第1楽章 2節目
(……俺もこんな風に戻れればなぁ、とは言ってもいつに戻ればいいんだか)
石澤和樹は、これまで何もしてこなかったことを自覚しつつ、しかし何をすれば良いのかもわからず、スマホの中にある、後悔ばかりの人生から10年前に戻ってやり直して成功するパターンの物語を読みながらそんな事を考えていた。
『10年後にはきっと、せめて10年でいいから戻ってやり直したいと思っているのだろう。今やり直せよ。未来を。10年後か、20年後か、50年後から戻ってきたんだよ今。』
ネットに踊る、誰の言葉かもわからない言葉にも、ちゃんとその時は心が動かされはするのだ。
でも、じゃあ何をすればいい? そう思うと、何もできなくなる。積み上げたからこその輝きなのはわかっても、積み上げ方もわからない。
ここ数日は、何となく前まで一緒に行動していた友人と佐藤や他の連中の愚痴を言うのもつまらなくなって一人でいる。一緒にいてノリが悪いと思われるのも嫌だし、かといって同じノリになって笑える気もしなかった。
ひとまず何かをしている感を出したくて、サッカー部の練習や勉強を少し真面目にやろうとしつつも、当たり前のことながらすぐに効果が出るわけでもなく、和樹はよくわからない閉塞感に包まれていた。
「頼む!」
今日も今日とて、買ったパンを食べながらスマホを眺めていたのだが、ふと耳に入ってきた聞き覚えのある声に、和樹は顔を上げて声の方向を見る。
すると、同じクラスの佐藤に、少し見覚えのある体格の大きな男子生徒がその大きな体をこれでもかと縮こめるようにして頭を下げていた。
(…………あれは、板東先輩に、佐藤?)
「いやだから、一回断ったじゃないですか、僕は家の事情でバイトもあって、部活に入るつもりはないって」
佐藤がそう、困ったような顔で言って、では、と告げつつ和樹の後ろの席に戻ってくる。
だが、その後の相手の行動は佐藤にとっても意外だったようで。
「いや……何で当たり前のように付いてくるんですか。えっと、板東先輩、でしたっけ? 昼休みもうすぐ終わっちゃいますよ?」
「……こういうのは、わかってもらえるまで誠意を見せねばならんのだ」
「うーん、多分それは、一般的には誠意ではなく、押し付けと言います」
「く、確かに嫌がらせになりかねんか…………しかしな、一度練習に来てくれるだけでもいいんだ、何とか頼むことはできんか? アルバイトなど、色々家庭の事情があるのもわかっている。だが、俺はあの試合を見て、キミと一緒にバスケがしてみたくなった」
佐藤の淡々とした声と、先輩の大きな野太い声が対極に位置するようで、和樹は何となくどういう状況なのかを理解する。クラスの他の人間たちも、興味深そうに視線を向けつつ、納得の表情を浮かべていた。
「それはとてもありがたいのですが、でも、僕は今は部活をやるつもりはないんです。それに、イッチーにも言いましたけど、僕だけ毎日練習に行かないというのも、変に特別扱いのようで良くないでしょう」
「だが……部員はみんな納得している。三年生も冬で完全に引退し、俺の代は俺以外には中学からの経験者もいない、このままではさと……いや、イッチーにも申し訳ないのだ」
「……気持ちはわかりますけど」
先輩の熱意に、佐藤が引き気味だった。
そして、和樹は声につられてそちらを見てしまっていたため、先輩が困ったような顔で周囲に視線を向けた結果、目が合ってしまった。
「……お? おお? お前、石澤じゃないか!! 久しぶりだなぁ」
「どうもです……板東先輩もお元気そうですね」
正直、気づいて欲しい状況と相手ではなかった、それに、クラスメイトからの視線も痛い。
自業自得とはいえ、和樹はクラスでは浮き始めていた。そんな和樹が先輩ににこやかに話しかけられているのに、奇異の視線が交じるのは普通の事だった。
視線を浴びることなどほとんどなかったが、こういう視線は刺さるように感じる。
「そうか、確か高校からはサッカー部になったんだったな。残念だが……そうだ、お前からもクラスメイトのこの佐藤に薦めてやってはくれんか?」
「いや……あの……」
良いことを思いついた、と言いたげな先輩に、上手く答える事もできない。
何と言えばいいのか、貴方の後輩は、かつて目の前の男子を馬鹿にして、後悔しているのに謝る事もできない情けないやつですとは言えなかった。
「ふむ……サッカー部のやつらには怒られるかもしれんが、お前も中学で辞めずに三年間やり遂げたんだろう? 気が向いたら、いつでもバスケ部にも顔を出してくれて良いんだからな! …………と、すまん、次の授業は移動なのだった、では佐藤、また来る!」
「……あの、何度来ていただいても答えは変わりませんが」
「また、来る!」
そう言って、嵐のように場を荒らして、板東先輩はドスドスと去っていった。
先輩は、中学の頃のバスケ部のキャプテンで、周りにつられてさぼり気味だった和樹にも色々と教えてくれた人だった。空回りすることも多いが、キャプテンらしいキャプテンだったと思う。決して上手くは無かったが。
(変わってないなぁ、先輩)
「…………石澤って、バスケ部だったの?」
立ち去った方向を見て、そんな事を思い出していたからか、その後の佐藤の言葉に反応が随分と遅れた。
「………………え?」
まさか、自分が話しかけられるとは思っても見なかった。口から変な声が出る。
「あぁ……いや、何でもない、ごめん」
ポカンとした和樹の顔を見て、何を思ったのか、佐藤が気まずそうにそう言って、謝りの言葉を告げる。それを聞いて、和樹の心に訪れたのは羞恥心と憤りだった。
「何で佐藤が謝るんだよ…………謝るならそれは、絶対に俺のほうだろうが」
そんな言葉が口をついて出ていた。
「……石澤?」
そんな和樹を意外そうに見て、佐藤が和樹を向き直る。
それに、よくわからない感情が沸き起こるまま、和樹は言葉を吐き出した。
「…………ごめん、すまなかった。謝ってどうなるものでもないけど、本当にごめん。今までの全部、佐藤に謝りたかったんだけど、何て言っていいかもわからなくて」
どう言葉を紡いでも、和樹の口からは軽い言葉しか出てこない。語彙もなければ、繰り返すように思ったことを言うだけ。
それでも、一度謝っておきたかった。後ろの席にいるのに、無視される怖さから話しかけることもできずにいたが、突然やってきた機会に、今しかないと、和樹は謝罪していた。
『言う相手が違うんじゃないの?』
そう言われてその通りだと思ってから、時間だけが過ぎてしまっていたけれど。
相手に与えられた機会に、こんな形で、どうしようもなくダサいのはわかっていた。でも、何も言えないままダサいのと、言ってダサいのであれば、言わないといけないと思ったのだ。
「…………」
佐藤は、そんな和樹を呆気にとられたように黙って見ていた。
(まぁ、そうだよな。自分のこと馬鹿にしてたやつが今更なんだって話だよな…………ほんと俺、ダセェ)
だが、和樹がそう自己嫌悪に陥っていると、佐藤はふっと笑って――――。
「石澤に名前呼ばれるのは初めてかもしれないね。…………許すよ。気にしてない、とまではいかないけど。僕の中で、正直怒り続けるほどでもないしさ、普通に名前を呼んで、普通に喋ってくれればそれでもういいよ」
そう言った。
和樹は、はっと下を向いていた顔を上げて、佐藤を見る。
佐藤は落ち着いた表情で和樹を見ていた。何故だろう、その言葉が全く嘘には聞こえないのだ。どうして、こんなに佐藤の言葉は――――。
ありがとう、そう和樹が言おうとした時。
「……石澤あんたさ、皆が皆、そうやってすぐ許すとは思わないでね、ハジメは優しすぎるのよ」
そんな声がかかった。
振り向くと、南野が腰に手を当ててこちらを見ていた。
「千夏? まぁまぁ、本気で謝ってくれてるみたいだったしさ、僕もクラスメイトと変に揉めたくないし」
「もう、ハジメがそうやって怒らないから、変なのが湧くんでしょう!?…………優しいのは良いところだけどさ」
「…………南野も、すまなかった。彼氏のこと、あの時も馬鹿にした言い方で、その後の噂も、ごめん」
南野が怒っているのを、佐藤がやんわりと窘める。
でも、南野が怒るのも尤もだと思った。だから、少し今話しかけるのは怖い気持ちもあったが、それだけ言葉にする。
「……大体何で今なのよ? どうせハジメの試合見て、その後の皆の態度とか見て、日和って謝ったんでしょ? 周りに応じてそうやって態度変えるのも――――」
南野はずっと文句を言いたかったのだと思う。
和樹が向き合わなくて逃げていたから。そして向かい合ってまで文句を言うその価値も無いと思われていたから、言われていなかっただけで。
だから、ただ謝って、文句を言われようと思っていた。
「…………千夏」
でも、佐藤がまた、南野を止める。ただ、一言だけその名前を呼んで。
「ハジメ?」
「あのさ、大丈夫だから。怒れないとかじゃなくて、本当に怒ってないだけだから。…………千夏が、無理に僕の代わりに怒ろうとしなくていいんだよ? ありがとうね」
佐藤がそう言うと、南野の怒ったような雰囲気が一瞬で霧散した。そして、佐藤の顔を見つめるようにして、和樹を見ることもなく、一言だけ言った。
「石澤、ハジメがこう言ってるから…………納得いかないとこもあるけど、うちも許す。でも、二度はないし、許したからって急に友達になるわけでも無いから」
「あ…………ありがとう」
和樹がそうお礼を言うのを、今度は南野が少し意外そうな目で振り向いて、小さく頷く。
そして気がついたように付け加えた。
「あ、でも、うちがハジメと話している時には、話に入ってはこないでね」
「…………っくく」
それに何とも言えない表情になった和樹の耳に、南野の後ろにいた櫻井が吹き出すのが聞こえた。
少しだけ、緊迫したような空気に包まれていたクラス全体が、穏やかな雰囲気を取り戻す。
そんな周りを気にせず、主に南野からだが、何やら甘い空気を醸し出した後ろの席の二人から目をそらしつつ、和樹は席を立った。
もうすぐ昼休みは終わるが、何となく居づらい。せめて、座席くらいは貸そう、そう思った。
「……とりあえずまだ評価は最低のままだけど、咄嗟にお礼くらいは言えるようにはなったんじゃん?」
廊下に向かうために歩いて、すれ違い様に言葉がかけられた。藤堂だった。
何か答えを求めたわけではないだろう、でもそんな言葉をかけてくれた藤堂に、軽く、でも感謝を込めて頭を下げて、和樹は外に出た。
転生だとか、タイムリープだとか。
そんなありえないものを期待するよりも、ただ一言言っただけで、気のせいかもしれないが、少しだけ前に進めた気がした。
「バスケか…………ちょっと、顔出してみようかな。いやでも、サッカーって決めたのにそんなにふらふらとしていいもんか……」
尤も、どちらが前かすら、和樹にはわかっていないのかもしれないが。