第2楽章 18節目
その電話がかかってきたのは、祖父と話したすぐ後の事だった。真司は、電話をかけてきた相手のような不思議な感覚は持ち合わせていないが、何故かその時はスマホに映る見慣れたはずの名前にどこか不穏なものを感じる。
祖父の部屋を出て、自室に戻る途中で電話を取りながら真司は答えた。
「もしもし佳奈か、どうした?」
それに数瞬の間が空いて、佳奈は唐突に言った。
「あのさ、真司…………あたしら、別れようって言ったら、真司はどうする?」
「っ……? 何の冗談だ?」
真司は咄嗟に答えることが出来ず、問を返してしまう。
「答えて」
でも、この時の佳奈は間合いを許そうとしなかった。
静かに、でも有無を言わさない口調で問う。
「…………」
別れたくはない。
そう言おうとした口が、自分の思った通りに開かなかった。
そんな筈はない、と真司は自分に愕然とする。これまで一度たりとも、自分の身体が自分の思い通りにならなかったことなど無かった。
脳裏に過るのは、祖父との対話。
自分に、別れたくないと言う権利があるのかなど、あまりにもらしくない問いだった。
しかしその自問が、間が、今のこの瞬間においては、何かを決めてしまうものとなった。
「…………そっかぁ、あたしの中では結構、勝ち目のある賭けだと思ってたんだけどなぁ」
「……賭け? 一体何を言っている? いや待て、佳奈、お前どこにいる」
妙に声が近い気がした。
あの祖父が釘を刺すように動いた。そうすると全てを家のためにしている父が、果たして静観したままだろうか、大事な事は言葉に出来ない癖に、それ以外の事については、脳内で様々な事が急速に構築されていく。
「あのね、真司。あたしさ、色々話を聞いたんだ。その…………真司のお父さんから」
「…………何だと?」
「真司がさぁ、色々抱えてるんだろうなぁとか思ってはいたんだけど…………少しくらいはその重荷軽くしてあげてられるかなぁとか思ってたんだけどね、まさか自分も重荷になってたかぁって感じだよね」
「おい佳奈…………くそ、違うぞ? お前のお陰で俺は――――」
「ふふ、あたしって電話越しだと嘘か本当かはわかんないんだけどさ。さっきの無言も、そして今真司が焦ってるのはきっと本当だねぇ、でも言葉は少し嘘?…………あはは、本当は少し、嘘ってわかるのが怖くて電話にしたんだけど意味なかったなぁ。そっかぁ」
「佳奈?」
「ねぇ真司、今までありがとう。そして電話でごめんね。あたしらさ、別れよう…………真司は真司のすべきことっていうのがあって、あたしはきっとそれに着いていってあげられないみたい」
そして、通話が切られた。
すぐさま通話をコールする。繋がらない。
佳奈の言葉の背後で、エンジンの音がしていた。
エンジン音なんて同じものかもしれないが、少なくとも真司の耳には聞き慣れた音として聞こえた。
父と話をしたと言っていた。あの父が赴くとは思えない。であればこの家に呼び出したはず。であればこれは。
真司は走り出す。
正しいとか家とか、そんな事は消えて、ただ。
◇◆
予想通り、家から繋がった車庫の中に佳奈はいた。
シャッターが開き、雨の音とエンジン音が響いている。
「真司? うわぁ、電話にした意味ないじゃん…………走って女のところに来るなんて、らしくないよ?」
今にも乗り込もうとしていた車の前で振り向いた佳奈は、真司を見て、どうしようもなく寂しそうな顔をして言った。鹿島が運転席からこちらを見ている。でも構うものか。
いつも、柔らかい表情でぼんやりと笑い、でも時折本質を突くような事を言って驚かせてくれる。
真司が言葉を選んでいる間に、直感的に踏み込んで触れてくれる。
そんな、合理の世界に生きていた真司に変化を齎してくれた彼女に、そんな表情をさせているのが、どこまでもくだらないと理解しながら縛られたままの自分で。
「佳奈、行くな」
「……でもさ、真司。今迷ってるでしょう? 嘘でも本当でもなく…………家の事とか、会社の事とかさ、あたしには分からないこともいっぱいあったけど」
「親父に何を言われたのか想像がつく、でもな――――」
「ううん、それだけじゃないよ、真司」
「……佳奈?」
佳奈は真司の言葉を遮るようにして、首を振って告げる。
その瞳は決して誰かに言われたからなどというものではなくて、意思を込めたものだった。
こうして直接話した以上、真司の中にあるこの迷いも、嘘も、真実も、言葉から伝わっているのかもしれないが、真司には佳奈の心の内がまだわからない。
「いっぱい、すんごく難しい理由とかがあるのは理解るよ。でもね、真司、あたしは言ってほしかったんだ。信じて欲しかったって思っちゃったんだ」
「…………それ、は」
「真司はさ、そう言ったらあたしが離れちゃうかもって思った?」
「…………」
真司は答えられなかった。
でも、佳奈はそれを見て、わかったように、寂しげな表情をして。
「ふふ、ねえ真司? 知ってた? あたしさぁ、ちゃんと話してくれたらその、二番目でもよかったくらい好きだったんだよ? それでね、去る者は追わずとか、とっかえひっかえって言われてた真司だけどさ、もうさ、自分は違うって思っちゃってたんだよね」
そう言って、佳奈は微笑んだ。
「…………違う」
そう呟くようにした声は、急に強くなった雨の音にかき消される程度にしか響かず。
「自分でさ、うわ重たって感じ………………でも、こんな風にお父さんからなんて聞きたくなかったよ真司。こんな風に変に困っちゃった真司を見たくはなかった…………このままじゃ駄目なんだなぁって、思ったんだ…………だからね、ばいばい」
そう言って、佳奈はそれ以上の言葉は不要と車に乗り込んだ。
鹿島が運転する車が、雨の中を走り去っていくのをただ、真司は無意識に伸ばしていた手にも気づかずに、しかし前に出ることの無い足と共に見送っていた。




