第2楽章 37節目
イッチーという男は、物語の主人公のような人間だと、よく付き合う前は思っていた。
相手から別け隔てなく接してくるとはいえ、自分とは住む世界が違う。
そう、思ってすらいた事もあるのに。
(やべぇ、ちょっと面倒くせぇぞ……おい、上木、下山、あれなんとかしろよ、お前らのほうが付き合い長いだろ?)
(無理無理、お前のほうが彼女とだって面識っていうかさ、グループって感じなんだから頑張れよ)
今、和樹は部活仲間と共にイッチーという男の相手を譲り合っていた。
何故か、それはイッチーについての新たな一面が開花しようとしているからだ。
本名は佐藤一。色々なことが合った末に、イッチーと呼ばれ。そしてこの春に無事に片想い状態だった幼馴染と恋人同士となった。
容姿端麗、運動神経抜群、学業優秀と美辞麗句を並べても、その全てで納得のいく男。
だが、才能はもちろんあるのだろうが、努力もかなりしているのを和樹も皆も知っている。
努力すれば必ず報われるとは限らないが、成功したものはすべからく努力しているとは、某有名ボクシング漫画の名トレーナーの台詞だが、見ていてその通りだと思わされる。
性格も良い。
少々ヘタレだと和樹ですら感じる部分はあるものの、基本的にはやるべきことはやる。
そして何より嘘をつかない。というか、発言に深い意味はなく、言いたければ言うし、気になった事は素直に聞く。
そんな男が、念願の彼女とうまくいっているとなると、どうなるだろうか。
「いや、テスト勉強とかも久々に隣で出来てさ、何ていうの? 何かがって訳じゃないんだけどめっちゃ良くてさ。もう、ヤバい」
そもそもは、テストが終わって久しぶりの部活で、下山がテスト勉強とか一緒にしたの? と聞いたところから始まった。
最初はちょっと苦笑いしながら聞いていた和樹達だったが、とどまることを知らないイッチーの惚気なのかなんなのか分からない言葉達に食傷気味だ。
超人と思われていたやつも、恋愛が絡むとただのアホになるようだ。
それが和樹達バスケ部二年生メンバーの総意だった。
◇◆
和樹とのやり取りは早紀の中で日常になりつつある。
最初は本を借りた感想を打っていただけのようなものだったが、和樹の返信が早い事もあり、あれこれとくだらない話題も意外とやり取りが続くようになっていた。
『(和樹)でさ、バスケの練習以上に何か疲れた。ハジメの無自覚な惚気とは何か別の甘ったるさというかさ』
今も、ぐでっと溶けたようなゆるキャラのスタンプと一緒に和樹からのメッセージが来ている。
早紀は、ベッドの上に仰向けに転がりながらスマホを見て、昨日の続きからで何となく始まったやり取りに、ふっと口元を緩めていた。
(全くこいつはさ、それを私に今日の部活笑い話として投げてくる辺りがなんていうか……)
『(早紀)あんたね、それを私に打つとはいい度胸してるわね』
その思いのままにそう打った後に、少し可愛目の、プンスカと怒っているスタンプを送る。
実際怒っている訳では無いけれど、まぁ何だ、何も言わないのはそれはそれでというところ。
『(和樹)え? なんで?』
なのにこれだ。
早紀は再びくすりと息を漏らしてしまう。
一応振られてからまだ3ヶ月といったところなのだけれど、それだけ早紀がもう大丈夫だと思われているのか、そもそもそこに思い至っていないのか。
まぁ悪意がかけらも無いことだけは信じられる。
尊敬。そんな言葉で自分を評されると、むず痒くて仕方がないのだけど。
『(早紀)……あんた、私が春休み前に何をしてどうなったか知らないとは言わせないけど』
少しだけ、意地悪のようにそう打ってみると、既読がついたまま、少しの間が空く。
こんなのは甘えみたいなものだとは思うものの、でも、何となく、嫌われることが無さそうな安心感みたいなものがこういう言葉を打たせてしまう。
イッチーに打っていた時には、文面を何度も変えては、送った後もドキドキしていたのに、ちょっと誤字ってもそのまま打ってしまえる和樹との関係との落差がひどかった。
(でも、なんかこういうのも良いなぁと思うよね。それがまたちょっとからかわれる原因なんだろうけど……変に壊したくないのよね)
そんな事を早紀が考えて居ると、メッセージじゃない音がした。
ん? と思って早紀が見ると、和樹からの着信だった。
ただの通話なのに、癖でさっと横になってバラけていた前髪を整えて、電話をとる。
「もしもし?」
早紀がそう出ると、一拍の間の後に、和樹の声が聞こえてくる。
「すまん、完全に俺、空気読めてなくて」
物凄く申し訳なさそうと思っているのが伝わってくる声だった。それを聞いて、早紀の中にも、罪悪感やら、変な笑いやら、そしてどこかぬるま湯のような温かさがやってくる。
「……冗談だから」
溢れそうな笑みを堪えて、それだけ言った。
「マジ?」
「うん、マジ……って言うか、この話題をさらっと送りつけてくるなぁと思ったのはホントだけど、本気で怒ったりしないわよ。私は優子の友達でもあるんだからね?」
「……はぁー、良かったぁ。俺マジでやらかしたかと」
「ないない。……ごめん、こっちこそそこまで気に病ませるつもりは無くて」
「咄嗟に電話しちまったけど、でもうまく文字で謝れる気もしなかったし。あー、じゃあまたこれで――」
「ねぇ、今暇なの?」
そのまま電話を切ろうとしていたのを、何故か早紀は少し引き延ばすようにして止めた。
「ん? 俺? 明日の宿題やってないけど暇っちゃ暇」
「暇じゃないじゃん、明日って数学でしょ? テスト乗り切ったんだから頑張んなさいよ。私もまだだからこのまま繋げてやらない?」
「そりゃサボらないで済むから助かるけど、早紀は良いのか?」
「良いわ」
そして、イヤホンをセットして話したまま作業ができるようにして、起き出して課題の準備をする。
そういえば、顔も性格も男性的な好みからは外れてると思ったけど、声だけは好きかもしれないわね。
早紀は、そんなことをふと考えた自分に首を振る。
千夏のからかいに、ちょっと影響を受けているのかもしれなかった。
少しだけ、ほんの少しだけ。




