第2楽章 5節目
「今更だけど良かったの? ちゃんと話をしなくて…………その、あまり会えてなかったんでしょ? 本当だったよ、お兄さんの言葉」
「…………そうか」
佳奈の言葉に、真司はそれだけ答えた。
あの後、慎一郎と少しだけ会話した真司は、マスターに会計をお願いして、佳奈と共に店を出ていた。
そして、いつも通りというわけではないが、佳奈の住む家に転がり込んだのだった。
ここは1LDKの普通のアパートだ。
最初に訪れた時、女性専用でもなければ、オートロック付きでもなく、マンションとは呼べない古さに女性の一人暮らしにしては不用心なのではないかと思ったものだが、お風呂が広いのとキッチンが三口あるのが完璧だよね、とふわりと笑って言った佳奈に、まぁ急に住み始めた訳じゃないしなと思い直したものだ。
後、何度か通ってみると、隣に大家の老夫婦が住んでいて、スーパーも近いため道も暗いわけではない。オートロック付きではないとは言え部屋の鍵自体はしっかりしているし、確かに風呂は広かった。
真司の家に比べれば何もかもが狭いが、でもこの狭さが好きだと言うと、佳奈はにこやかに、そうだねぇすぐくっつけるからねと笑う。
「正直意外だったかも、凄く優しそうなお兄さんだったねぇ」
「そうだな、似ていないとは言われる」
「でも、真司の事ちゃんと大事に想ってくれてるみたいだったし、それに真司もお兄さんのこと大好きでしょ?」
「…………」
「無言はYESと判断します……まぁ、話したくないなら無理にとは言わないけどさ」
「すまんな、別に軽く扱ってるわけじゃ――――」
佳奈の言葉に真司が少し言い訳がましい事を言おうとすると、ぴとりと佳奈の人差し指が唇に当てられる。
「わかってるよ」
そこまで言うと、佳奈は膝立ちになってぎゅっと真司に抱きついてきた。
そのまま自らの胸に真司の頭を埋めるようにして包み込むようにする。
「何でかさ、寂しい時とかモヤモヤしちゃった時は心臓の音を聞くと良いんだよね……」
「佳奈……」
「さっきも言ったけど、気になる事は言葉にしちゃうけど無理には聞かないよ? でも、本当にそれくらいしか出来ないかもしれないけど、あたしはいつでも真司の話を聞く準備が出来てるからね…………何て都合の良いお姉さんなのでしょう、感謝してね」
「……ありがとうな」
直接的に伝わる柔らかさや温もりと、冗談めかしたようで心情のこもった言葉に対して、真司はそれだけ告げる。
「えへへ、真司が素直に甘えてくるのはレアだねぇ。せっかくだからこのままお話してようか、それとももうベッドにでも行く? 今日はお姉さんが甘やかす日にしてもいいんだよ?」
「…………」
何か反論しようかとも思ったが、何も言葉は出てこなかった。
『良い子じゃないか。僕のせいもあって、色々と考えていることもわかるけど、やっぱり最近の真司は凄く柔らかい雰囲気になったね……僕はそれが嬉しいよ』
『兄貴……』
『また今度話そう、今日はいきなり会ってしまったからね』
店を出る時に、久々に慎一郎とはそれだけ会話した。
言葉に嘘が無いのだと、佳奈が言っていたのは素直に嬉しいと思う。
(兄貴との関係の事、家の事、婚約者の事。そろそろ話さないといけないのだろうな)
このまま無理に聞かないという言葉に甘え続けるわけにもいかないとはわかっている。それでもずるずると引き延ばしているのは、家に関わらせたくないというのが一つと、それ以上に今の関係性を失いたくないという我儘だとは自覚していた。
◇◆
薄く目を開くと、いつもの天井。そして隣に自分ではない体温を感じた。
あの後少しおしゃべりをして、寝る場所に行って少しばかり仲良くして、二人で眠りについたのは覚えている。
(……うー、まだ夜だ。もう一回寝よ)
微睡みから少し覚醒してしまった佳奈は、スマホで時間を確認しつつ、隣で眠っている真司を見ながら、穏やかな気持ちになっていた。
昨晩は珍しく真司が成されるがままに胸に抱かれて静かにしていて、ポツポツと話をしたが、ああして弱味のような、何かを深く考えている状態を見せてくれるようになるまでも中々に時間がかかったものだ。
佳奈はそれなりに容姿は優れている方だと自覚している。
時間も機会もあった十代の頃から程々の男性経験もあった。当然だけれど、十人十色とはよく言ったもので、特徴は皆違って全く同じような人間なんていない。
でも共通していた点はあった。シたい時の嘘と本当、シた後の嘘と本当。欲望と言えば汚く聞こえて、愛と呼べば綺麗にも聞こえるけれど、ある意味純粋な本能のようなそれは、男性特有の普通かと思っていた。
それが悪いと思ったことも特に無かった。
する前の口当たりのいい言葉の中にも、本当はあるし、した後の態度でも嘘もある。
ただ、真司はどちらもあまり変わることは無い。優しいばかりじゃ勿論ないのだけれど、不思議と奥底の優しさは感じ取れる。そんな彼だから余計に好きになったし、正直深みにハマってしまっている自覚はあった。
背中を向けて寝ている真司の短髪を撫でるようにして、無言の時間を楽しむ。
(気にはなるけれど、それで失っちゃうくらいなら何も聞かなくて良いっていうのは本当なんだけどな)
ふと、お姉さんぶってアドバイスなんてものをした、最近できた年下の友人たちの事を思い出す。
(千夏ちゃんはハジメっちともう夫婦感出してるからね…………もう初めても済ませて、最近も順調みたいだし、何ていうか良い子二人の組み合わせは嬉しいよねぇ)
ふふ、と含み笑いをして、真司の友達が良い子達で良かったなぁと思う。
(そういえば、優子ちゃんはどうなったのかなぁ。色々と複雑そうだったけれど、うまくいくと良いな、今度連絡……も結果次第では聞きにくいよねぇ、それとなく千夏ちゃんに聞いてみようかな)
佳奈自身は高校を辞めてしまって、今更に友人の恋バナというものが出来るようになるとは思っていなかったが、確かにこれは楽しいものだった。
「…………っ」
真司が髪を触れられている感触からか、もぞもぞと寝返りを打とうとして、こちらを向いた。
整った顔立ち、大人びた表情、何かを常に考えている眼差し。
そんな真司も、寝ている時は歳相応の男の子の表情を見せる。
(こんな時間がずっと続いたらいいんだけどな……)
叶う気もするし、叶わないような夢の時間の気もするそんな願いを、信じてもいない何かに想いながら、佳奈もまた、再び眠りにつくために目を閉じた。
少なくとも今ここにある体温は、確かなものだった。




