第2楽章 4節目
「驚いたな、真司が来ているとは思わなかった。……ふふ、隣りにいるのは恋人さんかな?」
こちらを見て、いつも通りの穏やかな笑みを浮かべた慎一郎が発した言葉に軽く頷いて、真司は慎一郎が抱えているキャンパスをを見た。
「マスターの店に飾る絵を?」
「うん、年度が変わるから新しいものが欲しいと依頼を受けてね……マスター、いつも通り奥に持っていくと良いのかな? それとも、今は他にお客さんもいないみたいだから合わせてみる?」
「そうですな……」
慎一郎が真司の質問に軽く答えながら、マスターに対して慣れた態度で聞くと、マスターもそれに対して悩む素振りをする。
それを見て、真司は告げた。
「気にしないでくれ。何だったら合わせてもいいだろう。今日は気を遣って他の客を入れないでくれているのだろう? 兄の件は敢えてなのかはわからないが……」
「いえいえ、少し早い店仕舞とさせていただいただけですよ。まぁ慎一郎様は今週のどこかと伺っておりましたので、こうしてお会いできたのは偶然ですな…………ではお言葉に甘えます」
そして、ずっと何かを言いたげにこちらを見ている佳奈に振り向く。
「挨拶したいな! 真司って全然家族の話しないし、お会いしたこともないから」
にこにこしながら、想像通りの言葉を発した佳奈に、真司は
「……好きにしろ。兄貴なら喜ぶだろうし、大丈夫だろうからな、でも邪魔はするなよ?」
「え? 一緒に見に行かないの? 絵を飾るところ見ようよ」
「……いや、俺は用を足したら後で行く、先に見に行っててくれ」
そう言って、佳奈を置いて真司は先に立ち上がり、トイレへと向かった。
慎一郎との兄弟仲が悪いわけではないし、今でも尊敬している。そして慎一郎もまた真司を弟として可愛がってくれていた。
ただ、佳奈にも感づかれているだろうが、今の真司には整理出来ていないことがある。
トイレ内に入り、真司は鏡に映る自分を見る。
高校に入る前に、真司は祖父と父によりある選択をテストとして示された。
その時の真司は躊躇う事もなく、正しいと思う事を選び、そしてそれは祖父達にとっては満足のいくものだったらしい。
『お前は兄とは違い、傑物と呼ばれた父、お前にとっての曽祖父にそっくりだ。能力的にも容姿としても申し分ない。家はお前が継ぐがいい』
祖父が告げた言葉を、今でも真司は一言一句思い返すことができる。その一言で、真司と慎一郎の立ち位置は入れ替わることになった。
後に、慎一郎はその選択を迷い選ばなかった事を知った。そして、選択の結果が齎したものを識った。
能力が足りなかったのは、想像力が足りなかったのは、自分の方だ。
数字を数字としか思わない即断が老人達の好みに合っただけ。
尤も、それだけではなく、慎一郎と真司の適性についても見抜いてはいるのだろう。
兄の才能がわからず、経営について、金についてのみ考えているようなレベルであれば救いがあった。
旧くから続き、芸術に金を出すこともある人間たちがそんなに甘いわけではない。
兄は芸術方面で活躍し名前を売り、弟には家業を継がせて次代へと繋ぐ。
それが『家』としての現時点でのベストだと判断した結果だろう。
真司にとってもそれは理解できている。理解した上で、整理できていないのは、祖父や父が言うところの一時の感傷に過ぎない事も。
慎一郎がどう思っているかも、家の都合で婚約者が切り替わった事を受け入れているように見える昔馴染みの事も。分かっているようで理解ることなどないのだろうと、自覚している。
(…………兄貴は、佳奈と居ることをどう思っただろうな)
らしくない事はわかっていた。
家の為という明確な問いに対してどうすべきかの正解はわかっても、感傷に起因するこの答えのない問いの答えはわからないまま、もう一年が過ぎようとしている。
◇◆
「おや、絵を見に来てくれたのかな? ふふ、若い子に見てもらえるのは嬉しいですね」
少し遠目に近づいてみると、それに気づいた真司の兄という人にそう言われて、佳奈は目の前の青年をまじまじと見た。
(えっと……真司のお兄さんって事は、流石にマスターみたいな歳じゃ、無いよね?)
先程年齢詐欺にあったばかりだ、20歳の自分と比べてあまり変わらないのではないかと思うが、「若い」と言われると不安になってしまう。
「慎一郎様も変わりないでしょうに、その言い方は誤解を生みますよ?」
表情で佳奈の考えていることを読み取ったのか、マスターがくっくっと口元に手を当てて笑う。
それにはっとして、佳奈は挨拶をした。
「あ……すみません、えっと、春崎佳奈って言います! 真司くんとお付き合いさせていただいてます、二十歳の大学生で、真司くんよりだいぶ歳上なんですけど、よろしくお願いします!」
「これはご丁寧にありがとう。僕は相澤慎一郎、真司の兄で、21歳の大学生です。真司がお世話になっているみたいで、お礼を言わせて下さい」
「え? いえ、こちらこそいつも真司くんにはお世話になってばかりで、お兄さんに会えてとても嬉しいです…………それに、わぁ――――」
被されていた布を取り払ったその絵は、言葉を失わせるに足るものだった。
少なくとも佳奈には、この絵に対しての評価が思い浮かばない。
美しい絵だった。
陽射しが柔らかく差し込む木々の下で、5組の男女が楽器を演奏している。
とても静かで優しい、でも不思議と奏でられている音楽が聞こえるような。
「……注文以上ですね、流石は慎一郎様です」
「マスターにそう言ってもらえるとホッとするね。春崎さんも気に入ってくれたみたいで良かったかな」
「あたしは正直芸術とか絵は全然わからないんですけど、この絵は凄いなって思います、綺麗で、静かで、音楽が聞こえるみたいでとても素敵。…………ふふ、流石は真司のお兄さん、優しさが何だか伝わってくるみたいで」
そう佳奈が絵の感想を何とか言葉にして伝えると、慎一郎はとても嬉しそうな表情をして言った。
「あの真司がこのお店に連れてくるんだから、どんな子なのかなと思ったけれど……改めてありがとう、あの子自身を大事に思ってくれて」
「え? いえ、あれで真司は物凄く大事にしてくれるので……」
「ふふ、だとしたら兄としては本当に喜ばしい事だよ…………家の事もあって、個人として見てくれる子は貴重だろうから。これからもよろしくね」
その言葉には、嘘が含まれていなかった。
つまりは真司は本当にそう願われているということで。
「ええ、こちらこそです!」
だから佳奈は、そうはっきりと答えることができた。
佳奈は、真司の家の事は知ってはいるが知らない。
凄い旧くから続いている、大きな家なのだとは知っているけれど、家族のことも、家の事情のことも、真司からは聞いていなかった。
正確には一度だけ話した事がある。
『あまり聞くな、俺はお前を嘘と虚飾にまみれた世界に連れていきたいとは思わない』
でも、真司にそう言われて、その言葉には一切の嘘が無くて、佳奈は何も聞かないことにしたのだった。
だからこそ余計に、佳奈は真司の家族である慎一郎の言葉が嬉しかったのだ。




