第2楽章 15節目
相澤家に生まれた慎一郎と真司は、昔から神童として噂されていた。
どちらも幼少からあらゆる分野において、家につけられた教師を唸らせていたし、それでいてそれを鼻にかけることもなく、将来は安泰だと言われていた。
物語に出てくるような不出来な兄と優秀な弟でも、優秀な兄と不出来な弟でもない。
どちらも優秀で、それでいて兄弟仲も悪くないとくれば、安泰とも言われるものだろう。
尤も、性格はずいぶんと異なり、慎一郎は優しく穏やかで、真司はどこか怜悧で達観していた事から、使用人の中でも慎一郎が後継となり、真司が補佐をすることで隙がないと噂されていたものだ。
それが現実とならなかったのは、一年と少し前のこと。
かつて真司が受けた、とあるテストに原因があった。
それは、元々数年に一度、監査であったり、グループ内の流動性を維持するために行われる人事を流用したものだった。
まず、いくつかの業界の中で相澤の家が経営に深く関わっている企業において、業績の判断要素となりうるデータが用意される。その中で取捨選択を行い、より業績を向上、あるいは改善させるためにはどうすればいいかの判断を行うためのもので、実地の経営学とでもいうべき、家業として経営を継ぐ事が定められている家では往々にして行われているものだ。
本来この時の対象は慎一郎であったが、中学までで様々な教育がなされた集大成として、真司も同じ内容で結果を示すことを求められた。
勿論テストはテストだ。それがそのまま反映されるわけではないはずだった。
だがその結果で、真司は15歳という歳にして、非常に優秀な結果を出すことになる。
いくつかの相違点はあるものの、祖父の判断との類似性が非常に高かったというべきか。
過去の同業他社の業績データ。市場の動きから為替、流行、世界的な経済の指標。採用状況から、主だった責任者の家族構成まで。独自のアルゴリズムでデータ分析された結果と、基となるデータ群。
真司は淡々とその中から必要と感じた数字を洗い出し、俯瞰し、判断し、そして切り捨てていった。
そして、祖父はそんな真司を見て、何故そう思ったか、何故そう思わなかったかについていくつかの質問をし、最後に褒めた。
真司はこの頃から、どこか虚しさを心の中に飼っていたが、自分の判断が間違っていなかったと、当主である祖父にも認められた事は嬉しいと思う気持ちがあったことを覚えている。
だが、その後の後継の交代については全く想定すらしていなかった。
当時の真司は正しいものを正しく選んだだけだと思っていたし、兄である慎一郎にも同様の事は当たり前にできると判断していたからだ。いや、事実そのはずだった。
だが、数年前の慎一郎はそうではなく、判断をいくつか誤っていたのだと真司は祖父から聞き、そしてその結果を実際に真司は見せられた。
確かにそれは真司から見ても誤りだった。引き延ばす必要のない事業を切り捨てず、将来性がないものにも現状維持に留めていた。それも、研究のための投資などでは無いものについてだ。
――――何故?
その時の真司にはわからなかった。
理解したのは数ヶ月後。相澤の家が理事を努める高校に進学し、少し過ぎた頃だった。
一つの家族が一家心中を行ったというニュースが流れた。
春にある事業が縮小されたことによって、その事業を行っていた母体自体は赤字を出した程度で済んだものの、その家族、というかその父親が経営していた中規模な工場にとっては致命的とも言えるタイミングだった。
これからというところで、賭けに出て家を担保に借金を行い、設備投資をしてその事業に軸足を置いたところであったという。
真司はそれを、ふとしたニュースで知った。
そして、そう至るまでの動線が全て見えた時に、何故、の答えが見つかった。
責任なんてものは存在しない。
ビジネスにおいて、リスクヘッジを行わずに賭けに出て負ける事はありうるし、経営者として一流ではなかったということだ。
真司の中の正しさを判断する心は、今でもそれが正しいと判断していた。不要な情報だと。
だが同時に、慎一郎は想像が出来ていたのだろう。
数字の先にある『誰か』の事を。
他にもいくつか、当時何故と思った事業は、数字上でもどこかで無理をしていると判断されたものだった。
それは確かに、経営においては不要なものだ。
だからこそ、祖父は真司に選ばなかった理由を聞き、真司は当たり前のように答えた。
『その程度の判断しか出来ない人間ならば、入れ替えた方がいいでしょう?』と。
それは合理という意味では正解だった。
本心からの答えと、その先の事を想定している真司の答えに、祖父は満足したことだろう。
今でも数字の上では、真司の出した答えは正しいものであり、結果として高校一年生ながらにいくつかの事業について関わりを持っている。
だが、『この工場は畳むことになり、職を失うだろう』という想定まではしていても、その先を真司は考えていなかった。
想像できなかったのではなく、不要な思考だと切り捨てていたのだ。
それこそが、慎一郎ではなく真司が後継として認められた理由。
そして、一番恐ろしいのは、数字の先を想像できるようになってなお、それが『正しい』判断だと思ってしまう自分だった。
◇◆
「ワシが言いたいことはわかるな?」
宗全の言葉に、真司は頷いた。
真司の周囲の事など、佳奈の事などとうに調べはついているだろう。
だから宗全はこう言っているのだ。
真司に何が合理的かを改めて自覚させた上で。
『そろそろ時期が来るから、身辺を整理しておけ』と。
真司がこのまま相澤を継ぎ、兄である慎一郎は芸術の世界で名を成すか、真司の補佐を行う。
法乗院との婚姻によって家と家の結びつきを強固にし、次世代へのリスクヘッジとすること。
それが家にとっては取りうる『正しい』手法であることはわかっていた。
だから、割り切っていたつもりだった。
来るものを拒む必要もない。所詮家を、外見を見てよってくるならばそこまでの思い入れもない。
去るものを追う必要もない。いずれ失うのならばと。
あの日、声をかけられるまでは。
ぬるま湯のような暖かさに包まれている間は、虚しさが無くなることを知るまでは。
欲しいものが何かはわかっている。
だが、それを手に入れるためには、今真司の中にある『正しさ』よりもより強い理が必要となる。
家を捨てるという選択肢も無くはない。
そう真司が決めたのであれば、祖父も家も、意思がないものに継がせようと思うほど甘いものではないだろうし、追われるようなこともない。
だが、真司の頭の中で、その選択肢は現実味は薄かった。
どこまでいっても、真司は相澤の人間なのだ。
何でも出来ると言われていた。
手に入れようと思えば、他人より多くの物をに手が届く立ち位置にあるだろう。
でも、その理だけは、思いつかないままに、決めなければいけない時が、迫ってきていた。




