでも野菜を買うことができる中でも、完全地域密着型としてそこそこ繁盛しているらしい。当たり前のように、優子の家の取引相手である。
「ちょうどそこで将大に会ったけど、流石に部活の帰りでダンボールは持てなさそうで、一応下にも回ったんだけど、お客さんが急に入ったみたいでおじさんもおばさんも上にお願いっていうから持ってきた」
「そう、ありがとう」
いっくんの言葉に、そこはかとなく両親からのさりげない――と本人たちは思っているであろう――意思を感じるが、素直にそこは礼を言う。
多分、ダンボールの大きさを見るに、優子だと一苦労だっただろうし。
そうしているうちに手をさっと洗ってシャツを脱ぎ捨てて着替えてきたであろう将大が戻ってきた。
いっくんと優子が話しているのをそれぞれ見つつ、いっくんに声をかける。
「いち兄も部活終わったんでしょ? 久々に一緒に狩りにいかね?」
「お、いいじゃん。…………あー、優子、ちょっとお邪魔して良い?」
いっくんが将大に答えつつ、優子に伺いを立てるのに首を振って――――。
「良いわよ、許可取らなくて…………あと」
はい、とお皿に先程固まったチョコを乗せたものと、冷たいお茶をお盆に載せて手渡す。
義理ですらない、バレンタインデーとも言えない、チョコレート。
ゲームをするならお供にどうぞ、と差し出したそれを見て、いっくんはこれ以上無い笑みを浮かべて言った。
「ありがとう、優子」
「……ううん、弟の相手、よろしくね」
肩をすくめてそう答える。
二人が部屋に入っていって、優子は再度、チョコレートを見る。
元々チョコレートなんて渡すつもりではなかった。
いや、こんなもの渡したとも言えないだろう。
偶然、千夏の手伝いで作って、少しばかり、自分の摘む分と、あとは父親や将大の分を取っておいただけ。
偶然、いっくんが家に来て、将大と遊んでいくお供にあげただけ。
偶然、用意のあった抹茶パウダーで、せっかくだからと味変をしてみて、それが、昔から知る幼馴染の好みであるだけ。
いや。最後は偶然とは言えないのはわかっている。
でも、何を思って、優子はそうしたのだろう。自分で自分の心が、行動が、わからない。
偶然がこうして重なって起きてもなお、自分がそれを本当に求めていたのかもわからなかった。自分に向き合えない心の有様を、先程の千夏の姿と、いつも真っ直ぐに見える早紀と比べてしまう自分が居て――――。
「………………」
ふう、とため息をついてもう一欠片、チョコレートを摘んで口に入れる。
「……やっぱり、少し苦いよね」
そんな呟きは誰にも聞こえずに、宙に消えた。