第2楽章 14節目
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真司は一呼吸置いて、その見た目以上に重々しい扉を開けて部屋へと入った。
部屋の中には華美なものは何もなく、持ち主の嗜好を象徴するかのように、非常に実務的な内装となっていた。
客間は逆にセンスが悪くない程度に相当なお金をかけられていることが、理解るものには理解る作りになっているが、ここは外のものは入らない相澤という家の主の部屋。
真司の祖父の居室だった。
「久しぶりだ。態々呼び出してすまなかったな、真司」
「いえ、こちらの都合で時間を取れなくてすみませんでした」
かけられた声に、真司はそう謝罪する。おそらく普段通りの口調で話しても、目の前の祖父は表情を変えないだろうが、敬意を払う相手には真司は基本的には言葉にも表すことにしていた。
元々もう少し早めに話は来ていたのだ。だが、最初の日程が真司の新学期が始まった後すぐの全国の模試の時期と、休み明けテストの時期に被っていたため、少し時期がずれて新学期から三週間程経った頃になったのだった。
そんな真司に向けられる二組の視線を、真司はその身で受け止める。
正面の机に座るのは、彫りの深い顔立ちをした、綺麗な白髪を後ろ手にくくった壮年男性だった。特別背が大きな訳では無いし、威圧感のある体格をしているわけではない。
だが、眼は細いが、そこから放たれる眼光は鋭かった。それも尋常ではない強さだ。大抵のものが、目の前に立つことで萎縮する様をこれまでに幾度も見てきた。
真司は、その瞳に宿る確固たる何かを感じ取る度に、飲み込まれまいと抗いながら目をそらさぬ様に立つ。
相澤宗全。
60歳を過ぎても老いというものを感じさせない。相澤という家のみならず、様々な系列の家業をまとめる会長職を勤める真司の祖父だった。
そしてもう一組の視線。
こちらは打って変わって柔らかい眼差しだが、その容姿は対象的に威圧感を与えうるものだった。
宗全の脇に常に控えるその老人は立っていることもあって背の高さがよく分かる。そして燕尾服に包まれているその体躯からは、内に秘める筋肉を隠しきれていなかった。その割には宗全に比べ気配が薄いのは、本人の性格によるものか、それとも宗全の気配が強すぎるものか。
相澤玄徳。
秘書と護衛、実務的な補佐すらも兼ね、宗全の従兄弟であり幼少からの付き合いだという彼は、真司にとっての護身術の師でもあり、自分の祖父よりも余程親近感の湧く相手でもあった。だが個々にであればともかく、祖父と共にいる時の彼は油断ならない相手でもある。
そんな二人が揃って直々に父をも飛び越えて真司を改めてこの部屋に呼ぶ意味。
いくつか思い当たるが、真司は既に嫌な予感に襲われていた。
「法乗院の孫娘と同級となったと聞いた」
「…………ええ、そうですね」
この切り出し方で、話の内容の想像はついた。
同時に、真司にとっては、仕事や学業についてよりも余程勝ち目の薄い戦いであることも悟る。
「婚約の件。お前はどう考えているか述べてみてくれるか」
改めてそう問われる事自体は意外だった。
今更と言えば今更だ。
「今後、というよりは既にですが、インターネットの普及以降、時代は加速しています。AIについても、過去から幾度となくブームは訪れ、今また改めて波が来ています。この波がどうなるかはわかりませんが、近い将来ビジネスの在り方が大きく変わる事は間違いないでしょう」
まず真司は基本的な事柄から述べる。
祖父は、こういう問答の場合は段階を踏む事を好む。祖父にとって結果を出すのは前提だ。故に、その結論に至るまでの思考をこそ重んじている。
そこに理があるかどうか。理の無い失敗は許さず、理のある失敗は成功のための糧とすべき。その合理性があるからこそ、真司は祖父に対しての敬意と嫌悪を併せ持っていた。
「続けてくれ」
「はい。そしてこの時代の加速は、情報量の増加と相関を持っています。音声から文字、文字から動画。その情報の密度と量が増やせる環境が構築され、益々時代の加速度は増しています。それはどのビジネスにも影響を与え、その速度に枠組みが追いついていない状態から更に加速が進む事への危惧が懸念となっています。相澤の家のように、特定の分野ではなく、様々な分野の複合から成り立っている商家においては特にリスクが高まっているでしょう。勿論、同時にチャンスでもありますが」
「…………」
無言は今のところ、何も不満は無いということだろう。尤も、可ではあるものの優では無いのだろうが。
「御存知の通り、中でも一番追いついていないのは法整備です。仮想通貨を資産とするか金銭として扱うかによって税金の対象が変わり、先んじて法整備を行ったこの国では、広がっていく仮想通貨技術に作った枠が合わなくなる問題が既に出ています。インターネットの法整備ですら完璧とは言い難い現状の中、今後も問題は時代の加速とともに相乗的に増えていくことでしょう」
「そうだ。実際にここ数年で既存の法律の枠組みの中で、過去の事例が使えず法解釈の判断に委ねられる件が幾度も出てきている。法乗院とは個人的にも関係を深めたいが、今はあくまでビジネスの関係とワシとあちらの当主の縁でしかない。次世代においてもその縁が続くかと言うと絶対とは言い切れないところだ」
「はい、そのための婚約である事。ひいては読めぬ未来の中で双方の血を引く人間が継ぎ、旧家双方が血縁となることでどちらにとっても良縁と成りうると判断されたということは認識しています」
相澤の家に対してだけではなく、法乗院側の後継と目されている玲奈の兄に当たる人物もまた、相澤と関係のある家の令嬢と婚約をしていた筈であった。
――そんな事はわかっている。何が正しいかなど、言われるまでも無く理解をしている。理解していると分かっているからこそ、あんたらは俺を選んだんだろう?
そんな真司の内心の言葉が聞こえたかのように。
宗全は頷き、続けて問う。
「では当然、ワシが真司、お前を後継に推した理由も理解しているな」
真司はその首に、少しずつ見えない手が巻き付いてくるのを感じていた。
先の質問に加えてのこの問いも、『正解』など分かっている問いだ。それを今改めて真司に言葉にさせる意図。
当たり前だが、宗全が兄である慎一郎を嫌っているなどという感情論ではありえない。
むしろ、兄の事を気に入っているだろうことが、この質素で合理性に満ちた空間に唯一飾られている絵が示していた。
「相澤の家にとっての利益を最大限にするためですね、それ以外には無いかと」
過去の事実から、真司の方が向いていると判断された。それだけだ。




