第2楽章 3節目
「こちらをどうぞ」
地下にあるバーのカウンターで、佳奈は恋人である真司と並んで座っていた。
落ち着いた雰囲気の中で、店の奥にある一角の舞台で演奏されている静かなジャズの音が心地よく流れている。
そんな中で、随分と若く見えるのに、驚くほど品のある落ち着いたマスターにそっとカクテルを差し出されて、佳奈はお礼を言って手元へとグラスを引いた。
「ありがとうございます……あはは、チョコレートのお返しなのに随分と豪勢。ありがとうね真司、めっちゃ嬉しいよ」
そして真司にも向き直って満面の笑みを浮かべると、真司は少し目を細めるようにして答えた。
「……視察のついでだ。まぁホワイトデー当日に出来なかったのはすまんが、ここはいい店だから許してくれ」
「ふふ、真司様にそう仰って頂けると光栄です…………それに、女性をこちらに連れて来て頂けるのは初めてですからね、そういった意味でも嬉しく思います」
「余計なことを言うマスタ―がいるから減点にしておくか?」
「おやおや手厳しい、では私は壁の一部となっておりましょう……ではお嬢さんも、何かあれば申し付けくださいね」
気安いやり取りをしている二人に、佳奈は意外さを持って視線を向けていた。
――――真司は少しの嘘と本当。そしてマスターさんは、本当。
佳奈の感覚では、人の言葉には、常に強弱はあれど嘘が入り交じるように感じる。
基本的に様々な人は様々な嘘とともに生きていた。それが佳奈のいる世界の色合い。
だからこそ、真司とマスターの関係性が上辺だけではないことを感じて、嬉しくなった。それはきっと、また一つ佳奈を内側に入れてくれているということだろうから。
真司と出会った時の事は覚えている。
言葉の強さ、見かけの強さ、孤高でいるようでどこか寂しそうな背中。
噂は聞こえていた。
来る者拒まず去る者は追わずの、イケメンの御曹司がいると。
でも初めて見て、本当にそうなのかな? と疑問に思って声をかけてみた。
『うーん、随分と寂しそうだなぁって。もしかして興味ないって言われたの、嫌だった?』
『別に』
それは綺麗で空虚な嘘だった。
とても寒々しくて、思わず抱きしめてしまいそうになるくらいの。
一目惚れとも違う、でも放っておけないと思った。
それからいくつかの言葉と共に、押しかけ彼女のようになった佳奈の事を、真司は意外な程に大事にしてくれた。いくばくかの時間を過ごして、真司の友人達とも知り合って、せっかくなら同じ高校生をしてみたかったなぁと不可能な妄想も浮かびつつ、真司にとって良い関係を築けているようで嬉しく感じる。
もう今では放っておけないなどという感情ではなく、一人の男性として真司を好きになっていた。
佳奈にとって初めてだったのだ、欲望の色をちらつかせる嘘でも、期待をちらつかせる嘘でもなく、どこか寂しくて優しそうな嘘の色を感じて、共にいても気持ち悪がりもせず、それでいて自然体で接してくれる真司のような人は。
その内包する嘘も優しさも。
「どうした? 気分でも悪くなったか?」
「……ううん、マスターさんと仲がいいんだなぁと思って考え事してた」
「まぁ、俺の教師の一人だったからな」
佳奈の言葉に懐かしむように、真司はそう言った。
「教師?」
思ってもいなかった単語にそう聞き返しつつ、グラスを優雅な仕草で拭いているマスターを見る。
とても教師だったようには見えない。
「あぁ、教師とはいっても学校とかそういうのじゃない。家につけられた家庭教師というやつでな、ああ見えて芸術家でもあり、芸事や礼儀作法はマスターから習った、その時からの縁だ」
「へぇー! でも真司の家ってことは、凄く大きいとこでしょ? それに呼ばれるってことはマスターもすごい人なんだ」
佳奈が感嘆の声とともに、マスターに視線を向けると、彼はふふ、と口元を緩めるようにして言った。
「いえいえ、偶々縁があったというだけでして。でもお陰でこうして夢が叶いました」
「夢?」
「ええ、この店が、私の夢の場所です…………ジャズとお酒、そして料理を楽しむことができる隠れ家のようなお店を若い頃からずっとやってみたかったのですよ。その手助けをしていただいて、代わりにご子息の幼少期の教導役を努めさせていただいたわけです」
「うわぁ、素敵ですね。だからここは、こんなに良い雰囲気のお店なんですね」
「…………ふふ、若くて綺麗なお嬢さんにそう言って頂けると、嬉しいですね」
「え? でもマスターさんも十分お若いですよね?」
ふとマスターの言葉に疑問を覚えて佳奈がそう言うと。
「いや、マスターはもう50歳近いはずだぞ。俺の兄貴にも教えていたはずだから、うちの家でそういう事を始めていたのも10年以上前のことだ、俺でも5年前になるか」
「ええっ!?」
今日一番の驚きだった。どう見ても30代前半、下手したら20代後半にも見えるんだけど。
「まぁ確かに、マスターは出会った頃から外見が変わらんからな…………お前が驚くのも理解る」
「ふふ……そういえば、最近慎一郎様とは会っていますか?」
くっく、と笑う真司と驚く佳奈を微笑ましそうに見て、マスターが思い出したかのようにそう言った。
「いや……最近はあまり顔を合わせられていない、どちらも忙しくてな」
(あれ? 真司にしては少しだけ珍しい、誤魔化すような色?)
少し煮えきらないような真司の言葉と感覚に、佳奈が内心首を傾げていると。
「……そうですか、ではもしかすると――――」
マスターがそう呟いて、そしてカランカラン、と入口が開く音とともに、長身の男性が大きなキャンパスを持って入ってきた。
「やぁマスター、頼まれてた壁に飾る作品、ちょうど仕上がったから持ってきたよ…………あれ? 真司かい?」
「……兄貴」
柔和な雰囲気でマスターに話しかけたその男性は、どうやらまさに今会話に出ていた真司の兄のようだった。




